第4話 オレンジジュース

「何だよ」

「いいから!」

 ケイシは、ダイチに連れられ、グラウンドへ向かっていた。こういう時は、大抵面倒なことが起きる。ケイシは、そう思っていた。

 昨日の胸焼けがまた襲ってきそうで、ケイシは深いため息をついた。

 グラウンドに着くと、先輩達数名がハルトを囲んでいた。

「いい加減にしろよ!」

 そう言って掴みかかろうとしているのは、先輩ではなく、もちろんハルトの方だ。

「また、始まったか」

 ダイチが目で合図をする。ケイシは、気のない返事をした。

 ハルトは、先輩だからとか、そういう考えを持ち合わせていない。いつもは、ほとんど口を開かないのに、スイッチが入ると手がつけられないことを、ケイシはよくわかっていた。

「お前、先輩に向かって何だよ、その口の聞き方は!」

 真っ赤な顔をしているのは先輩だけで、ハルトはどこか涼しげな表情をしている。それが一層、先輩達を怒らせていた。

 ケイシより、少し遅れてユウマがやって来た。ユウマもすぐに状況を把握したようで、騒ぎの中に駆け寄った。

 ケイシの足は動かない。ユウマに任せておけば大丈夫だろうと、部室に戻ろうと背中を向けたが、ダイチの手が腕を掴んで離さなかった。

「なめやがって」

 ハルトは、周りをいつもヒヤヒヤさせる。

「先輩達は受験の合間をぬって、俺達の練習を見にきてくれたんだぞ」

 ユウマが、言った。

「練習の邪魔なんだよ」

 ハルトがさらりと言ってのける。

「おい!ハルト、失礼だぞ」 

 ハルトは、ユウマの言葉に耳を傾けるようなヤツではない。部活の時間は間違いなくずっと真剣で、だれよりも怪物だ。

「本当のことだろ」

「こいつ、ふざけたことばっかり言いやがって!」 

 先輩が、ハルトに掴みかかろうとした瞬間、ダイチに背中を押された。こういう時の尻拭いは、決まってケイシにまわってくる。ケイシは、一歩を踏み出すしかなかった。

「先輩、どうしたんですか」

ケイシは、バカなふりをして近寄った。

「お前、どうにかしろよ、こいつ」

 先輩の目は、明らかに苛立っている。この状況をどう収めるか、ケイシの頭はフル回転していた。

「ハルトなんてほっといて、今日は僕に教えてださい」

 出てきた答えは簡単で、自分が犠牲になることだった。先輩達の気を引いている間に、ユウマがハルトを引き離した。

 連携プレーのように、ダイチがハルトの腕を掴み、OKだと合図を送る。ハルトは、ダイチに連れられ、部室へと戻って行く。ハルトの後ろ姿は、まだ納得していないようだ。

「せっかく来てやったのに、何だよ。ハルトのやつ!」

 怒りが収まらない先輩達をなだめながら、ケイシは、ハルトと距離を取るように先輩達を誘導する。

「あっちでパス練習につき合ってください」

 その時だった。

「お前らに教わることなんて何もねぇよ!」

 ハルトが捨て台詞を吐いた。なんてことだ。ケイシの作戦をぶち壊すハルトが、とても憎らしかった。ダイチがハルトを無理やり引っ張り、部室へと連れていく。

「くそ!」

 追いかけようとする先輩達に、ユウマが深く頭を下げた。

「すみません。俺からも、よく言っておくので」

 こう言う時のユウマは、やはり頼りになる。何度も頭を下げるユウマの姿に、先輩達も納得するしかなかった。ハルトはいつでも、自分が思ったことを口にする。周りはいつも、そんなハルトに振り回されていた。

先輩達は、一通り体を動かすと何事もなかったように満足して帰って行った。ユウマが、「またぜひ指導しに来てください」と、言って見送った。


「ご苦労さま」

 ダイチの表情も疲れていた。聞くと、先輩達がふざけて遊んでいたサッカーボールが、何度もグラウンドに入って、度々練習が中断されることにハルトが腹を立てたようだ。

「ハルトの言いたいことも分かるんだけど、先輩達だって部活引退してさ、やることがないんだよ。あんなにはっきり言われちゃうと、こっちがどうしていか……」

 ユウマが困惑したように呟く。

 先輩達が帰ったと知ると、ハルトは平然とした顔でグラウンドに戻ってきた。

「本当、迷惑なヤツだよ」

迷惑な気持ちと、そういう態度に出るハルトに、少し感心している自分もいる。好きなことに夢中になって、言いたいことを好きなだけ言う。敵を作っても、知らないふりをするハルトのように、素直に生きていけたらどんなに楽だろうか。ケイシは、そんなことを考えていた。 

 ハルトは、幼いころから本気で嫌われるということがない。はっきりものを言うが、裏表のないヤツだと誰もが知っているからだろう。先輩達も、何日かすれば、またいつものように練習を見にくるはずだ。

「こっちの身にもなって欲しいよ」

 ダイチが呆れている。確かに、尻拭いさせられるこっちの身にもなって欲しい。ケイシは、感心していた自分を、心の中で一喝した。


「今年の目標は、地区大会優勝じゃない。県大会優勝だ」

 坂田の代わりに、ユウマが宣言した。ピッチの外で一番悔しい思いをしたのは、きっとユウマだ。ユウマは、ハルトにポジションを奪われ、ピッチ上で県大会出場を果たすことが出来なかった。先輩達の控えには、ハルトより先にユウマがいた。いつしかそのポジションは、ハルトの成長と共に変わっていった。 

