第2話 無謀な戦い

「おい、ハルト、起きろ」

 ハルトは眠たい目をこすって、わずかに開いた小さな瞳でケイシを見つめている。

「次、体育だぞ」

「ん……」

 ハルトは、静かに背伸びをすると、また机に頭を沈めていった。少し茶色がかった髪の毛が、窓から入ってくる風でわずかに揺れている。

 この姿のどこがヒーローなのだろう。ケイシは、ため息をついた。授業中のハルトは、グラウンドで見せるような存在感は全くない。身体は大きいのに、小さく丸まったその姿は、まるで冬眠中の動物のように、部活の時間までひっそりと息を潜めている。サッカー以外には、何に対しても無頓着でやる気をみせない。それがハルトだった。


「何で授業までサッカーなんだよ」

 そう言ってダイチは、ボールを蹴飛ばした。

「部活だけで十分だ」

 ダイチは、めんどくさがりで大の練習嫌いである。頭を坊主にしているのも、毎朝のセットと、シャンプーの手間を省くためだと、自慢げに話をするくらいだった。短距離を走るとスピードもあり、足だけでいえばハルトと並ぶくらいだろう。運動神経もそれなりに優れていたが、残念なことにダイチにはスタミナが全くなかった。スタミナというより、正しくは根性がないといった方がいい。頑張れば、きっと良い選手になるだろうに、試合中はケイシと共に、観客席が特等席になっていた。

「そういえば、この間の試合みたか?あのプレーはすごいよ」

 ダイチは、こうやってよくマイナーな選手の話をする。あのプレーがかっこいいだとか、誰がどのチームに移籍するだとか、とにかくやけにサッカーに詳しいヤツだった。

「あぁ、ダルイ。早く終わらねぇかな」

 サボることしか考えていないダイチは、一体何のためにサッカーを始めたのか、よく分からなかった。サッカーを続けているのが良く分からないのは、ケイシも同じかもしれない。運動能力は小さい頃から比較的に高く、運動会やマラソン大会でもそれなりに目立っていた。クラス対抗リレーでは、アンカーに選ばれ、ハルトを抜いてゴールテープを切ったことだってある。悔しそうにするハルトを背に、清々しい気持ちで空を見上げたりもした。体育の授業が楽しみで、一番に駆け出し、目立てる場所はここだと見せつけるように、思いっきり汗をかいた。

 しかし、中学に入るとそういうヤツは沢山いることを知る。ケイシはあっという間に、その他大勢の中に埋もれていった。サッカー部の中でも、これといって他の部員に比べて、目立った技術やスピードもない。焦って練習しようにも、どうにもうまくいかず、ケイシは、それなりのサッカー部員として毎日を過ごしていた。


「悪い、悪い」

 グランドの奥で、声がした。ハルトは右手をゆっくりと上げ、相手をするクラスメイトにサインを送っている。サッカー部ではないクラスメイトと組んだパスの練習は、ボールがあっちへこっちへと飛んでいく。その度にハルトは、謝る声に長い右手をあげ、何度もそのパスを力のない動きで追いかけていた。

 きっと、まだハルトの体は起きていない。大きく広い背中には、不釣り合いな小さい頭が、グランドを何度も往復する。ハルトの体は、部活の時間までスリープモードだ。

 そんなやる気のない姿にも、テニスコートから女子達の熱い視線が集まっていた。長身のハルトの風貌は、それだけでも目立つ存在なのに、切れ長の目に幼さが見え隠れする表情が、より一層、女子達を夢中にさせていた。

 それでもハルトは変らない。たまに欠伸をするほど、周りの声援に全く興味を示していなかった。ハルトは、こういうヤツだ。

「何だよ、アイツ、かっこつけやがって」

 しゃがんでサボっていたダイチが、不機嫌そうに立ち上がり、今度は強めにボールを蹴飛ばした。面白くないと感じるのは、ケイシも同じだった。

「じゃ、試合入るぞ」

 体育教師の声に、皆、それぞれグラウンドに散らばっていく。

 ケイシは、ダイチと同じ組で赤色のゼッケンを身に着けた。ゼッケンは、予想通り汗臭い。何も着けていないハルトは、気怠そうに欠伸をしては、リフティングをして回りを沸かせていた。その姿も、ケイシにとってはなんだか腹ただしかった。

「ハルト!勝負だ」

 突然、ダイチが叫ぶ。

「おい、何言ってんだよ」

 ケイシは、すぐにダイチに駆け寄った。

「ハルトばっかりいい思いしやがって、痛い目見せてやる」

 ダイチは、口を尖らせてふくれた顔をして見せる。ダイチは本気だ。

「マジかよ」

 ケイシは、呆れていた。授業だから楽しくやろうぜ、と言いたかったが、ダイチの目が本気で、そんなことは言えなくなっていた。

 ハルトは、ダイチの言葉が聞こえていないのか、ボールを体育教師に預けると自陣のディフェンダーの位置まで下がっていく。闘志をむき出しにするダイチと違って、ハルトは、ただ眠たそうにグラウンドに立っていた。

