第3話 胸焼け

「お前が下手くそだから負けたんだろ」

 部活の時間になっても、ケイシは、ハルトとの勝負を引きずっていた。

 グラウンドには、帰宅する生徒らの笑い声と、部活に向かおうとはしゃぐ声が、賑やかに重なり合って聞こえていた。

「これじゃ笑いものだよ」

 ケイシの言葉は、その声にかき消されていく。

「なんだ、一度負けたくらいで情けねぇ。今日は調子が悪かっただけだろう」

 ダイチはいつも通りポジティブで、「そんなことは気にするな」と、ケイシの腹を掴んできた。

「おい、やめろよ」

 坊主頭を軽く叩こうと伸ばした手を、ダイチは払いのけるようにして、ケイシの右手を掴んだ。

「やったな、このっ」

「やめろって」

 ダイチの手を振り払って、ケイシが駆け出す。笑いながら、ダイチも追いかけてきた。

「ついてくるなよ」

 ダイチとこうやってじゃれあっていると、ハルトのことが少しだけどうでもいい様に思えてくる。

「おい。早くきたんだったら、たまには手伝えよ」

 振り返ると、制服の白シャツのボタンを一番上までしっかりと留めたユウマが、呆れた顔で立っていた。ユウマは、いつも真面目で正しい。

「はい、はい」

 手伝う気もないのに、ダイチが適当に返事をして、またケイシを追いかけてきた。

「まったく」

 ユウマは溜息をつくと、倉庫の扉を開け、ボールを運びはじめた。誰よりも一番にグラウンドに来ては、ボール磨きや備品の整備をする。1年生の時から、ユウマはずっとそれを一人で続けていた。グラウンドでも教室でも、ユウマはいつも優等生だった。

「痛ぇ」

 ケイシは、ダイチの尻を蹴り上げた。

「おい!後輩が真似するだろ」 

 今度は、強めにユウマの声がした。

「集まれ!」

 その時だ。サッカー部顧問の坂田の声が聞こえた。

「うわぁ。来た!」

 坂田は、とにかく怖い。グラウンドでは、決まってサングラスをかけ、キャップを深くかぶっている。まるで、馬券を買う中年男性のような風貌だ。坂田は、口数も少ない。そして、無表情かと思うと、突然、大声を出す。さすがに、ケイシもダイチも、坂田の前では大人しくしていた。

「今年は、県大会優勝を狙いに行く」

 坂田が、野太い声でそう言った。一斉に、はい、と声を出す。

 中学1年の夏、産休の代わりに赴任してきた数学教師が坂田だった。坂田は高校生の時、有名なクラブから誘いが来るほどサッカーが上手かったらしい。今では体系も崩れ、そんな面影は全くない。前の顧問は、坂田が赴任してくるとあっさりと顧問を譲った。体育教師だった前顧問は、武道が専門でサッカーの指導経験がなかったからだ。今では、のびのびと剣道部のコーチをしながら、「強くなったな」と、人ごとのように笑っている。

「練習も、今より厳しいものになるから覚悟するように」

 坂田の言葉に、ダイチはあからさまに嫌な顔をしていた。ケイシは堪らず、ダイチの腕を叩いた。

「おい、聞いてるのか」

 坂田は、眉毛を釣り上げている。きっと、サングラスの奥では、ケイシを睨んでいるのだろう。ケイシは、すぐに頭を下げた。

「なんで俺が、怒られなきゃいけないんだよ」

 ダイチはくすくすと笑っている。

 端に立つハルトは、坂田の顔を真剣な眼差しで真っすぐに見つめている。ハルトは、坂田によって1年生から、フォワァードとしてレギュラーに抜擢されるようになった。試合の出場経験がほとんどないハルトを、いきなりレギュラーに抜擢したことに反発する先輩も少なからずいて、部活の雰囲気はあまりいいものではなかった。しかし、ハルトは、すぐにチームにとってかけがえのない存在となっていく。ハルトの成長と共に、三坂中学は強くなっていった。

「1からのスタートだと思え」

 坂田が、厳しい口調で言った。県大会ベスト4を勝ち取った主力メンバーは、ほとんどが3年生で、受験に向かって引退していった。残りはハルトと、補欠メンバーとして、ハルトにポジションを奪われたユウマだけだ。

「次は、俺らの代だぞ」

 ユウマは、よくそう口にする。ケイシは、その言葉を聞いても、どこか上の空だった。自分には、そんな力がないことをどこかで分かっていたからだ。

 