 ユウマの口からは、文句や弱音は一度も聞いたことがない。いつでもハルトに笑顔で、「頑張れ」と、応援している。嫉妬という感情が、もともとないのではないかと思うほど、ユウマは穏やかだった。キャプテン選出の時は、文句なしでユウマに決まった。実力も経験もあるハルトより、ユウマは人望に長けていた。

「力を合わせて、勝ちにいくぞ」

「はい!」

 チームメイトも、ユウマの気持ちに答えるように腹一杯の声を出す。

 「お疲れ様でした!」

ユウマの掛け声に、部員が一斉に頭を下げた。

 部活が終わると、ハルトは、またボールを追いかけ、ユウマは部室の掃除を買って出る。「後輩が気を遣ってしまい帰れなくなるだろう」と、ダイチが言うと、ユウマもハルトも口を揃えて同じことを言っていた。「これは、俺が好きでやっていることだ」と。


「ただいま」

 家に帰ると母の姿はなく、買い物に出かけているようだった。ケイシは、子猫の様子を見に診療所に向かった。

「帰ったか」

 父は、足音一つでケイシだと分かったようで、後ろを振り向かずに、そう呟いた。

「うん」

 檻に入れられた動物達は、まるでケイシの帰りを待っていたかのように、愛らしい眼差しで見つめてくる。

「待ってたか?」

 ケイシは、一つ一つ檻の動物を撫でて回った。

「おい、あんまり触るなと言っただろ」

 父はそう言うが、ケイシには、動物達が嬉しそうに尻尾を振っているようにしか見えなかった。

「やっぱりここだった」

 入口から、母が診療所を覗き込んでいた。

「ちょっと」

 リビングに向かうと、母がとても嬉しそうにテーブルを指さした。

「同級生のお母さんから、写真貰って来たのよ。この間の県大会の写真」

 テーブルには、いくつもの写真が重ねられている。

「ほら、これ見て。ハルト君のシュート。上手に撮れていると思わない?ほら、こっちも」

 自分の子どもよりも、ハルトの写真に喜ぶ母の気持ちが、ケイシには少し理解が出来なかった。

「別に、見なくていいよ」

 ふてくされてみても、母は写真から目を離そうとはしない。ハルトの活躍は、小さいころから、自分の息子のように可愛がってきた母にとっても嬉しいもののようだ。ケイシは、見ていないふりをしながら、そっと横目で写真を覗き込んだ。そこにはゴールを決めた、あの輝くハルトがいた。

「やっぱり、ハルト君、いい男になったわね」

 ケイシは、思わず立ち上がる。

「どうしたのよ」

「ちょっと出かけてくる」

「どこに」

 向かう先はプールだ。こういう時はプールに決まっている。

「また出かけるのか」

 診療所から、父の声がした。ケイシは、何も答えずに玄関を出た。

 プールに通い始めたのは、1年ほど前だった。たまたま、ダイチと遅くまで遊んだ帰り道、プールの入口の戸締りに手間取っている杉山を見かけて、声をかけた。

 ちょっとボケてしまった老人が、不法侵入しているのではないかと思って近づいたとは、口が裂けても言えない。

「小僧、ちょっと手伝え。これが閉まらないんだ」

ケイシは、杉山が管理人だと分かるとすぐに手を貸した。門は錆びついてなかなか閉まらない。ケイシが、もう一度力を入れた瞬間、門はスッと動き出した。

「よし。閉まった。あぁ、また整備頼まなきゃいけないなぁ。小僧、待ってろ」

 杉山は、そう言うと、外にある自動販売機でオレンジジュースを買ってくれた。

「どうも」

 差し出されたジュースを受け取ると、ケイシはその場で一気に飲み干した。その姿をみた杉山は、大きな声で笑った。

「いい飲みっぷりだ。小僧、暇があったらここに来い。一回くらい、まけてやるよ。たまには良いぞ、ストレス解消だ」

 それから少し経ってから、ケイシは、ここに通うようになった。ただ、なんとなく気分転換ができる場所を探していた時に、頭に浮かんだのがここで、その日がハルトのレギュラー抜擢と重なったのは、たまたまだと思うことにしている。

「おぉ、来たか小僧。今日はサービスしてやる」

 ケイシは言葉通り、その日は3時間、プールに浮かんでいた。帰りに、会員になれと、杉山がしつこくいうので、ケイシはなけなしのお小遣いから、年会費の500円を支払った。今思うと、人がいないプールにまんまと勧誘されたのだと思っている。その日も、杉山はオレンジジュースを買ってくれた。

 

 自転車を止めて受付に向かうと、杉山が椅子に座ってくつろいでいた。会員カードを見せると、いつものようにロッカーの鍵を渡された。会員と言っても、割引されるのは10回利用したら1回無料だとか、その程度のものだ。一体、この会員証になんの意味があるのか、ケイシはよくわからなかった。

 プールに浮かぶと、また静かな時間が過ぎていく。電球が一つ、切れかかったままだ。胃の調子は、昨日よりは随分、良くなった。

「小僧、時間だ」

 杉山は、時間になるといつも覗きこむように顔を出す。それまでは、冷房の効いた事務所からガラス越しにケイシの姿を見つめている。そんな監視の方法があるかと疑問に思うが、一人の時間を満喫出来ると思えば、それはそれでよかった。

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