第92話
「ああ、ただいま」
お父さんはしかめっ面を崩さず、静かに椅子に座った。
志吹は立ち上がったまま、次に何かを言おうとするが、しかしお父さんは一度も視線をあわせずに、新聞を手にとった。
そして広げざま、俺の方に目配せし、再び新聞に目を落としながら、言った。
「親の居ぬ間に男を連れ込むとは、感心せんな」
その一言で、緊張感が一層高まる。まるで部屋中を高密度な静電気が満たしているようだ。
「違――」
「違う? 何が違うか、説明してみなさい」
お父さんはそういって新聞を机に広げ、まっすぐに志吹を見た。その眼光の鋭さは、まるでナイフを喉元に突きつけられているようだ。
「彼は……その……」
志吹は完全に困ってしまっている。薄い唇を、噛み締めて。
確かにお父さんの指摘通り、親のいない間に男が来ていたという事実は変わらない。それを否定することはできないだろう。だがそこにはニュアンスという大きな差がある。
ここは、そもそも開口一番、挨拶できなかった俺が悪いだろう。
――こうなりゃ、怒鳴られ覚悟だ。
「――申し遅れました」
俺は静かに席をたった。
「有坂です。志吹さんとは同じクラスで、親しくさせて頂いております」
俺は極力丁寧な挨拶を心がけた。俺の下げた頭に、鋭い視線を感じた。
「クラスメートか」
お父さんは俺を品定めするような目で見た。俺はそれに「はい」と頷く。
「ただのクラスメートが女の家に上がるのか。ただれた関係は感心しないな」
「――お父さん!!」
お父さんの言葉に、志吹が声を荒げた。ここまで大きな声をだしている志吹は初めてみた。おそらく本気で怒っているのだろう。
俺は綺咲のことを思い出した。本当は大好きな相手と関係がこじれるのは、とてもつらいことだと俺は思う。家族関係を悪化させてほしくない。
――それが俺のせいなら、なおのことだ。
俺は、志吹の肩に手を置いて、一歩前にでた。
「――志吹さんとは健全な関係です。おっしゃるようなことは、断じてありません」
「ほう。威勢がいい」
志吹のお父さんは細い眼鏡を光らせながら、俺を試すように見た。
「僕はともかくとして、志吹さんの名誉にも関わるので」
志吹はまっすぐで、優しくて、不器用で。周りから何を言われようとも、それを受け入れている。本当は自分が一番傷ついているのに、本当はとても寂しいのに。それでも他人を責めないのは、彼女が強いからだ。彼女が、誰よりも他人想いだからだ。
――そんな彼女まで悪く言われるのは、俺にも我慢ならなかった。
「――君か」
するとお父さんは、「なるほど」とつぶやき、眼鏡を直すと、新聞を置いて、椅子に座ったまま、俺に相対した。
「すまなかった」
その言葉は、醸し出す雰囲気からは想像できない一言だった。
「なにぶん、志吹が友達を連れてくることなど珍しい。……まして異性など。私の思い違いだったようだ。非礼をお詫びする」
そういって目を細める。目尻の皺が、ほんの少しだけ優しさを帯びているように見えた。
「いえ、こちらこそ突然お邪魔してしまって申し訳ありませんでした。本日お邪魔したのは――」
「――娘のパソコンについてだろう?」
その言葉に、驚く。思わず、志吹を目を合わせた。志吹は首を左右に振っている。
「恥ずかしいことだが、私には全くわからないことだ。娘が興味を持った数少ないことながら、父親としてしてやれることは何もないとは、情けない。済まないが、よろしく頼む」
その後、俺たちは俊子さんのご飯を楽しんだ。
一言も発しないお父さんがやはり存在感を発していたが、俊子さんが聞かせてくれる志吹の昔話が面白かった。
「父がごめんなさい」
部屋に戻り扉を閉めると同時に、志吹が頭を下げた。その後頭部が、志吹の本気を物語っている。
「いや、いいよ。気にしてない」
「でも……」
「あそこはむしろ、僕から名乗るべきだったんだ」
箱入り一人娘。由緒正しき老舗で育った彼女。友達ともあまり遊べなかったというあたり、厳しい家庭環境にあったのだろう。下手をしたら、友達すら連れてきたことがないのかも知れない。
そんな娘が、ある日突然、男を連れてくる。
――これに意味を感じないほうが、おかしい。
「それほど、お父さんは志吹を大切にしているんだよ。いいお父さんじゃないか」
娘がよからぬことをしているなら、誰だろうと厳しく指導する。その貫かれた意思に、俺は少し憧れるのだった。俺は優柔不断の塊のようだったから。
「でも!」
腰掛ける俺に、志吹が詰め寄る。
「私も悪かったの。お父さんがいないから、説明しなくていいなんて、思って。貴方のこと、なんて説明しようとか、色々考えてしまって……」
志吹が立膝をつき、俺の肩に手を乗せて、そして落ち込んでいる。
「……ちなみにだけどさ、事前に説明するんだとすれば、なんて説明しようと思ってたの?」
――ただのクラスメートが女の家に上がるのか。
お父さんの言葉はもっともだ。幼馴染でもない、親戚でもない。ただのクラスメートが、異性の家に上がる。それも一対一で。
PCのセッティングができるから?
出来る相手なら誰でも頼む訳じゃない。
もちろんそれが俺と志吹の信頼関係だけれど、周囲はそれを知らない。
――この関係を表すなら、君はなんていう?
「それは……」
そしてこの質問は、俺自身が、一番理解していないといけないことでもあった。
「――」
志吹の顔が、どんどん紅潮していく。
困ったように、眉間に皺を寄せて、手の甲で口元を隠して。
「才賀と私は……」
揺れる瞳が、俺を捉えた。
「才賀は……私にとって……」
心臓の鼓動が、聴覚のすべてを奪った。
彼女の心臓と俺の心臓が、シンクロしていた。
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