第82話
思い立ったら吉日、とはよく言ったもので、綺咲が「プールに行きたい」と言えばそれは即日実行と
「お待たせ致しました」
我が家の前には、水谷家の所有する黒塗りのバンが停まっている。降りてきたのは水谷家に仕えるドライバー、三枝さん。
「ごめんなさい、父の仕事とは無縁なのに」
三枝さんは品よく微笑むと、軽く会釈した。
「滅相もない。私は嬉しいですよ。ささ、お入りにはって」
「ありがとう。じゃあ、皆さんもどうぞ」
お抱えドライバーの登場に、綺咲と衣央璃は呆気にとられている。昨夕泊まりにきた際も三枝さんが車を出してくれていたが、出迎えたのは俺だったので、こうして実際に目の当たりにするとやはり迫力が違う。三枝さんの立ち振舞も曇りなく磨かれた車、そして優雅に立ち振る舞う志吹が、お嬢様感を醸し出すのだった。
「お邪魔しまーす」
座席は助手席に志吹、最後尾に琴音と衣央璃、中段に俺と綺咲が座った。
「お忘れ物はございませんか」
「「大丈夫でーす」」
「それでは」
車は滑り出すように動き出す。
「ごめんなさい、付き合わせてしまって」
志吹が振り返ってそう言うと、
「気にしないで、志吹ちゃん。むしろ送ってもらえて、こっちがありがとうだよ」
衣央璃が優しく言った。
プールに行くからには当然水着が必要になる。俺や妹は家にあるし、衣央璃は家が近いのですぐ持って来られる。そして綺咲は、友達の家を回りながらも夏を満喫するつもりだったらしく水着を持ち歩いていた。
という訳で、唯一持ち歩いていなかった志吹の為に、志吹家に立ち寄ることになったのだ。三枝さんのご厚意もあり、そのままプール会場まで送り届けてもらうことになった。
車で移動すること四◯分。閑静な住宅街を抜けると、急に街並みが古くなっていく。風情を感じる、昔ながらの商店街。それを少し行った先で、車は停まった。
「じゃあ、すぐ戻るわ」
志吹がそういって、車を降りていく。
志吹が駆け込んだのは、瓦屋根の木造商店だった。軒先には複数のお菓子が並んでいる。その商店の奥には、その三倍近い大きさの屋敷が続いている。木造の塀から覗く少し先に、工場らしき平屋も見える。
志吹の話を整理するなら……
「この敷地に見えますのが、水谷家の敷地となっております」
「――でっか!」
窓に張り付いて様子を見ていた俺達に、三枝さんが教えてくれる。
「お店ではオリジナルの菓子折りや銘菓が取り揃えてあります。ご機会がありましたら、遊びにいらして下さいませ」
「あたし見てみたい!」
綺咲は身を乗り出してウィンドウに張り付いている。おかげで距離が近く、眼前に胸の膨らみがある。綺咲はこういう所は無防備なんだよな……
「お嬢様が戻られるまでお時間がありますから、よろしければ」
「やった!」
「私も! 琴音ちゃんも行く?」
「行く!」
そうして女性陣はお店の方に消えて行った。車の中に残る俺。
「ははは、元気があってよろしいですね」
その後姿を眩しそうに目を細める三枝さん。
「そうですか? 高校生なんて、あんなもんですよ」
「そうなんですね。あまり志吹お嬢様があのようにはしゃがれている所を見たことがありませんでしたから」
「そう、ですか」
氷の女、水谷志吹。教室でも誰とも口を利かずにクールにいるあの姿。年の離れた兄と、友達不在の環境。町中を歩けばうるさいくらいである女子高生のエネルギーを、三枝さんの前で発したことはないのだろう。三枝さんはご両親のドライバーであって、礼儀に厳しく育てられていたなら、なおのことだと思う。
「言ってしまえば、孫のようなものです。志吹様がお生まれになる以前より勤めておりますが、御学友と遊ばれているお姿をみることはなく……。あんなに楽しそうにお話になる姿は初めて見ました」
車内では、これから遊びにいく場所の話題や、女子の間で流行っているアプリの話題などが繰り広げられていた。志吹が楽しそうと言えば、個人的には銃について話している時が一番だと思うのだが、そういう普通の会話ですら珍しいという事なのだろう。
人は複数の顔を持っている。俺だって、家族やゲーム友達に見せる顔と、学校での顔が違ったりする。そういうもんだろう。
「これも、有坂様のおかげだと」
「志吹がそう言ってたんですか?」
「ええ、先日、初めてお送りした際に」
志吹がそんなことを……。
「これからも、お嬢様をよろしくお願いします」
三枝さんの優しい笑顔がこちらに向けられる。その笑顔を前に、中途半端な
「才賀」
気がつけば、鞄をもった志吹が、不思議そうな顔をしてこちらに向かってきていた。
「あれ、みんなは」
「お店に入ってったよ。すれ違わなかったの?」
「ええ、別の所から来てしまったから」
助手席に鞄を置きながら、志吹はこちらを見て首を傾げる。
「……なんの話をしていたの?」
俺は三枝さんと顔を見合わせて、お互いに笑った。
「世間話だよ」
「ええ」
夏の日差しが眩しい。つられて笑う志吹の笑顔も、同じくらい眩しかった。
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