第9話 ベンチ
「勝てるかな」
練習試合の相手は、高野中学だ。高野中学は、去年の新人戦優勝チームだ。その後の地区予選では、三坂中学に敗れて3年連続の県大会出場を逃していた。
「地区予選は、俺らが勝ったじゃないか」
ユウマが、弱気になるチームメイトに喝を入れるように言った。
「そうだけど、あっちは去年とほとんどメンバーが変わっていないからなぁ」
バスから降りてくる高野中学の選手たちは、皆、険しい顔をしていて、目が血走っているように見えた。
「顔に、打倒三坂中学って書いてあるみたいだな」
ダイチの言葉に、ユウマが笑みを見せた。
「どうせ去年は、まぐれだったんだろ」
高野中学の一人の選手が、ハルトの横で足を止めた。体つきは大きく、がっちりとした体型で、同じ中学生とは思えない。負けるものかと、威圧感を出してハルトを睨み付けていた。彼は、新人戦でハルトに競り負けたディフェンダーだ。もちろん、ハルトだって黙っていない。
「まぐれでも、県大会にいけないヤツらよりましだろ」
鼻で笑うハルトの態度に、ディフェンダーは苛立ち、大きな声を出した。
「覚えとけよ!」
高野中学にとって、格下の三坂中学に負けたことは屈辱だったに違いない。特に、県大会ベスト4進出の立役者であるハルトの存在は、本当に腹ただしいものだったはずだ。次こそは、負けない。ボールを運ぶ控え組の顔にも、そう書いてあるかのように気合に満ち溢れている。そんな挑発にも全く動じないハルトは、浮足立っているチームメイトとは違って、どこかひょうひょうとして見えた。
試合開始のホイッスルが鳴る。
ケイシは、ダイチと一緒にベンチに腰を下ろす。ここから見える景色は、観客席より少しだけチームに近づいているような気がしていた。
「よし、絶対勝つぞ!」
グラウンドの中央では、ユウマがチームメイトの不安を吹き飛ばすように大きな声を張り上げて、手を叩く。
「おい、どうしたんだよ」
周りを見渡すケイシは、どこか落ち着かなく、ダイチは背中を二回叩いてきた。
「お前が緊張してどうする?どうせ出番はねぇよ」
試合に緊張しているだけではない。ユイが来ているかもしれない。そんな淡い期待を持っていた。
「わかってるよ」
ユイの姿は見えない。あんなことを言って嫌われたかもしれない。ケイシの胸は、チクリと痛んでいた。
試合の序盤から、相手は徹底してハルトを潰しにかかってきていた。ハルトへのマークは、強気なディフェンダーの他にも、もう1人ついているようだ。
「おいおい」
「マークがきついな」
先ほどの挑発で、高野中学はすでに戦闘モードに入っている。
相手の徹底的なマークに、ハルトは少し手間取っているようにも見えた。まだ本調子ではない。多分、それは一番、本人がわかっているだろう。
「ハルトが挑発するからだよ」
ダイチの言うとおりだ。高野中学の狙いはハルトだ。ハルトさえ押さえれば勝てるとさえ思っているのだろう。ボールは、なかなかハルトに繋がらない。
前半20分、チャンスが訪れる。相手のパスミスをカットしたユウマが、ハルトにロングボールを出した。抜け出したハルトは、それを受け止め、体を押し出し、前へと進んだ。ディフェンダーを一人、二人と抜いて駆け上がっていく。チームも一斉に攻めに転じていった。
「いけ!」
ベンチも皆、大きな声を出す。ハルトは必至に前へと進んでいった。きっと、一番勝ちにこだわっているのはハルトだ。と、パスを出そうとしたその一瞬、ボールを奪いにきた、あのディフェンダーの腕がハルトの顔を直撃した。
「あっ」
ケイシは思わず、声を出した。ハルトは、その場に崩れるようにうずくまっていった。
「おい!今のは汚いぞ!」
ベンチからも野次が飛ぶ。審判は、すぐに相手ディフェンダーにイエローカードを出した。うずくまったままのハルトに、審判が心配そうに声をかける。ハルトは、大丈夫だと合図をした。
「良かった」
相手ディフェンダーも駆け寄り、ハルトに手を差し伸べる。ハルトは、その手を思いっきり払いのけていた。
「あんまり、ハルトを怒らせるなよ」
ハルトを怒らせるとどうなるか。ケイシとダイチは、何度もその怖さを目にしている。試合中のハルトは猛獣だ。誰にも止められない。
その後も、ハルトに対する徹底したマークは、チーム全体を苦しめていく。何度も倒されては、審判の笛が鳴った。
「今、ユニフォーム引っ張っただろ!」
ベンチの声は、グラウンドには届かない。
「必死だな」
どうしても勝ちたいのだろう。高野中学のプレーは、少し強引に見えた。観客席には、高野中学のOBの姿も見える。声援が大きくなるにつれて、激しい戦いは続いた。
「なんだ、今日はやけに上手くいかないな」
