第87話

 最初は寝起きのように、しかし次第に状況を把握しようと、その視線が空間を泳いでいる。やがてそれは俺の瞳に捕らわれるように、ピタッと停まった。


「衣央璃、わかる? 俺だよ」


 衣央璃はその視線を動かさずに、小さく頷いた。


「ここはプールの医務室だよ。覚えてる?」


 左右にゆっくりと首を振る。


「体調はどう?」


 俺はその手を取って言った。力無く、それが握り返されるのがわかった。


「……最悪。ぼうっとする……」


「んじゃあもうちょっと休んでいよう。衣央璃は倒れたんだよ」


 俺がそういうと、その瞳孔が少し開かれたのがわかった。それはわずかだったが、彼女の中で何かが合点したようだ。諦めたように深呼吸して、吐き捨てるように言った。


「そっかぁ……私、気を失っちゃったんだ……」


 だんだんと彼女の顔に生気が戻ってくるのがわかる。茫然自失の表情から、いつもの衣央璃の表情へ移り変わっていく。


「他のみんなは?」

「プールで遊んでるよ」

「私はどれくらいの時間、気を失ってた?」

「三時間くらいかな」

「そんなに」


 そういうと、衣央璃は体を起こそうとする。俺は無理は良くないと思い、その肩を抑えたが、


「ううん、起きたいの」


 と言われ、その背中をゆっくりと支えた。彼女の力ない体が、俺にもたれ掛かってきている。こんなに弱々しい衣央璃を、俺は見たことがなかった。


「ああ、気持ち悪い」

「無理しない方がいいよ。倒れたくらいなんだから」

「本当……倒れるって、こういう感じなんだね。最悪」


 そう言いながら頭を抑えている。俺は志吹が置いていってくれたペットボトルの水を開栓して、彼女に手渡す。彼女はそれを口にして、そしてぐびぐびと喉を鳴らしながら一気に半分くらいを飲んだ。


「結構飲んだね」

「喉乾いてたみたい。これ貰っていい? まだ飲めそう。後で返すから」

「いいよ、それは衣央璃のだから」


 それからしばらく、衣央璃は水を飲んだり、首を傾げたり、部屋の内装を見たり、俺の表情を確認したり、そしてまた水を飲んだり。自分の気持ちと状況の整理をしているみたいだった。その間も、俺達はずっと手を握ったままだった。


「――目の前が真っ白になっていく、って感じだった」


 そして彼女は、その時の状況を話始めた。


「ああ、なんか気持ち悪いな、力が抜けていくなぁって。――それで、目が覚めたらこうなってた。こんなこと、初めて」

「そりゃあ、そんなに何度も気を失ってて貰っちゃ、困るよ。心配だ」

「……ごめんなさい」


 そういった彼女の瞳から――雫が滴り落ちた。

 彼女の体は震え、顔をぐちゃぐちゃにして。


「心配かけて、ごめんなさい」


 だから俺は彼女を抱きしめたんだ。

 そうすると彼女も、その手を回してきた。

 力の入らない腕で、めいいっぱい力を込めて。


「怖かった。こんな感じになるなんて、全然、知らな、かった。もう死んじゃうのかと思って――もう才賀に、会えない、って――!」


 彼女の小さい肩が震えている。


「――怖かったよぉ」


 嗚咽が部屋に響き渡っていた。



 もう何度も見た、彼女の泣き顔。子供のように泣きじゃくるそれは、俺の胸も苦しくさせた。いつかあの日に誓ったのは、衣央璃にこんな想いをさせたくなかったからだと思いだす。その涙の理由に、俺がならないように。


 もしかしたら、別れは突然なのかも知れない。今回はたまたま運が良かっただけなのかも知れない。当たり前に側にいた人は、何の前触れも無く、いなくなってしまうのかも知れない。もし彼女の言うように、これが最後の機会だったなら、俺はどう想っただろう。


 ――後悔しない、なんて言えるだろうか。


 きっと、そんなことはあり得ない。

 俺がどう死力を尽くしても、彼女がいなくなれば、俺は後悔するんだ。

 どうしてあの時こうしなかったのか。

 それをどれだけ繰り返しても、きっとそれが消えることはないんだろう。


 ――唯月衣央璃は、そういう存在だ。俺にとって、そういう存在なんだ。


「衣央璃」


 彼女の涙が落ち着いたころ、俺は彼女に優しく言った。


「みんな心配してる。呼んできてもいい?」


 俺は彼女が強く頷いたのを見て、その肩をそっととって、再び横にならせた。


「すぐ戻るから、そこで横になってて。無理に立とうとしては絶対にダメだ。約束できる?」


 彼女の顔を覗き込みながら言うと、まるで子供の頃に戻ったように彼女ははにかんで、こちらに手を差し出した。その指先は、小指が立てられていた。


「ゆびきりげんまん」

「……ウソついたらハリセンボン飲ますからな」

「はぁい」


 あまりにも緩んだ笑顔に、少し恥ずかしくなり、そのオデコを小突いてやった。


「才賀」


 部屋を出ていこうとする俺に、衣央璃が言った。


「――一緒にいてくれてありがとうね」


 その言葉が、俺の胸にチクリとささる。


 一緒にいることが当たり前だった昔。でも今はそうじゃない。だから、感謝する。俺達はそういう言葉を口にしなければならないほど、大人になっていたんだと、実感する。


「――どういたしまして」


 俺は扉を閉めて歩きだした。そして心の中で、つぶやいた。



 ――こちらこそだよ。衣央璃。

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