4-2 そんなこと考えもしなかったから

第94話

 かしぐ日差しにかすむ部屋で、綺咲の涙だけが輝いている。


「どうしよう、あたし」


 綺咲の肩が、嗚咽おえつで揺れている。力なく降ろされた両腕が、彼女の絶望を表しているようだった。弱りきった綺咲が、今にも崩れそうだった。


「どうした、綺咲」


 近寄れば、うつむいて涙を拭う綺咲が、俺の胸に顔を埋めてきた。俺はそれを自然と抱きしめていた。


「今の、お父さん?」


 胸の中で、うんと頷く綺咲。


 ――喧嘩だろうか?


 しかし、ただの喧嘩にしては、ものすごい剣幕だった。あんなに感情的になっている綺咲を、俺は見たことがない。


 とはいえ、彼女のことを知ったのも、つい最近のことだ。知らないことの方が多いのが当たり前だ。――ここ最近毎日一緒にいたからって、彼女のことをわかった気でいるのは、あまりにおこがましすぎるのだろう。





「はい」


 ベッドに座る彼女に、ミルクティーを手渡す。ホットだが、キンキンに冷えた部屋なら逆に温まって良いだろう。彼女はそれを両手でうけとって、唇をとんがらせながら


「ありがと」


 と小さく言った。


「――で?」


 綺咲が一口すすって落ち着くのを待ってから、俺は切り出した。綺咲は疲れたように笑った。


「前にもこんなことあったよね」

「そうだったか?」

「そうだよ。てか、最近。あたしが泊めてくれって押しかけてきた、あの時」


 綺咲が初めて電話してきた時。コーヒーショップで話した時のことだろう。なかなか核心に迫ってこない彼女に、俺がしびれを切らして聞き出したのだった。


 ――よく覚えてるな、そんなこと。


「押しかけてきたっていう認識はあったんだな」

「まぁね。ていうか、受け止めてくれるだろうなって」


 俺は頭を掻いた。そんなことを言われるとむず痒い。それくらいの軽口が言えるくらいには、持ち直したということだろうか。


「まぁ、無理に話さなくてもいいんだけどさ。元気が出んなら」


 俺がそういうと、綺咲は、こてん、と頭を俺の肩にあずけてきた。


「――あんがと」

「……いいよ、いまさら」


 綺咲が家庭の事情で苦労しているというのは知っていた。それを理解していたからこそ、俺や家族は綺咲を受け入れたのだ。彼女の気持ちの整理がつくまで。そしてその間は、俺の責任で彼女を預かるのだ。


 そう思うと、綺咲には何か特別な感情が湧いてくる。愛着というか、愛情というか……。何か、居心地の良さのようなものを、感じるのだ。


 それはきっと綺咲も感じてくれていたんだと思う。俺たちはしばらくの間、夕暮れが暗くなるまで、そうしていた。


「……さっき、パパから電話があったんだけど」


 二人の影が部屋に溶け込んだころ、綺咲が言った。


「三人で食事しないか、って」

「……三人って」


 おそらく相手は、お父さんの今の恋愛相手。

 綺咲がなんとなく苦手意識を持っている相手。


「そう。いつ? って聞いたら、明後日って。明後日ってさ、本当なら玲香れいかさんが帰ってるんだよね。予定では。だからさ、帰るんじゃなかったの、って言ったんだよ。そしたら、玲香さんはお前のことを待ってるんだって……」


「ということは……」


 子持ちの恋人がその相手の子供に会いたがる。

 それはつまり、懐柔かいじゅうしたいということ。その先にある、結論に至るための手段だから。


「あたし、二人で食べてくれば、って言ったの。そしたら、だいたいお前はどこに居るんだ、男の家なんじゃないのかって。どんな男なんだ、って――。あたし、否定できなくて。友達の家だってちゃんと言ってあったんだけど、でも確かに才賀は男だしって思って……そしたら」


 彼女が俺の手を握りしめた。


「『俺への当てつけか、そんなことをするとは思わなかった』って言われた」


 ――なるほど。


 そこから綺咲の『――だからそんなんじゃないって言ってんじゃん!』につながる訳か。


「あたし、悔しくて。あの女と同じみたいに言われたのが。でも言い返せなくて」

 

 綺咲の手が震えている。悲しみなのか、悔しいのか。


「ねぇ、才賀」


 綺咲は何かを思いつめたように、俺の手を両手で包み込んできた。

 

「あたし、わからなくて……」


 綺咲の真剣な上目遣いが、俺を射止める。


「あたしと才賀って、どんな関係なのかな」


 気がつけば、綺咲の顔がすぐそばにあった。

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