第77話 Kisaki
――あれは間違いなく、クロだ。
月夜の明かりで目が覚めたのは、女同士の雑魚寝が寝苦しかったからじゃない。多分、心がざわついていたからだ。心が落ち着かなかったからだ。
見渡せば、志吹と衣央璃がくっついて寝ていた。ふたりとも、子供みたいな寝顔をしている。眉毛が下がって、可愛らしい。少なくとも今の姿を見る限りでは、色恋沙汰なんて無縁に見える。願わくば、今だけは純真な天使であって欲しい。
お手洗いついでに、階段をゆっくり降りていく。木造の床材が反響をする。それは鉄筋コンクリートのマンションの醸し出す音とは根本から違っていて、ここが他人の家なのだという事を強く認識させる。自宅にいるよりも心地よいと思えることが、不思議でならない。
リビングの扉をゆっくり開ける。カーテンの隙間から漏れる月明かりが、その空間に光の帯を映し出している。それはソファを切り裂き、そこにいる者の姿をくっきりと映していた。
「才賀」
蹴り落とされたタオルケットを肩までかける。大口を開けて、気持ちよさそうに眠っている。よほど疲れたのだろうか、眉間の皺が完全にほどけているその顔を見て、思わずあたしの顔も緩みそうになる。
つい先日まで、ろくに口を効いたこともなかった男の子。どちらかと言えば地味で、目立たない癖に、時折見せる真剣な眼差しがとても印象的だった。お金持ちの噂が流れても一貫して変わらないその態度に、多くの女子達は反感を抱いたと思うけれど、あたしは逆だった。どんなに周囲が騒ぎ立てようとも、彼の中に変わらない価値観があるのだ知り、そんな彼に、あたしは好感を抱いたのだった。
思えば、あたしはいつも周囲の目ばかりを気にしていた。目立つ性分だったし、それは仕方がなかったと言えばそうなのかも知れない。そんな環境でも自分をしっかりと持てる強さに憧れていた。底辺を甘んじて受け入れるのではない、自分の価値観を信じることができるその心意気が、あたしにはなかったのだ。そしてあたしの前で眠る男の子は、それを持っていた。
そんな彼に好意を抱く女がいたとしても、あたしは何の疑問も抱かない。
「罪な男だぞー、お主は」
頬に触れながら、先程までの女子会を思い出していた。志吹と衣央璃。女の勘を信じるなら、あの二人は才賀に惚れている。二人がどのように認識しているかはわからないけれど、あたしからすればそれは恋心と呼ぶのにふさわしい感情だった。
「あんたはどう思ってんだー、うりうり」
あたしから見ても、二人は可愛い。そんな二人から好意を寄せられていることに、きっとこの唐変木は気づいていないのだろう。しかし確かにあたしの目の前で起きている現実だった。
それはなんて不安定な状態なのだろうか。危険なバランスだ。何かが少しずれるだけで、大きく変わってしまうかもしれない。
結論はきっとまだ出ない、だけれど、いつかは必ずでる。その先に、あたしの居場所はあるのだろうか。
誰かと誰かが恋人関係になれば、壊れる友情関係もある。才賀が二人のどちらかを選んだなら、このアンバランスな関係は脆くも崩れてしまうだろう。あたしが変わらず彼の側にいることは、叶わない。きっと、許してもらえない。ならば、少しでもこの時間が長く続くように。そう願うことに、何の罪があるというのだろうか。
「ほんと、呑気なもんよね」
きっと彼は知らないのだろう。彼の周りで、どんな変化が起きているのか。だからこそ、こんな少年みたいな顔をして眠っていていられるのだ。そしてその彼の横で、少女のように笑っていたい。そんなことを思うようになっていた。
「キスしちゃうゾ」
彼が起きないとわかっていて、そんな事を言ってみる。そんなセリフが自然に口からでてくることに、驚いたりもする。
キスなんてしたことない。物心ついた頃から、母の恋愛事情はうっすらとわかっていた。不潔。それがあたしの感覚だった。だから、誰かにせがまれても、あたしが応じることはなかった。母と同じになりたくなかった。
それが、自分からそんな事をいうなんて。
本当、どうかしている。
「むかつく」
その顔を覗き込む。彼の何がそうさせるのか、あたしにはまだわからない。ただ、この居心地の良さだけが、今のあたしにとって真実だった。
その胸に耳を当てて、彼の心音を聞くと、あたしの心臓はそれに重なるように、穏やかになった。
「――何、してるんですか」
突然の声に、驚いて振り向く。
薄暗い廊下の奥から、人影が近づいてくる。
「……琴音ちゃん」
才賀の妹は、日中とは異なる雰囲気を纏っている。あたしはこの空気を知っている。警戒、不信、そして――嫌悪だ。
「夜遅くまで、起きてるんだね」
「お互い様です」
――見られた。
彼の胸に覆いかぶさっている所を。
その証拠が、彼女の表情にあった。歪めた瞳には、何種類もの感情が折り重なっている。
であるなら、今更取り繕う必要はない。
「――何、って。見て、わからない? それに、こういうことするのに、誰かの許可が必要?」
彼女はまだ幼い。あたしが大人な雰囲気を出せば、それ以上詮索することはないだろう。
しかし彼女は、拳を震わせて言った。
「……これ以上、お兄ちゃんを振り回さないで下さい。お兄ちゃんが可愛そうです。――お兄ちゃんを好きな人も」
その言葉には、色々な意味が含まれていると思った。そして、彼女もやはり気がついている。気がついていて、邪魔をするなと言っているのだ。
「お兄ちゃん想いの良い子だね、琴音ちゃんは。でも、嘘って良くないと思うなぁ。それって本当はさ」
そしてそこから先は、女の勘が、あたしに告げていた。
「――あなたの為なんじゃない?」
その言葉で、琴音の表情が激しく歪んだ。若々しい激情が包み隠さずあたしに向けられている。
それをなんとか抑えた彼女は、振り向き、扉を閉めながら、言った。
「あなただって、嘘ついてるクセに」
扉は静かに、しかし激しく閉められた。
そのエネルギーに、思わず腰が抜ける。
これは嫌われたかも知れない。というか、嫌われただろう。やり方を間違えたのかも知れない。それよりも。
「……嘘なんて、ついてない」
最後に向けられた言葉が、心臓を締め付けた。
そして彼の体に触れるたびに解けてい心臓が、どうしようもなかった。
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