第63話 別れ

 さらに数日が過ぎ、その時がやってきた。


 ――即ち、この国から離れる時が。


 この国、エスタールに滞在している日々はあまりにも居心地が良く、本当はもっといたかった。

 しかし、こんな世の中ではそうもいかない。


 ――少なくても、身内だけで魔王を楽勝に倒せるくらいの戦力を整えるまでは。


 ぬるま湯につかり、危機感を忘れては、いつ大切な者を失うとも限らない。

 故に、俺の決意は固かった。

 旅支度を終えると、俺はしばらく世話になった、エスタールの屋敷の自分の部屋から出る。

 その直後、部屋の外で待ち受けていたルンとランに声を掛けられた。


「お兄さん、本当に行ってしまうですか……?」

「う、嘘ですよね? もっと、ずっと……ずっとずっと、エスタールに居てくれますよね?」


 彼女たちの顔に、いつもの笑顔はない。

 とても必死で、ともすれば泣きそうな顔をしていた。

 俺は自分の心が揺らぐのを感じる。

 ……一瞬、ルンとランの言う通り、ずっとここにいるのもアリかもしれないと思ってしまった。

 ――しかし、先程も言った通り、そういうわけにもいかないのだ。

 今回のことでハッキリした。

 例えば今、魔王が全世界にいる軍団を全て結集してハイランドに襲い掛かって来たとしたら、俺は守り切れない。この国はおろか、多分、彼女たちも……。

 ――だから俺はもっと強くなる。俺が自由に生きるには、そのくらい笑って跳ね返せるくらいにならならなければならない。


 そして、いつの日か、また、ここに……。


 ……いや、それは違うか。俺は自由にやる。そのためには、確信のない約束はすべきではない。

 俺はルンとランを振り切るようにして前に出る。

 すると、ルンとランが両側から俺の服の裾を握ってきた。


「お願いです」

「行かないで?」


 ……俺には、その手を振り切ることは出来なかった。

 どうすることも出来ず固まっていると、横から別の声がかかる。


「ルン、ラン。ネル様を困らせてはダメよ」


 フレインだ。


「で、でも!」

「フ、フレインお姉ちゃんはそれでいいんですか!? お兄さんに一番行って欲しくないって思っているのは、フレインお姉ちゃんでしょう!?」

「………」


 フレインは何も答えなかった。ただ黙ってルンとランを見つめている。

 互いにどうしたらいいのか分からない時間が過ぎていく。

 ……やがて、ルンとランが俺の服の裾から手を放した。

 俺は前に進む。


 ――玄関ではマリアさんが待っていた。


 彼女はいつもと変わらぬ笑顔を向けてくる。


「ネル様。すっかりお世話になってしまって……」

「いや、こちらこそ世話になったよ」

「どうかお元気で、ネル様」

「ああ。マリアさんこそ」

「また、いつでもエスタールに立ち寄ってくださいね?」

「そっちがいいなら、そうさせてもらう」

「……むしろ立ち寄ってくれなかったら、怒りますよ?」

「分かった、分かった。是非そうさせてもらう」

「絶対に、約束ですよ?」

「ああ」


 やはりマリアさんの笑顔は変わらない。そのことに俺はどこかホッとする。

 マリアさんは妹たちに顔を向けると、


「あなたたち、ネル様のことをお見送りして差し上げなさい」


 そう言った。

 フレインとルンとランは、黙って頷く。

 それを見届けてから、マリアさんは再び俺の方を見て、


「では、ネル様」

「ああ」

「再びお会いできる日を楽しみにお待ち申し上げております。愛しいお方」

「ああ……あ?」

「ふふ」


 マリアさんが悪戯っぽい笑みを浮かべていた。

 ただ、その目の端に光るものを見て、俺は何も言えなかった。



 ***************************************



 先に外で待っていたエフィ、アイスマリー、ルナの三人と合流すると、俺はエスタールの屋敷の敷地から出る。

 最後に屋敷の方に向かって一礼し、しばらくすると、完全に屋敷は視界から消えた。


 ――移動手段は、フレインたちの言葉に甘えて、ペガサスの背に跨がせてもらっている。


 ルナとアイスマリーはそれぞれルンとランの後ろに跨り、エフィは自前のマジックブルームで飛び、俺はフレインの後ろにいる。

 慣れ親しんだエスタールの町並みが、眼下に流れていくのを見て、俺はふと、寂しくなった。

 グルニアから離れる時はここまでの寂寥感はなかったというのに、ほんの僅かな時しかいなかったこの町に、こんな想いを抱くとはとても不思議だった。


 ――それはきっと、この町で親しい人が出来たからに違いない。


 俺は視線を前に向ける。

 フレインは振り向かなかった。

 ただひたすらにペガサスを走らせている。


 やがて山を越え、エスタールの町は完全に見えなくなった。

 さらに飛んで行くと、すぐにハイランド王国そのものが離れて行くのを実感する。

 あれだけいつも騒がしかったルンとランも、今は静かだ。

 風を切る音だけが耳の中を支配する。

 俺はフレインに向かって声を掛けた。


「フレイン、そろそろ……」


 しかし、フレインは何も反応しない。


「フレイン」


 もう一度声を掛けると、フレインはペガサスを下降させ始めた。どうやら聞こえてはいたらしい。

 ゆるゆると高度を下げて行き、間もなくペガサスは街道側に着地した。

 俺はペガサスから降りる。

 後ろから付いてきていた他の皆もそれぞれ地上に降りた。


 ――だが、フレインだけがペガサスから降りない。


 俺は気付いていた。


 フレインが振り向かなかったのは、泣いていたからだ。


 顔中を涙でぐしゃぐしゃにして泣いていたから、こちらを振り向けなかったのだ。


 フレイン……。

 俺が声を掛けようとしたその時、先に声を上げたのはルンとランだった。


「フレインお姉ちゃんはこのままお兄さんに付いていくのです!」

「そうです! 付いていくのです!」


 その言葉に驚いたのか、フレインが涙にぬれた顔を後ろへと向ける。

 そこではルンとランが一生懸命な目で姉を見ていた。


「フレインお姉ちゃんは、これまでずっとエスタールのために頑張って来たです! だから今度はルンたちが頑張る番なのです!」

「ルンとランで力を合わせてエスタールを支えていくです!」

「マリアお姉ちゃんもいるから大丈夫なのです!」

「お兄さんの元で修行を積んで、より良い騎士になって帰ってくるのです!」

「大丈夫です! エスタールは絶対大丈夫です! だから……だから……」

「フレインお姉ちゃんは……お兄さんと一緒に、いっで……」


 結局、ルンとランも泣いていた。

 必死にこらえていたのだろうが、姉と別れる寂しさに我慢できなくなったようだ。


「あなたたち……」


 フレインはペガサスから降りてくる。

 そして、ルンとランの肩を抱いた。


「バカね。あなたたちを置いていけるわけないでしょう」

「「で、でも……!」」

「わたしはどこにも行かないわ」


 そして、三人は肩を寄せ合って泣いた。

 ……そう。フレインにはやることがある。


 ――今のハイランドを導くことは、彼女にしか出来ないことだ。


 彼女は聡明だからこそ、それを理解しているはずだった。

 フレインは優しい。だから、その肩に背負っているものを絶対に見捨てたりはしない。


 ――それ故に俺は彼女に惹かれたのだ。


 その後、三人はペガサスに乗って飛んで行った。

 もちろん、エスタールの方角に向かって。

 俺は三人の姿が空の向こうに見えなくなるまでその場を動かなかった。

 何も見えなくなって、ようやく俺は言葉を紡ぐが出来た。


「じゃあな」



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