PROLOGUE

 誰かの声が聞こえる。

 自分を呼ぶ声だ。


 応えようとして、ままならない。

 血が溢れては流れ、体から熱が失われていく。


 啓人は気づいた。

 これは生前の、最期の記憶なのだと。


 誰かが呼んでいる。

 それが誰なのか、啓人は知っているはずだった。

 そのはずなのに、顔も名前も思い出せない。

 自分の名を呼ぶ少女の声を。


 世界はとても残酷で、現実はいつも容赦なくあらゆるものを奪っていく。

 だからなのだろう。

 自分は逃げて逃げて、逃げ続けてきた。


 希望があったわけではない。

 正義があったわけでもない。

 ただの逃避だった。


 生前の記憶なんてまるで思い出せないのに、そんな後悔ばかり思い出す。


 だから、もし次があるのなら、逃げてはいけないのだ。きっと。

 もう二度と……。


 ◆ ◇ ◆


「いつまで引きずるつもりなんだ?」


 青年の声は、幾分かの苛立ちを含んでいた。

 向けられた先は、端整な顔立ちの女性だ。

 二人は古い友人だが、それ以上の関係ではない。青年はそれを理解しているし、だからこそ苛立ちを隠せない。


「あいつは――」


「やめて」


 青年の言葉を、鈴のような涼らかな声で女性が遮る。

 いつもは理知的で、柔らかな声音が、この時ばかりは怒りに染まっている。


「彼を、そんな風に言うのはやめて」


 その声に、もはや修復しようもない亀裂を感じて、青年は愕然とした。

 これまで近くにいたはずの少女が、遙か遠く、自分の届かない場所へと行ってしまった。


 いや違う。

 連れ去られたのだ。

 一人の男によって。


 それは青年にとって、酷く耐えがたいことだった。


「あいつは死んだんだ」


 だというのに、未だに彼女を縛り続けている。

 まるで亡霊のように。


「そんなこと、正しいこととは思えない。死んだ後にまで、あいつが君を縛ることを望んでいたわけじゃないだろう!」


 それは悔し紛れの言葉であることに間違いなかったが、言っているとは正論だ。

 だが青年は知らない。

 正論は必ずしも人の心を動かすわけではなく、選択としては正しいとも限らないことを。


「そうね」


 だから、少女が返したのは、まるで侮蔑にも等しい視線と、


「だとしても、貴方には無関係だわ」


 紛うことなき、拒絶だった。


 そもそもの話、デリカシーも無く蒸し返すこの青年に、はっきり言って彼女は迷惑していた。

 彼の思惑も理解していた。しているから、その溝は広がり続けるのだ。


 呆然と立ち尽くす青年に背を向けて、彼女は歩き出す。


 迷いはない。

 悲しみも苦しみも後悔も、決して癒えることはないだろう。

 それでも歩く。前に進む。それしかないと知っているから。


「啓人……」


 口から彼の名前が零れて、ほんの少し、胸の奥に温もりを感じて。

 そんな、幻のような彼の残滓に、縋り続けていることを知りながら。



 そして置いていかれた青年は、呆然とそれを見送った。


 彼女は変わってしまった。

 なぜだ?

 決まっている。


「新谷啓人……」


 青年はただ独り、亡霊の名を呼ぶことしか出来なかった。

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