第72話
「ただいま」
ノックしながら、風呂から上がった衣央璃が部屋に入ってきた。
「おかえりー。お、パジャマかわいーじゃん」
綺咲が真っ先に言う。召し物をすかさず褒めるとは、さすがの女子力!
「ありがと」
柔らかなライムグリーンのパジャマ。衣央璃のすきな水玉模様が描かれているそれは、胸元にふんわり余裕をもたせた、女の子らしいデザインのものだった。
「ドライヤー借りるね」
衣央璃はそう言って地べたに座ってドライヤーで乾かし始める。
「じゃあ、次あたし入ろっかなぁ。志吹、一緒に入る?」
綺咲が立ち上がりながら言う。先程からクッションを胸に抱えてピクリとも動いていなかった志吹が、綺咲を見上げながら驚いていた。
「なんて、冗談よ。じゃあ、あたし行ってくるねぇ」
そう言う綺咲が着替えを取り出すのを見ていた志吹は、突然立ち上がって、言った。
「――は、はは、入る!」
その声はドライヤーをかけている衣央璃にも聞こえるほどのボリュームがあり、衣央璃が一瞬ドライヤーを止めて「?」という顔で見ていた。
「せっかくだし……その……」
いらぬ注目に臆したのか、急にもじもじし始める志吹に、
「一緒に入ろ?」
綺咲が優しく笑いかけた。志吹は嬉しそうに着替えの入った鞄を手にとった。
「じゃあ、また後でねー」
そういって志吹を連れて綺咲が階段を降りていく。
志吹と綺咲が友達と呼べるようになったのはごく最近だ。狭いお風呂に一緒に入るほどの仲、とは到底言えないだろうが、これは綺咲なりの気遣いなのかも知れないと思った。実際志吹は誘われた事が嬉しそうだったし、下手したら同年代の子と一緒にお風呂に入ること自体が無いかも知れなかった。
そんな訳で、気がつくと俺と衣央璃の二人きりになっていた。
衣央璃はまだ髪の毛を乾かしている。毛量の多い衣央璃は乾かすのも大変そうだと思った。そしてその後ろ姿を見て、あの頃はこんなに髪の毛が長くなかったよな、と、幼い頃の事を思い出す。
「なんだか、久しぶり」
髪にくしを通しながら、衣央璃が言う。
「思えば、この部屋に入るのも何年ぶりかなぁ」
「んー、どうだろうな。たしか……」
「私、覚えてる。中学二年生の、夏休み前。だから、三年ぶりだ」
衣央璃が髪をとかしながら、俺を見つめている。
「――あの時、か」
中学二年生の、夏休み前。俺と衣央璃の関係が、一番最初に変わった時だ。
「みんなにさ、お前ら付き合ってんのかー、って言われて。才賀があんなに怒るとは思わなかったよ」
中学も二年生になれば、恋心も芽生えている頃。付き合う、というのが具体的にどういうことかもわからずに、しかし誰かと付き合いたい、好きな相手に告白するというのが、若さの証明だと思う。そんな時期だったから、俺と衣央璃はよく囃し立てられたものだった。
「いや、その、あれはなんていうか、やりすぎだったと言うか」
その日、黒板には誰が書いたか知らない相合い傘が描かれていた。並んでいた名は俺と衣央璃のものだった。衣央璃が俯いているのを見て、俺のリミッターが外れた。
その日、俺は教室でキレ散らかし、そのまま下校した。衣央璃は俺を追いかけるようにして、俺の部屋にまでついてきた。それまでは当たり前だった事だけど、「こういうことは最後にしよう」と俺が言ったのだ。
それ以来、衣央璃はこの部屋に来ていない。俺達はこの日から、男と女として、一線を引いたのだ。
「キレるのはガチャポンの前だけかと思ってたのに、びっくりしちゃった」
「……そう言うなよ。それに衣央璃だって、嫌だったんじゃないのか?」
「私は別にそんな。だってそういうこと言われるの初めてじゃなかったし。それに仲が良かったのは事実だし」
「そう、なのか?」
あの時衣央璃が俯いていたのは、嫌だったからだと思っていた。だとしたら、俺はキレ損した気がする。
「――嫌なことがあった日だった、には、違いないけどね」
衣央璃はそう言って、膝を抱えた。寂しそうな顔で、唇を尖らせている。
「連中に何か言われた?」
「ううん。でも、才賀に言われた」
「俺に? 俺、なんか変なこと言った?」
「うん、言われた」
その試すような目に、俺は考えに考える。思い出そうとすれど、しかし思い当たる節がない。
「才賀にはわかんないと思うよ? それに、私がはっきり言わなかったのも、いけないんだし」
そういうと衣央璃は、ベッドに腰掛ける俺のすぐ側に座った。いい匂いがする。
「――だから、今度は間違えないようにする」
小さく何かを言った衣央璃は、膝小僧を抱えて、ことんと俺の肩にもたれ掛かって来た。
「……近いよ」
「……だめ?」
「……だめじゃないけど」
「……じゃあいいじゃん」
「あいつら帰って来ちゃうぞ」
「まだまだ帰ってこないよ。お風呂だよ? まだ時間あるもん。――それとも、やっぱり嫌?」
衣央璃が上目遣いで訪ねてくる。その眉尻が下がるところが、ずるい。泣き虫だった衣央璃が困ったり泣いたりする前は、必ず困り眉になる。俺はそれを見ると、強く出れなくなる。
「……帰ってくるまでだからな」
「はぁーい」
衣央璃は上機嫌そうに、鼻歌を鳴らしながらゆっくり揺れている。
その鼻歌を随分久しぶりに聴いたなと思いながら、俺達はつかの間の穏やかな時間を過ごした。
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