クロスボール
利由冴和花
第1話 ヒーロー
―人生は不公平である。
世の中には、“持ってるヤツ”と“持ってないヤツ”がいて、僕は決まって“持ってないヤツ”の方で、そんな僕が、“持ってるヤツ”に歯向かおうとしても、それはもう“持ってないヤツ”がいくらあがいたって、到底かなわないような不思議な力が働いている。運とか神様とか、なんだかよくわからないけど、“持ってるヤツ”は、そんなもの全てを味方にする。
僕は、息をしているだけ。ただ、こうして息をしているだけだ。
今日も、僕は、プールの中で―
「おい、小僧、もう閉館だ」
町内プールの管理人である杉山が、ケイシの顔を覗き込む。ケイシは、杉山の声を聞くと、一度深く潜って、また浮かびあがった。
このプールには、いつもケイシただ一人しかいない。ほとんど毎日のように通っているのだが、人を見かけることがないのだ。たまに見かけたとしても、健康のために歩く老人くらいで、一体だれが利用しているのか不思議でたまらなかった。
「うちのピークは、昼間なんだよ」
杉山は、いつもケイシにそう言った。
杉山は、先月70歳を迎えた。白髪頭に無精髭、アロハシャツを着たその体は、腰が少しだけ曲がってきている。夜の監視員は、この杉山だけで、万が一溺れたら一体だれが助けてくれるのだろうか。ケイシは、プールに両手を広げ、仰向けに浮かびながら、いつもそんなことを考えていた。
「そんなの、俺に決まってる」
一度、杉山に尋ねたことがある。その時の杉山が真顔でそう答えたので、ケイシは、思わず笑ってしまった。
「そういやぁ、三坂中学のサッカー部、またえらく活躍したんだってな」
泳ぎに来ると、ケイシは、必ずスタッフでもないのに閉館の手伝いをしている。杉山が腰を痛めていて、作業が思うように出来なくなってきていることを知っていたからだ。
「なんて言ったか、三島……」
杉山は、ビート板を片づける手を止め、頭を掻いて考え出していた。
「あぁ駄目だ。歳をとると名前すら出てこねぇ」
「ハルトだろ?三島ハルトだよ」
ケイシは、杉山が持っているビート板を取り上げながら答えた。
「そうそう、その子だ。その子が、玉蹴りがうまいらしいじゃないか」
杉山がサッカーを玉蹴りと言ったので、ケイシは、また笑ってしまった。
ヒーローには、それなりのストーリーが用意されている。幼いころから一緒にいたハルトは、もうそのヒーローの道を歩み始めていた。
ラストチャンスだった。
ロスタイム、コーナーから蹴りあげられたボールは、ハルト目がけて飛んできた。観客は一斉に息をのみ、時が止まったようにボールの行方を追いかけていた。
ハルトは誰よりも、高く、高く飛んだ。ボールは、キーパーの右手に微かに触れ、吸い込まれるようにゴールネットを揺らしていった。
ハルトのヘディングシュート。湧きあがる歓声に、ハルトは大きくこぶしを空に突き上げた。県大会ベスト4進出が決定した瞬間、弱小チームの中に現れたヒーローは、ピッチ上で誰よりもきらきらと輝いていた。
中学2年で迎えたケイシの県大会は、ピッチでもベンチでもなく、観客席の中だった。幼い頃から隣にいたはずのハルトとの距離は、気がつかないうちにどんどん大きくなっていた。
ケイシが入部している三坂中学サッカー部は、毎年、せいぜい地区予選2回戦止まりの弱小チームだった。それが、ハルトというヒーローの活躍で、地区予選を難なく突破し、県大会ベスト4進出というありえない成績を叩き出してしまった。まるで、ハルトに与えられたストーリーが、突然、動き出したかのように。それ以降、三坂中学サッカー部は驚くほど強くなっていった。
「あいつはすごいよ」
「へぇ、やっぱりそうか。ほら」
ケイシは、オレンジジュースを受け取る。杉山は、特に何も言わないが、ささやかなお礼のつもりだろう。手伝いをした後、決まってこうやってオレンジジュースをもらうまでが、ケイシの日課になっていた。
