第63話

「綺咲? どうした?」


 だが返事はない。しかし依然として苦しそうな声が続いている。薄暗の中、綺咲を覗き込む。


「……うなされているのか?」


 つぶやいた瞬間に、それは確信に変わる。さっきまで穏やかな表情だったのに、眉間に皺を寄せ、汗ばんでいる。足を動かし、かけ布団が崩れ落ちる。


「だめ、だめ……!」


 その苦しみ方は尋常ではなかった。何か悪い夢にうなされているのか。


「おい、おい、綺咲、大丈夫か」


 肩を揺するが起きる気配はない。そのうち、腕を大きく振り上げて、ベッドに叩きつけるようになった。ベッドのフレームや壁にたたきつけてしまいそうだった。


「綺咲、しっかりしろ」


 俺はその腕をとり、肩を何度か叩きながら、綺咲の名前を呼んだ。すると、やっと海面にでて息ができたと言わんばかりに、ぶはっと息を吸い、彼女の目が開いた。その瞳孔は開ききっている。


「はあ、はぁ……はっ……えっ」

「綺咲、大丈夫か」


 綺咲は俺の顔を見て、一瞬驚き、そして部屋を見渡し、状況を把握してから、助かったと言わんばかりに深呼吸をした。


「才賀、か。あたし……」

「ごめん、起こして。うなされてたから」


 俺はそういってから、彼女の手を離した。


「手、ぶつけちゃいそうだったから。大丈夫か?」

「うん。ごめん、ちょっと……」


「凄い汗だな。ごめん、俺がエアコン調整したのが良くなかったかも。とにかく、水持ってくるから、待ってて」

「え、いいよ」


 綺咲はそういって指の先で、俺のシャツを掴んだ。俺はそれに手を添えて彼女のお腹のあたりまで戻し、


「大丈夫、すぐ戻るから」


 と言って、部屋を出た。俺はタオルを水できつく絞ったものと、アイスハーブティーをもって再び部屋に戻ると、綺咲は仰向けで寝ており、片腕を額の上に乗せていた。


「綺咲」


 俺はベッドの端に腰掛け、綺咲の額に手を伸ばした。熱がある理由では無いらしい。


「汗凄いから、これ、まず飲んで」


 俺がそういうと、上半身をあげようとするので、腕を回して起きがらせる。コップをもたせて、それを飲ませる。ごく、ごく、という音が良く聞こえる。


「結構落ち着くよ。俺もさっき飲んでたんだ」

 それを一通り飲み干すと、やっと冷静になれたのか、ようやく彼女の言葉が聞けた。


「落ち着いた?」

「――うん。ありがとう、才賀。ごめん、やっぱりあたし、嫌な夢みてたみたい」

「そっか」

「それ以上は見たくなかったから、正直、かなり助かった」


 そういって、綺咲は膝を折り、そこに頭を埋めた。


「――いつもなのか?」


 俺が聞くと、彼女は黙って首を左右に振ってから答えた。


「本当最近、極稀に。友達んちではこんなことなかったのに。――引いた?」

「引かないよ。それより、こういうことが俺んちで良かったじゃん」

「え?」


 彼女が少し驚いてこちらを見る。


「友達に見られると、気まずいだろうから。俺だったら、気にしなくていいんだし」


 俺がそう笑顔でいうと、しかし彼女はなんとも言えない表情で俺を見ていた。動揺、悲しみ、恥ずかしさ、そのどれもがあるような表情で、瞳を揺らしていた。


「……やば……」


 その声はあまりにも小さく、よくわからなかった。


「まぁとにかく凄い汗だし、一度拭いた方がいいよ。はい」


 水で絞ってきたタオルを渡す。俺はそういってベッドから腰を浮かせようとするが、その腕を、綺咲がとった。


「拭いて」


 最初は聞き間違いかと思った。しかし彼女は、なんだか悔しそうな表情をして、顔を逸して、また言った。


「届かないの、背中。拭いてよ」

「お前なあ」


 そういって俺も体ごと振り返ろうした時、俺の腕を握るその手が、より強く握られたのがわかった。


「……わかった。じゃあ、はい、背中だして」


 夢の余韻か。相当に嫌だったり怖かったりしたのだろう。今は一人にしてほしくない、ということだと俺は受け取った。


「ん」


 綺咲はそういって体育座りのまま、お腹のあたりを少したくしあげた。Tシャツが張り付き、背中のあたりが全然出てこない。俺は開き直り思い切ってそれを上まで持ち上げる。


「冷たいよ?」


 そう声をかけてから、背中を拭った。スタイルがいい綺麗な綺咲の、小さく丸まった背中だった。


「横も……」

「はいはい」


 こうなりゃ恥じらいなんてどうでもいい。俺は毅然とした態度で、彼女の助けになるべきだ。そうして、多少柔らかい部分に振れつつも、しっかりと拭いた。


「着替える?」

「ん、いい」

「んじゃ朝いち、シャワー浴びるといい。それまではまた寝て……」


 俺がそう言いかけた時だった。彼女が身を寄せるように振り向き、俺のTシャツの裾を掴んだかと思えば、俺の胸に顔を埋めてきた。


「どうした」


 しかし彼女は何も言わない。やがて彼女のもう片方の手が、俺の胸元を掴んだ時、俺はどうして欲しいのかがわかった。


「大丈夫だよ。そういうことは、きっと誰にでもあるから」


 回した腕で彼女の背中を擦った。擦るたびに、彼女の体のちからが抜けていき、二人の体は近づいていく。俺は彼女を抱きしめていた。


「落ち着くまでこうしてるよ」


 父の新しい恋人。そして悪夢。ずっと家に帰っていないという状況。綺咲の精神は消耗してしまっていたのだろう。あの綺咲がこんなに弱っている所を見せるなんて。その相手が俺という所からも、本当に限界だったのだろう。


「頭……なでて……」


 胸板から共鳴して聞こえる彼女の声。殆ど何をいっているかわからないが、俺は言われるがまま頭をなでた。


「才賀ぁ……」


 そこから先、彼女が何かを言っていたか、俺にはわからなかった。

 そうして彼女が疲れて眠ってしまうまで、俺達はそうしていた。

 俺その華奢な体を抱きながら、彼女が抱えるものの大きさを感じていた。

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