「何だよ、あいつ。フォワードしないつもりかよ」

 戦闘モードはダイチだけで、全く相手にしようとしないハルトの姿は、そういうヤツだと分かっていても、癇にさわる。

 ケイシは、ダイチに連れられてセンターサークルに立った。

「おい、大丈夫かよ」

 ケイシが、ダイチに耳打ちをする。

「任せとけって」

 ダイチは、闘志をむき出しにしたまま、ケイシの肩を強く叩いた。

「なめやがって。今日は俺が、あいつからゴールを奪う!いくぞ!」

 その声と同時に、試合開始のホイッスルが鳴る。女子達もテニスをする手を止め、フェンス越しから声援を送っている。

 ダイチから、ケイシにパスが出る。ケイシは、深く息を吸った。もちろんケイシも本気だ。こうなると、他の生徒なんて知ったことではない。ゴールに向かってダイチと二人、真っすぐに突き進んでやる。

 ケイシは、ギアを上げ走り出した。ダイチはケイシの動きを見て、斜め平行に走っていく。ケイシの目に、ハルトがその場で2回軽くジャンプをして体をほぐしている姿が映る。油断している隙に、ゴールを狙えば、いけるかもしれない。相手の生徒たちを次々に交わし、前方に抜け出したダイチが手をあげた。それに向かって、ケイシはすぐにボールを蹴り出した。

「いけ!」

 いつのまにか、ケイシは大きな声で叫んでいた。

「オーケイ!」

 ダイチの目の前には、すぐにハルトがいる。ジャージも脱がず、眠い目をこすっている。余裕を見せるハルトに、ダイチは苛立ちを隠せないようだった。

「ハルト、勝負だ!」

 日ごろの鬱憤を晴らすかのように、ダイチが叫んだ。ハルトに挑もうとするダイチが、やはり無謀に思えても、もう止められない。突破しろ、と心の中で強く願っていた。

ほんの一瞬の隙をついて、ダイチがフェイントをかけようとしたその時だ。ハルトの長い脚が、ダイチのボールを軽やかに奪っていった。

「やっぱり無理か……」

 こうなることはわかっていた。やはりハルトに挑もうなんて無謀だった。ケイシは、周りの沸き上がる声援の中、ハルトに挑もうとしたことを後悔していた。しかし、ダイチはまだ諦めてはいない。

「この野郎!」

 ハルトのボールを奪い返そうと、ダイチが足を出す。ハルトは少し、楽しんでいるかのように見えた。ボールを奪おうとする子犬とじゃれあうように、右に左にボールを操っている。ダイチの体は、ハルトにつられてリズミカルに左右に揺れた。

「ハルトォ!」

 遊ばれたままのダイチの怒りが、頂点に昇った。その瞬間、ハルトのスイッチがオンになる。ダイチが、前へ体を寄せたと同時に、スッとダイチの股の下からボールを転がせていく。

「上手い」

 思わずケイシは、呟いていた。軽やかにダイチをかわしていくハルトに、周りの声援は大きくなった。

「待て!」

 悔しがって追いかけるダイチを背に、ハルトは次々と敵陣を交わし、ゴールを目指して駆け上がっていく。今までのハルトは、一体、何だったのだろう。無邪気な表情をしたハルトが、そこにはいた。

 女子達は、テニスなんてそっちのけで、皆、夢中になって、ハルトの姿を追いかけていく。ハルトのギアは、マックスだ。

「くそ!」

 ケイシも、慌てて追いかけていく。追いかけても、追いかけても、ハルトはどんどん前に進んでいく。ハルトの背中は、いつもよりとても大きくみえた。

「ゴール!」

グラウンドにホイッスルが響く。

 完敗だ。勝負はあっけなくついた。周りには、チームメイトが駆け寄っていく。ハルトは右手を突き出し、口角をゆっくりと上げて笑顔をみせた。冬眠から覚めた動物が、怪物になった瞬間を見せつけられたような気がしていた。 こういうところで本能的に魅せるプレーをしてしまうのもハルトなのだ。

「すごい!すごい!」

 女子の声が、うるさいくらい聞こえてくる。チームメイトとハイタッチをするハルトとは対照的に、ダイチは膝から崩れ落ちてその場でうずくまっていた。

「くそ!」

 やっぱり、ハルトは違う。人を魅了する何かを備えた特別なヤツだ。息を整えながら、ケイシは、ハルトの姿をただ見つめることしかできなかった。


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