第53話 水谷志吹はその時

 自宅に帰ると、珍しく父が居間でくつろいでいた。

「お父さん。今日は早いんですね」


 その背中から「ああ」とだけ返ってくる。和装の部屋着であぐらをかき、タバコをふかしながら難しい顔をして新聞を読む。これが父の変わらぬスタイルで、我が家の大黒柱としての象徴でもあった。


 父からはいつでも緊張感のようなものが放たれている。それはいつでも戦いにいけるという様な、まるで戦場の戦士のような圧で、幼少の頃はそれが怖くて仕方がなかった。でも今は、それが心強く感じる。この父があってこそ、我が家は守られるのだ、という安心感があるのだった。


「お茶が冷えてますね。入れ直します」


 私は冷めてしまった急須きゅうすと湯呑をもって、台所へ向かう。我が家では父に敬語を使うのが習慣だった。別にそれは父が躾けたものではなかったけれど、父の存在感がそうさせていた。実際、父は祖父に対して敬語だった。家長に対して敬語を使うなんて言うのは、今どき古臭い慣習なのかもしれないけれど、私達にとって見ればそれは普通のことだった。


「あら、志吹さん。おかえりなさい」


 台所につくと、家政婦の俊子としこさんが晩ごはんの支度をしていた。


「ただいま」

「お茶、冷えてしまいましたか。私がやりますから、そこへ置いておいて下さい」


 そう言いながらも、俊子さんは今日も手がこんだ料理の真っ最中だった。煮物の香りが台所を満たしていて、食欲をそそられる。


「いいえ、これくらいは私がやるわ」


 私はそう言って、地下水を組み上げて、ヤカンを火にかけた。我が家の台所は家と同じく歴史が古く、その一角には地下水を組み上げるためのハンドルがある。もちろん、ケトルだったり最新の電子レンジだったりと調理器具には困っていないのだが、結局のところこの方法で入れたお茶が一番美味しいのだ。


「すみません、志吹さんのお手を煩わせてしまって」

「嫌だわ、俊子さん。私も女です、これくらいはなんてことないわ」

「ありがとうございます。旦那様も喜ばれると思いますよ。可愛い一人娘にお茶を入れてもらうなんて」


 俊子さんはそう言って、「うちの娘なんて一度もしたことないから」と付け加えた。


「父は……そういうことで喜ぶタイプではないと思うのだけれど」


 私がそう漏らすと、俊子さんは鍋をかき回しながら言った。


「娘に奉公されて喜ばない父親なんていませんよ。顔に出さないのは、お恥ずかしいからでしょう。それが男のプライドが許さないのでしょう。おかわいいじゃありませんか」

「だと良いのだけれど」


 ヤカンが口笛を吹き、私は急須に丁寧に注いでいく。お茶は和菓子に練り込む種類を使っているあたりが、我が家らしいところだと思った。


 相変わらず渋い顔の父の側に座り、お茶を注ぐ。その様子に、父は目もくれない。


「どうぞ」

「ああ」


 そうして一口飲み、ゆっくりと置く。そしてまた新聞に戻る。いつもの父を変わらない。これで喜んでいると感じることができるようになるには、まだまだ私が子供だということだろうか。

「お父さん、お話が」


 父は横に正座した私を横目で一瞬見た。聞いてやる、という意味だとわかる。


「欲しいものがあるのです」


 私がそう言うと、父は一瞬の間をもって、新聞を丁寧に畳み、机に置いた。


「言ってみなさい」


 久しぶりに直視した、父の細い目がそこにあった。正直、こうして面と向かってくれるとは思っていなかったから、少し動揺した。


「パソコンが欲しいのです」

「パソコンか」

「はい。それも、性能が良いものを」


 そういうと、父は私のことをまっすぐに見た。私もまっすぐに見返した。そこに言葉はないけれど、「一体何に使うんだ」と、その瞳が聞いている。私は理由を聞かれたら応えるつもりだったけれど、しかし父はすっと瞳を閉じて、「わかった」と言った。


「お金は気にしなくていい。納得の行くものを買いなさい」


 父はそう言って、再び新聞を広げた。


「ありがとうございます」


 私は深く頭を下げた。他にも色々聞かれるかと思って、しばらくその場にいたけれど、結局言及はなく、私はそっとその場を離れて、自室に戻った。


「お父さん、何も聞いてこなかったな」


 部屋で独り言を言う。私のそれは殆どクセのようなものだった。


 理由を聞いてこないのは、信頼なのか、興味がないのか。パソコンだって、安いものじゃない。我が家の財政を考えれば大したことがないのかも知れないが、高校生の娘に買い与えるものとしては十分高額であるはずだ、と世間を見てそう思う。とはいえ、理由を聞かれたら答えるのに度胸が必要だっただけに、ありがたくもあった。あやうく、ゲームをやるためだと答えなくてはならなかった。


「でも、これでみんなと遊べる」


 才賀の家で出会った人たち。年齢もバラバラだったけれど、とても楽しい人達だった。本気でゲームを楽しんでいる感じがして、夢中になっている感じが眩しかった。たどたどしい私の会話にも、ちゃんと応えてくれた。何より、銃の話をして、同じレベルで回答が得られるということが、どれほど嬉しいことなのかを、身を持って体験できた。なぜかその時、才賀は「ずるい」「なんでお前だけ」だとかなんだと詰問されていたけれど。


「才賀。ありがとう」


 それは才賀が教えてくれた世界だった。私がいままで見ていた世界は、いかに狭いのかということを痛感した。そしてそれは希望にもなった。ただただ大学受験のために勉学に勤しむ日々は、無駄もないが退屈と言えばそれまでだった。


「パソコン買ったら、才賀に色々教えてもらおう」


 私はアプリを起動して、彼にメッセージを打った。


『パソコン、買ってもらえることになったよ』


 これからの毎日が、ますます楽しみになった。


 そして彼のからの返信が届く。

 私はこころが暖かくなっていくのを感じていた。

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