第104話 Shibuki

「それで、才賀はどうしてここに? こういうのもなんだけれど、ここのお祭り、デートに選ぶにはちょっと趣が違うと思うのだけれど」

「ああ、それはね」


 彼のつむじが見える。それを見て、彼を見下ろしたことはなかったのだなと思う。身長の差を考えれば当たり前ではあるのだが、それでも私は彼のことをよく見ている自覚があっただけに、この発見は新鮮だった。こうして少し角度を変えただけなのに、違う一面が現れる。果たして私は彼のどこまでを見ているのだろう。どこまでを見たいのだろう。


「……だから、毎年衣央璃と来るのが恒例になってて。たまたま綺咲にそれを話したら、一緒にいくって。もとからデートとかそういうんじゃなくてさ」


 彼の理論はわかる。でも相手がどう思っているかは別なのではないか、という指摘はしないでおいた。


 才賀は少し無防備だと思う。鈍感だし。とはいえ自分も大概なのを理解しているから、余計なことは言わない。少なくとも私はもう少し大人になる必要があるのだろう。――自分の気持ちを名前で呼べるようになるくらいには。


「――ねぇ、才賀。聞いてもいいかしら」

「ん?」

「お付き合いするって、どういうことなのかしらね」


 これは単なる話題作り。真剣に考えるほどでもない、小さな疑問。


「な、なに、いきなり」


 彼は動揺している。私がしばらく無言でいると、顎を触りながら少し考えて、唸ってから答えた。


「例えば、家に行ったり、二人だけで出かけたりとか。あとは泊まったり、とか。そういうことじゃないかな」


 私はそれに溜息ためいきで返した。彼は不思議そうな顔をしているけれど、私は話題を続けた。


「……私、恋がしてみたいって、ずっと思ってた。自分に不向きだってわかってても、あのアプリを入れるくらいには。でも勇気を出したのは、才賀と会ったあの一回きり。そこからどうしても前に進もうという気がしないのよ」


 もちろんその一回が私にとって特別なものだったには違いない。もともとクラスメートではあったけれど、別の出会い方をしたからこそこうして友達になれたのだから。


 けれど、目的は達成していない。私に恋人はいない。なのに、もう一度やってみようと思えないのは、なぜだろう。


「――志吹は後悔してるの? アプリをやったこと」


 彼が不安そうにこちらを見上げている。こういう話題振りの仕方をすれば、そう捉えられても仕方がないと思う。


「そう思う?」


 だからこれは私の意地悪だ。昔伝えた感謝の言葉を、彼は覚えているだろうか。


「あのー、すいませーん」


 その時、カウンターの前に男が立った。私たちより少し上だろうか、明るい髪をして、斜に構えた感じが、いかにも私の苦手な人種だ。


「これ、ここでいいんすかね」


 投げ出すように差し出された手に、雑に握られたチケット。それを受け取りながら、私は頭を下げた。


「はい、交換いたしますので少々お待ちください」


 せっかく才賀と二人きりだったのに。そんな気持ちを込めて、手際よくお菓子入り袋を取り出す。その間も、その男は私のことをずっと見ている。なんか、嫌だ。


「ねぇーキミ、かわいいね」


 その男が、見下ろすようにして言った。


「はい?」


 私は不快感を隠さず、聞こえないふうを装った。


「お、いいね、気が強そう。少し話さない? 俺、君みたいな子、タイプなんだよね」


 なるほど、これがナンパというものか。学校で話しかけてくる男子たちとは、勢いも圧も違う。これを嬉しいと思う女子の気持ちを理解する日は私には訪れないだろう。


「……仕事がありますので」

「じゃあ終わるまで待ってるよ。番号教えて? 待ち合わせよ」


 しつこいな。なんでよりによって、才賀の前で。最悪だ。


 嫌だな――。


「ナンパだったら他所よそでやってもらえますかね。店の邪魔なんで」


 気が付くと、才賀が立ち上がり、男に圧をかけてくれていた。男は才賀を一瞥すると鼻で笑うように言った。


「ああー、はいはい、気を付けますよっと」


 その態度に腹が立った。


「――こちら商品です。お引き取りを」


 私は悪意を隠さず、指でつまんだお菓子袋をその男に突き出した。男は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに悪めいた笑みを浮かべた。


「いくらなんでも少し冷たいんじゃない? 断るにしてももっと雰囲気よくしないと。じゃないと――」


 その瞬間、私の手が男に取られ、無理やり引き寄せられた。


「――こうやって、強引に出られるよ?」


 テーブルカウンターに打ち付けた腰骨、引っ張られた肩、掴まれた腕の皮膚の痛みが同時に襲ってくる。加えて、男の顔が近いという嫌悪感。顔にかかる息に吐き気が、そしてせり上がってくる恐怖心に、めまいがした。


「おい」


 だがそれはすぐに解消された。才賀の手が、その男の腕を掴んでいる。


「あんた、いい加減にしてくれないか。これ以上は警備員を呼ぶ」


 男の顔は徐々に強張っていく。両者の腕が震え、にらみ合いが続くと、男は耐えかねたようにもう片方の手で才賀の腕を振り解いた。


「っち、なんだよ、うっとおしいな。せいぜい浸ってろ、クソが」


 男はそう言い、お菓子の袋を残して、立ち去っていた。


 男に掴まれていた私の腕は、今は才賀に掴まれていた。切り離すときにそうなったのだろう。


 ――それを私はどういうわけか、反射的に、振りほどいてしまった。


「あ、ごめん。痛かった?」


 しまった、やってしまった――。


「ううん、その、ありがとう」


 だが彼は私の心配をして、椅子に座らせてくれた。震える足と、腰骨の痛み。だが何よりも痛かったのは、その腕だった。まるで火傷をしたかのようにひりつく皮膚を、私はもう片方の手でさすらずにはいられなかった。その痛みの原因を、私は考え始めていた。


「ああいうのは、はっきり言った方がいいよ」


 その様子を見た彼は、私が落ち込んでいるものと思ったらしい。筋違いなアドバイスに、思わず真顔で返答してしまった。


「私、はっきり言ってなかったかしら」

「……言ってた、ね……」

「でも次は気を付ける。爪を立てるくらいなら許されそうね」


 なぜ、私は振りほどいてしまったのだろう。


 才賀の手なら、振りほどく理由なんてないのに。あの左手は、私を守ってくれたのに――


「あ――」


 ――あの左手。綺咲さんと繋いでいたのは――


「どうしたの?」

「ううん、なんでもない」


 理由が、わかってしまった。

 綺咲さんと繋いだその手で、触れてほしくなかったのだ。


「顔、赤いよ? 大丈夫? そのまま少し休んでいなよ」


 紅潮していく顔。跳ねる心臓。わかってしまえば、答えは簡単だ。



 彼の左手は、私を少しだけ大人にした。

 ――この気持ちの名前は、きっと「恋」というのだろう。

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