第9話

 彼女は飲み終えたコップを静かに置くと、滴る水滴を紙ナプキンで拭いながら、言った。


「私の事を知っている。というのは存外、厄介なのよ。人の印象を変えることは、とても難しいから」


 彼女は続ける。


「私が学校でなんて呼ばれているか、知ってる?」

「……氷の女」


 そう返答すると、少し驚いたようにこちらを見開いた。


「わりと有名だと思うけど」


 しかし僕の追撃によって、ため息とともにうつむき、また水滴を拭き取り始めた。


「……ダメね。有坂君にまで知られているなんて。いや、そうじゃないか。私が、自認していないのが問題なんだわ」


 水滴で透き通る紙ナプキンが、彼女の華奢な指先によって折り畳まれていく。


「そういう印象を持っている人に、自分を伝えるのって、とても難しいと思うの。どうしたって、そのイメージが理解の邪魔をすると思うのよ。例えば今私が、本当は燃えるような恋をしたい、夢中になれる相手が欲しい、って言ったとして、それを貴方が誰かに伝えても、きっと誰も信じないわ。貴方自身も」


 彼女はそう言って、寂しそうな顔をした。


「……恋、興味あるの?」


 その意外な言葉に面食らったのは、何よりもこの場に居合わせた俺に違いなかった。


「そりゃあまぁ、年頃ですから」


 彼女はそういうと、恥ずかしそうにしている。


「私だって、氷の女なんて名前、甘んじているつもりはなかった。でもね、気付いた時には時すでに遅し、って感じで」


 そしてため息とともに、それは語られた。


「入学して最初に告白してきた人がね、私の友達の好きな人だったの」


 頬杖をついた横顔に、人並みの影が映し出されている。


「私はそんなこと知らなかった。当時は興味もなかった。だからなぜその人が私に告白してきたのかさえも、まるでわからなかったの。私は素直に、今は誰とも付き合うつもりはないと応えたわ。そうしたら、翌日から私は仲間はずれにされたのよ」


 仲間はずれ――。彼女はそうオブラートに包んで言ったが、俺にはわかる。

 それは、いじめだった。


「その子の気持ちも、人を好きになるって気持ちも、正直私にはよくわからなかった、だからなんでそんな仕打ちを受けたのか、私は理解できなかった。そうこうしている内に、また告白されてね。私、知りたいと思ったのよ。だから私はその彼に言ったわ。私に貴方のことを教えて、って」


 彼女は続けた。


「でも、全然わからなかった。知りたいって、思えなかったの」

「……それで、『興味がわかない』ってことか」


 顎を触れながらうなずく俺をみて、またもや驚きの表情を見せる彼女。自笑の表情を見せて、カウンターに突っ伏した。


「そんなことまで知られてるんだ」


 でもこれで少し納得がいった。


「つまり水谷さんは、あくまで相手の身の上話に興味がわかないと言っただけで、決して相手、強いては恋愛そのものに興味が無いと言った訳ではない、と」


 それを聞いた彼女は、突っ伏したまま首をこちらに向けた。


「じゃなきゃ、アプリに登録しないわよ」


 手の甲に顎を乗せ、ガラス越しを見つめる彼女。その向こうには、幾人ものカップル達がある。



「私を知らない人なら、きっとうまくいく――。そう、考えたかったのよ」



 その言葉に、俺の心が軋んだ。


「――わかる、気がするよ」


 自分が知らない、自分を知らない人。


 それは、俺がこの出会いに求めたものと、同じだった。

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