「小僧、気をつけて帰れよ」
入口の大きな門は、耳障りな音を立てて閉まっていく。
「じいさんも」
門を閉めることに、一苦労している杉山に手を貸したあと、ケイシは自転車に乗って家へと急いだ。
「またプールか」
家に帰ると、父はケイシの顔を見ずに、子猫と格闘していた。消毒液の匂いが部屋全体を包み込んでいる。
「全く、少しは家の手伝いでもしろ」
南海動物クリニック。ここが、ケイシの自宅である。小さな町に唯一ある、平屋建ての動物病院だ。
父は、ようやく治療を終えたのか、ケイシに子猫を檻に入れるように目配せした。ケイシは、子猫を抱きかかえる。手の中で、子猫が甘えた声で鳴き声をあげた。
「よし、よし」
子猫は、ケイシの指先を何度も舐めては、頬を寄せ付けてくる。動物達は、人間の言葉をしゃべらない。だから、ケイシは動物が大好きだった。
「おい、あんまり触るなよ。そいつは傷が深い」
「分かったよ」
子猫の頭を撫で、ケイシは檻を静かに閉めた。
「ベスト4、すごいな」
小腹がすいたケイシは、部活前に学校を抜け出して、近くの商店街にいた。コロッケ屋のおじさんは、ケイシがサッカー部だと分かると、いつもの不機嫌な顔をほころばして一つ多くおまけを入れてくれた。
弱小チームが県大会ベスト4進出、これだけで静かな田舎町が盛り上がるには、十分な内容だった。町はその話で持ちきりとなり、商店街を歩けば、「頑張っているな」と声をかけられることが多くなった。
「でも惜しかったなぁ。やっぱり相手は強かったのかい?」
「そうですね」
もちろん、ケイシはその試合には出ていない。
「今日も練習、頑張りな」
おじさんは、満足そうに手を振ってケイシを送り出した。
1対1 ロスタイムの劇的ゴール。
“持ってるヤツ”というのは、こういう男のことを言うのだろう。ベスト4をかけて戦った試合、誰もがハルトの豪快なヘディングシュートに歓喜した。県大会が終わってみれば、4ゴール、2アシストの活躍ぶりだ。絶好の場所で、絶好のことをやってのけるハルトは、学校の、いや、この町のヒーローとなった。
学校には、大きな横断幕が掲げられ、多少のことはサッカー部だからといって許されることもあった。サッカー部を強化するためにグラウンドの整備をしようだとか、なんだかケイシの周りはとても慌ただしかった。
「おい、授業中に寝るなと言っただろ」
軽く叩かれた机の音で目が覚めた。教室に笑い声が響いていく。顔を上げると、奥では、ハルトがそんな様子なんてお構いなしに、すやすやと眠っている。
「なんだよ。ハルトだって、眠ってるじゃねぇか」
ケイシの反論に、教師は明らかに動揺した表情を見せた。
「……あぁ、そうだな」
「どうせハルトだから、見逃そうとしたんだろ」
小言を言うつもりはなかったが、いつものハルトびいきには、少しうんざりしていた。
「何言ってんだ。違うぞ。ほら、ハルトも目を覚ませ」
机をコツンと叩く音は、ケイシの時より優しい気がした。ハルトの反応はない。教師の声が聞こえないほど、ハルトは爆睡しているようだった。
「……まぁ、ハルトはアレだ。サッカー部だからな。ほら、練習の疲れもあるんだろう」
何度か呼びかけると、教師はあきらめたのか、そのまま授業を進めはじめた。
「俺だって、サッカー部だよ!」
ケイシの心の叫びは、届かない。
「どんまい」
隣の席のダイチが、腹をかかえて笑っている。
「不公平だ」
納得できない状況に、ケイシはうなだれていた。実際、多少のことが許されるのはハルトだけで、ベンチにも入れなかったケイシには、ベスト4フィーバーはあまり関係あるものではなかった。
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