第71話 Ioru

「衣央ちゃん、おっぱいおっきいなぁ」


 体を洗っていると、お風呂に浸かった琴音ちゃんが羨ましそうに言った。


「ええ? そ、そう?」

「いいなぁ。羨ましい。あたしなんかまだこれっぽっちも……」


 そういって自分の胸を両手で抑えて、口まで浸かってブクブクやり始めている。

 琴音ちゃんと一緒にお風呂に入るのは随分久しぶりの事で、おそらく数年ぶり。彼女がまだ小学生だったと思うし、私は中学生で、ちょうど琴音ちゃんと同い年くらいの時だったように思う。


「琴音ちゃんは痩せてるから。それにまだまだこれからだよ。がんばろ?」

「……頑張っておっぱいおっきくなるなら誰も苦労しないよー」


 びっくり。琴音ちゃんは自分の胸の大きさとか気にするような年頃になったんだなぁと実感する。


 よくよく考えてみれば、いくら幼馴染とはいえ、男の人の家で、それもなぜかその妹とお風呂に入っていることは少し変なのかな、とも考えてみたりした。けれどもそれこそ小さい頃は一緒にどろんこになるまで遊んだりして、互いの家でお風呂に入れさせられたりした訳だから、やっぱり私達には当たり前のことなんだと思い返した。どちらかと言えば、才賀がうちに来て私のお母さんに洗われていることの方が多かった気もするけれど。


「ねぇ、ずっと聞きたかったことがあるんだけどさー?」

「なぁに?」

「最近、兄貴と喧嘩してた?」


 琴音ちゃんは上目遣いで聞いてくる。


「最近、来てなかったからさー」


 それはおそらく、つい先日までの私達の関係を言っているのだと、すぐわかった。


「ううん、喧嘩してないよ」

「でも……」


 私は泡を流し、髪の毛をまとめて、ゆっくりと湯船に入る。二人の体の体積で、水が溢れた。昔は二人で入ってもそうはならなかったなぁと過ぎった。


「私が怒らせちゃってたの。だから、喧嘩じゃないよ。私の配慮が足りなかったんだよね。でも、それも許してもらったから」


 私は体育座りをしながら、先日までの日々を思い返していた。


「ならいいんだけどさ。兄貴がひどいことでもしたんじゃないかと思って」

「うーん、ひどいことならされたかなぁ?」

「えっ! 嘘っ!?」

「じょーだん。才賀はいつでも優しいよ」


 私がそう笑うと、琴音ちゃんは納得していなさそうな顔だった。


「だいたい衣央ちゃんは兄貴に甘いんだよ。そういう時は、もっと怒ってもいいのに! なんでこっちが謝らなくちゃいけないの? くらいの勢いでイイのに!」

「――そんな事、言えないよ」


 私には、そんな事を言える気が到底しない。言える訳がなかった。


 あの日々で私は痛感したのだ。当たり前に側にいた存在がいなくなる。それが、私にとってどういうことなのかを。それが、どんなに贅沢で、ありがたかったことなのかを。


「そっかぁ」


 琴音ちゃんはそう言って、視線を流した。なんだかそれがとても大人に見えて、琴音ちゃんが女に見えた。気が付かない間に、私も琴音ちゃんも、大人への道を進んでいたのだと思った。それくらい、時は進んでいたのだ。


 だから、知らないこともある。むしろ、知らないことだらけだ。


「あたし、衣央ちゃんを応援してるから」


 急に琴音ちゃんはそんな事を言って、私の手をとった。


「ええ?」

「お姉ちゃんになるのは、衣央ちゃんがいいんだもん」


 私がその言葉を理解するよりも前に、琴音ちゃんはそういって私に抱きついてきた。


「今でもお姉ちゃんだよ?」

「……そーゆー意味じゃないぃ」


 琴音ちゃんはそう言って、ざばぁと立ち上がって、「先に上るね」と出ていってしまった。


 もちろん、その言葉の意味がわからないほど、私は子供では無かった。


「……ありがとう、琴音ちゃん」


 いつかはそうなるんだろうと、そう思っていた。このまま行けば、そうなるのが自然なのだと、それも悪くないかなぁなんて、私は漫然と思っていたのだ。


 私は傲慢だった。私はとんだ勘違いをしていたのだ。


 よく知っていた人が、知らない間に、知らない人間なっていく。それがどれほど不安で、恐ろしいか。自分よりその人を知っている人が現れることが、こんなに苦しいことだと思わなかった。


 出来ることなら、私が側にいたい。昔がそうだったみたいに、これから先も、ずっと。


「私も、そう思ってるよ」


 いつまでも、受け身ではいけないのだ。昔のように、手を引いてもらうのを待つだけじゃ、駄目なのだ。ここからは、私が頑張らないといけないのだ。その権利を、手に入れる為に。そのたったひとりに、選ばれるために。


「才賀」


 私はその感情を、恋と呼ぶことにした。

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