 練習が終わると、ケイシはダイチを誘って、またコロッケ屋にいた。いつもの様に買い食いをしながら、好きな音楽の話やアイドルの話をする。ダイチはたまに、海外のサッカー選手のモノマネをして、ケイシを楽しませていた。

 帰りに学校の前を通りかかると、グラウンドには、灯りがついていた。目を凝らして見ると、その中にボールを追いかける人影が見える。

「あれ、ハルトじゃねぇか」

「本当だ。まったく良くやるよ」 

 ハルトは、ボールに囲まれ、グラウンドの奥でシュートの練習をしている。周りには、誰もいない。

「今日の仕返し、してやろうぜ」

 ダイチが、笑った。悪い顔をしている。

「見てろよ」

 ダイチは、気づかれないように、ハルトの後ろに転がっているボールを、そっと一つ取って戻ってきた。ボールを蹴ろうとするダイチを、ケイシは制止した。

「ちょっと待て。俺に蹴らせろ」

 ケイシは、ダイチからボールを奪うと、思いきりボールを蹴り飛ばした。今日のことを面白くないと感じていたのは、ダイチよりもケイシの方だった。ボールは、綺麗な放物線を描きながら、見事にハルトの背中にぶつかっていく。

「お前、こういう時だけ絶妙なコントロールを発揮するな」

 ダイチが、驚いていた。

「こういう時だけは、余計だよ」

 ハルトが、振り返ろうとした瞬間、「隠れろ」と、急いで木の後に身を隠した。ハルトは、誰もいないことを不思議がり、辺りを見渡している。しばらくすると、諦めたのかハルトは首をかしげて、また練習を始めた。

「次は、俺だ」

 ダイチが、また、ボールをこそこそと取りに行く。

「見てろよ」

 戻ったダイチが、また悪い顔をして笑った。

「いけ!」

 ダイチが蹴り上げたボールは、空高く舞い上がる。

「あっ……」

「ヤベっ」

 ボールは、綺麗にハルトの頭目がけて落下する。ダイチが、狙ってないぞと目配せをした。すると、気配に気がついたハルトと目があった。

「バーカ!」

 ダイチは、引き下がれなくなったのか、大きな声を出してからかってみせた。ハルトは、ムッとした表情になり、ケイシたちに向かって走り出す。

「逃げろっ」

 ケイシとダイチは、その場から急いで逃げ出した。全速力で走ると、ダイチのスピードは思ったよりも速く、ケイシはいつのまにか遅れを取っていた。

 数百メートル走った後、後ろを振り向くと、ハルトの姿はなかった。

「あぁ、すっきりした。ダイチ、あいつの顔みた?」

「ざまぁみろ。いい気味だ」

 ハルトが悪い。ケイシは、自分に言い聞かせていた。

「あぁいうのでムキになるところが、ハルトの可愛いとこだよな」

 そう言うと、ダイチが笑った。

「じゃ、また明日な」

「あぁ」


 家に戻ると、窓の外から診療所にいる父の姿が見えた。父は、とにかく働くことが大好きな人間だ。診療カードには、受診時間も休診日も記載されていない。いつでも、運ばれてくる動物のために、診療所を解放していた。そのせいか、ケイシは小さい頃から父と一緒に遊んだ記憶がほとんどない。唯一、記憶に残るのは、誕生日にサッカーボールを買ってくれたことくらいだ。その日は遅くまで、公園でサッカーをして遊んだ。父と遊んだ記憶は、その一回だけかもしれない。

「あら、早いわね」

 母は、診療所の受付をしながら父を支えている。

「うん」

「ハルト君は、まだ練習しているんでしょ?」

「そうみたいだね」

「あんたはいいの?」

「俺?俺はいいよ、別に」

 ケイシはそう言うと、靴を脱いだ。どこで汚したのだろう、少しだけつま先が茶色く濁っていた。

「なんだ、情けない」

 診療所から、父の声が聞こえる。いつものように父の小言が始まった。

「見えないところで、こつこつ頑張っているハルトとはえらい違いだなぁ。全く、お前は誰の子だよ」

「誰の子って、親父だよ」

「口だけ達者になりやがって」

「誰かさんに似たんだろう」

「この野郎!」

 ケイシは、いつもこんな風に父と口喧嘩している。今では、母もあまり止めなくなった。父の言うことは、ワンパターンだ。一人息子だから甘やかしすぎたとか、ハルトがうちの息子だったらとか、そんな事を良く口に出す。そして、最後に、父が決まって言う言葉がある。