ハルトへのマークがきついのは確かだ。しかし、それだけではない。ハルトの動きは、明らかに悪く見えた。ケイシの目から見ても、ハルトの体は重く、いつもの軽やかな感じはない。
「ハルトにはムラがある」
先輩達に、そう言われたことがある。ハルトは、その言葉を仏頂面で聞いていた。調子がいい時と悪い時の差は、ハルトが一番分かっているはずだ。
パスを受けたハルトは、ボールを奪われる。その直後、相手のディフェンダーに向かって、ハルトは激しくスライディングをかけてしまった。笛が鳴り、イエローカードが出る。ハルトには珍しいプレーだった。
「ここが、ふんばりどころかな」
坂田が、ポツリと呟いた。
結局、前半の大きなチャンスはあの一回きりだった。
「いいか、まだやれるぞ!」
ユウマは、ハーフタイム中もずっと声を出し続けていた。その声に、チームも大きな声で返事を返す。ハルトの表情は、どこか浮かない顔をしていた。
後半が始まると、相手に押されるシーンが多くなっていった。ベンチから戻れ、戻れ、と坂田の声が何度も聞こえている。皆の足も、次第に止まっていった。
その後、最悪な事態が起きる。後半15分、パスを貰おうと抜け出したハルトに対して、相手ディフェンダーが後ろから思いっきり突き飛ばしたのだ。
「またかよ」
ハルトの怒りは頂点だった。
「やばい」
ケイシの言葉と同時に、ハルトは相手のディフェンダーに向かって掴みかかっていた。
「おい、やめろ!」
ユウマがすぐに止めに入る。しかし、そんなことで止まるハルトではない。ケイシもダイチも、グラウンドに走った。
「さっきからお前、汚ねぇぞ!」
「何だよ、わざとじゃねーよ」
相手ディフェンダーも体を近づけて威嚇する。審判が間に入ると、相手ディフェンダーは落ち着きを取り戻したのか、ハルトからスッと距離を取った。
「おい、ハルト、落ちつけよ」
ケイシの言葉も虚しく、ハルトの怒りは収まらない。ハルトの体は、止めに入ったチームメイトを振り切って、審判に向かっていった。
「ふざけんな!どこ見て審判してんだよ」
その言葉を発した直後、審判がハルトに向かってレッドカードを出した。
「おい、おい」
ダイチがうなだれた。坂田が、ゆっくりとベンチから歩いてくる。
「下がれ」
坂田の言葉は重たく聞こえた。
「汚いプレーしやがって!」
坂田の制止にも、ハルトは言うことを聞かない。
「下がれと言ってるんだ!」
坂田は、ハルトをグラウンドから引きずり出し、そのままベンチに押し込んだ。ユウマは動揺するチームメイトの背中を叩き、試合に戻るように促す。ケイシもダイチも、坂田の後を追うように、ベンチに向かった。
「帰れ」
坂田は、低い声でそう呟くと、ユウマに向かってフォーメーション変更の指示を出す。ユウマは手を上げ、それに答えた。
「何でだよ!」
「おい、落ち着けって」
ケイシの言葉に、ハルトは反応しない。ベンチを蹴飛ばし、怒りを露わにした。
「帰れと言ったんだ」
坂田は、ハルトにそういうと、手を叩いて心配そうにしている選手にグラウンドに散らばるよう指示をした。
「俺がいないと勝てない!」
ハルトの一言に、サングラスをした坂田の目の奥が変わったような気がした。
「勘違いするな、帰れ」
冷静な口調で淡々とそう言った坂田は、ハルトの荷物をベンチから放り投げ、引きずり出した。ハルトは、子どものように、ただ泣いている。泣きながら立ち去る姿はまるで、幼い頃のハルトそのものだった。
人数が減ったのに、チームはさっきよりも動きが良くなったように見えた。
後輩達もハルトが抜けたことで、伸び伸びとプレーしている。何より、ユウマの懸命なプレーがチーム全体を引っ張っていた。
「おい、ケイシ準備しておけ」
後半42分、坂田の声が飛ぶ。
ケイシは驚いた。まさか試合に出られるなんて思ってもいなかった。
「何、緊張してんだよ」
ダイチが、ケイシの背中を力強く叩いた。
笛が鳴る。ケイシは、顔を二回叩いてピッチに立った。ふわふわした感覚がした。そう、プールの中で感じた、あの感覚と似ている。ハッとすると、ユウマの声がした。
「ケイシ!」
たった一度だけだ。流れるようなボールに触れ、ユウマに出したパス。このたった一つのパスが、ケイシにはとても特別なものに感じた。
試合は、その後、呆気なくコーナーキックからゴールを決められ、0対1で負けてしまった。高野中学は、勝ち誇った顔でグラウンドを後にしていく。
4試合連続で負けた現実は、チームに重たい空気をもたらしていた。ハルトがいないと勝てない。それは皆、わかっていた。
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