第109話
翌朝。母に起こされ時計を見ると、朝五時半だった。慣れない布団で浅い睡眠にはあまりにもつらい。
「ほら、早く起きなさい。もう来てるわよ」
一体なんのことかと頭を掻きながら階段を降りてみれば、玄関に女の子が一人座っていた。
「よっす、おはよ」
振り向いたのは
「なんだよ、こんな朝早くから……ふはぁ」
一方のこちらはあまりの眠さに欠伸がでてしまう。そして無意識に掻いていた腹を、指先でちょんとされて思わず唸った。
「うっ」
「ほら、顔洗ってきて。早く行こ?」
「……行こうって、どこにだよ」
「そりゃあキミ」
緋花はそう言って、玄関に置いてある荷物を指さして言った。
「朝ごはんの調達」
◇
夏の太陽というものはどうやら早起きらしい。世界は十分に明るいが、それでも山の朝は幾分涼しく、寝起きの体にはなんだか少し気持ちが良い。
有坂家と橘家。並ぶ、と言ってもそこそこの距離がある両者の敷地だが、その間には裏山に続く獣道がある。そこを、なんだか仰々しい荷物を持たされた俺は、先行する身軽な緋花についていく。段差を登るときなどにくっきりとするお尻のラインが眼福だ。
しばらく行くと、小川が見えてきた。川、というには幅狭く、清流といった感じの雰囲気で、ところどころに大きな岩が転がっている。水面が煌めいて綺麗だ。
「じゃあ才ちゃん、そこ座って」
緋花はその内一個の岩の上を指さした。俺は荷物を持ってよじ登り、小川に向かって足を放り出すように座った。その
「はい、じゃあこれ」
それは竿だった。釣り竿というにはあまりにもお粗末なそれ。先っちょには割いたビニールテープを束ねたような疑似餌が付いていた。
どうやら、これで「釣れ」と言いたいらしい。朝ごはんの調達とは、川魚のようだ。
「俺、やったことないよ」
それ以前に、こんな装備で大丈夫か?
「大丈夫、かんたんだよ。それとも素手でやってくれてもいいけど? 昔みたいに」
「……善処する」
俺はしぶしぶ疑似餌を川に放り込んだ。
いざ渓流釣りの結果はというと、これまた驚くことに、とても簡単に釣れた。名前も知らない魚だが、放り込んでしばらく黙ってれば勝手に食らいついてくれるので、あとはすくいあげるだけだ。岩際まで持ち上げれば、緋花が手際よくそれを取り、バケツに移してくれた。
その光景に、幼少の頃を思い出した。そういえばこの川は、俺達の遊び場になっていた。当時は恥ずかしがりもせず、半裸で泳ぎまわったり魚をとらえようと躍起になったり、泥んこになるまで遊んだ。
当時の緋花は今よりも短髪で、言葉を選ばなければ男みたいな奴で、俺は何も気にすることなく遊びに没頭できた。夏限定とはいえ、俺達は間違いなく親友だった。
――そっか。緋花だって気づかなかったのは、そういう理由だったのか。
「……のどかだなぁ」
渓流のせせらぎと夏の日差し。聞こえてくる音や香りは全て自然のもの。セミや鳥は全力で大合唱している。だけど、車だとか掃除機だとかテレビだとか、そういう騒音とは違って不快じゃない。確かに俺はここで生きていたんだと、そんなことを思う。
数匹釣れて、あと一、二匹で帰ろうかという頃。俺の後ろで膝を抱えていた緋花が、言った。
「才ちゃんは都会に住んでるんだっけ」
そういえば、この才ちゃんという呼び方。久しぶりに再会した、俺が中学一年で、緋花が六年生の時だ。髪を伸ばし始めた緋花と、身長が伸び始めた俺。
『ひ、久しぶり――才ちゃん』
呼び捨てが気恥ずかしかったのか、彼女が先にそう言ったのだった。
俺は釣り竿の先を見つめ、緋花に振り返らずに言った。
「都会、というほどでもないけどね。ただ、山とかないし、見渡す限り家って感じで。砂利道を発見する方が難しいよ。コンビニ近いのは便利」
「いいなぁ、都会。憧れるよ」
「そう?」
「――ウチさ、美容師になりたいんだよね」
緋花はそう言って、語り始めた。
「都会の人ってみんなおしゃれ。ウチもそういう環境で目を養いたいなって。それで、沢山の人におしゃれを知ってもらって、綺麗になって、自信をつけて。それで、自分を好きになってもらいたいんだ。――ウチもそうだったみたいに」
緋花の少しハスキーだけど澄んだ声。彼女の想いがのせられたそれは、俺の背中から体中で響き渡った。
「緋花なら、できるよ」
彼女の言葉の真意はわからないけれど、すっかりと女の子らしくなった彼女を見て、そう思わずにはいられなかった。
「――ありがとう、才ちゃん」
すると、ふいに、後頭部に何かが触れた。緋花の手が、俺の髪の毛をまさぐっていてる。
「髪、ぼさぼさじゃん。切ったげよっか?」
「……そうだなー。この際だし、お願いするわ。未来のスーパー美容師さんに」
彼女の笑い声に、昔の記憶が蘇る。
その時、思った。
「まかせんしゃい。イケメンに仕立てたげる」
きっと昔みたいに歯を出して笑っているんだろうな、と。
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