「それだから、お前はベンチにも入れないんだよ。中途半端にやるならやめちまえ」


 父の言う通りだ。

 サッカーを始めたのは、小学3年生の時だ。父に買い与えられたボールを、いつも遅くまで追いかけていた。あの頃は、何をやってもハルトより、ケイシの方が優れていた。4年生になると、チームのエース的存在になり、ゴールを決めると真っ先にグラウンドを駆け回った。胸に拳をあてて、空を指さす。ゴールを決めた後の、ケイシのパフォーマンスだった。それがやりたい一心で、毎回ゴールを狙っていた。

「下手くそなくせに、一丁前にそんなことだけ覚えやがって」

 父は、そうよく言っていた。

 それから少し経って、ケイシはハルトにも、周りにもあっという間に追い抜かれていった。いつのまに、ハルトとあんなに差がついてしまったのだろう。ケイシはふと、そんなことを考えることが多くなっていた。


「ご飯食べないの?」

 買い食いをしたコロッケのせいで、ケイシは食欲をなくしていた。テーブルには、唐揚げがお皿いっぱいのっている。

「ほら、お父さんの言うことなんて気にしなくていいのよ」

 母はそう言って、唐揚げをいくつもお皿にのせた。ケイシは胃を抑えながら、微笑む母の顔を見て、唐揚げを頬張っていた。

「ごちそうさま」

 食べ終わると、ケイシはすぐに家を出た。

「こんな夜に出歩かずに、勉強しろ」

 父が、診療所から叫んでいる。ケイシは構わず、プールへ向かった。食欲がないのは、コロッケのせいだけではない。ハルトの姿を見ると、この頃、妙に胃が痛むのだ。

 町内プールは、夜9時まで開いている。ケイシの家から町民プールまでは、自転車で10分ほどしかかからない。

 もちろん、今日もプールはケイシの貸し切りだった。「あいよ」と、杉山がロッカーの鍵を渡す。ケイシはそれを受け取り、更衣室に向かった。

 床が、ミシミシと音を立てる。いつも鍵は、錆びてなかなか上手く回らない。ケイシは、何度か試すと、そのまま鍵をかけずに、プールサイドへと向かった。

「気持ち悪い」

 さっきの唐揚げが、今にも逆流してきそうだ。ケイシは、そっとプールの中にゆっくりと足を入れた。水の温度を確認する。少し生温かい。肩まで一気につかると、大きく深呼吸して、息を止めた。そして、そのまま勢いよく水の中に潜り、そっと目を開けた。そこには、青く広い世界が広がっている。微かな水の流れが、ボコボコ、ゴーゴーと音を立てている。ケイシは、静かに目を閉じた。

 青い視界が、一瞬で暗闇の世界となる。心臓の音が、ドクドクと大きく押し寄せてくる。水と心臓の音が、コーラスをしているかのように、全身に響き渡っていく。どこかで聞いたことがある心地よい音が、ケイシの心を満たしていくようだった。

 苦しくなると、ケイシは水面に勢いよく顔を出した。水しぶきが、プールの水面に広がっていく。息を整えるように、大きく空気を吸い込む。


―生きている。


 荒い呼吸の音が聞こえた。

 落ち着くと、いつものように仰向けになって、古ぼけた天井を見つめる。そこには、静かな時間が流れていくような感じがした。


「なぁ、じいさんはさ、若い時、どんなだったの?」

 着替えを終えたケイシは、ロッカールームの清掃をする杉山を手伝っていた。こんな古びたロッカー、いくら拭いても変わらないだろうと思ったが、杉山が丁寧に磨いているのでケイシも真似をすることにした。

「なんだ、いきなり」

「いや、どんなだったのかなぁって」

「普通に働いて、普通に結婚して、現在に至る、だよ」

「随分、端折ったね」

 杉山は、笑った。

「後悔してることとかないの?」

「後悔?」

「そう、若い時にさ、こうしておけばよかったとか」

「そんなの、沢山あるに決まってるだろう。いい女ともっと知り合いたかったし、金だってもっと稼ぎてぇ。まぁ、どんなに満たされていても、後悔しない人生なんてないぞ。人間の欲ってのは、そういうもんだ」

「ふーん」

 ケイシは、杉山の答えが少しだけ不服だった。

「何だお前、その若さで、後悔してることでもあるのか」

 杉山の問いに、ケイシは一呼吸だけ考えて、「ないよ」と答えた。

 もし、サッカーを選ばなければ、ハルトと自分を比べたりしなかったのかもしれない。父に買い与えられたボールが、野球のボールだったら、きっと今の自分はこんな思いはしなかったかもしれない。そんなことを口に出すと、なんだかとても空しくなるようで、ケイシは言葉を飲み込んでいた。



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