第2話 幻覚が幻覚について教えてくれた

 あれ、ふくさんの本名って何だっけ。

 思い出せない。


 そういえば、ふくさんっていつからこのフロアに入居しはじめたんだろう。

 思い出せない。思い出せない!


「い、い、いや、今話してたばかりだから、ホールの隅にいるはず。」


 主任と二人で見に行ったが、ふくさんは居なかった。

 主任の顔はすでに、いつものつり目ではなく、悲しみでこぼれ落ちそうな目をしていた。

 そんな目をしないでくれ!


 そういえば、僕はふくさんが食事をしている場面を見たことがない。

 寝たきりの人以外は全てが食事をしにホールに集まるはずだ。

 そこでもふくさんを見たことが一度も無い。


 老人ホームの色々な人にふくさんの存在を確認していく内に分かった。







 ふくさんは存在しない。


 どうやら、僕はファントムウイルスによる感染症を発症したらしい。


 なぜか知らないけど、発症したことが分かったら気持ちが落ち着いてきた。


 もうじき死ぬかもしれないのに、なんでこんな落ちついてるんだろう?



 僕は吾郎と同じように、その日の内に退職することになった。

 この仕事が好きだし、死ぬその日まで続けても良かった。


 ただ、幻覚が見えるようになった人間が勤務しつづけるにはこの仕事は問題がある。

 誰かを傷つけてしまう事故を起こす危険性があるからだ。

 これはファントムウイルスの感染症が広まってから介護業界全体が持つ共通認識でもある。


 ただ、主任には色々な意味でお世話になったから、最後に今までのお礼を言わないと。



 ステーションにいる主任の所へ向かった。


「今まで本当にありがとうございました。

 主任には、僕のミスにより多くの迷惑をかけたと思います、本当に申し訳ございませんでした。」


 主任、いや、荒川恵美さんはボロボロ泣いていた。

 想像していた反応とは違って驚いた。

 心配のそぶりをするいわゆる、大人の対応をされると思っていたのだ。


「野田君...まで居なく...なっちゃうなんて。ひっく。

 いつも飄々としてた..野田君だけは発症しないと.....勝手に思ってた。

 こんな...ひどい状況の中...野田君だけはいつも変わらず....明るくて..呑気で..

 そういう姿に....元気をもらえてたんだ。」


 不謹慎だが泣いてる主任可愛いな。居なくなるの申し訳ない。

 でも、このバカでかい老人ホームは僕が居なくなっても代わりの人が他のフロアからやってきてくれる。

 それでも常にギリギリでの運営なのがきついと思うけど。


 ん..............えっ!?


 もはや呪いかと思ってた”世間との感覚のズレ”が主任の元気の素になっていただと!?


 人生の最後にふさわしい、最高の誉め言葉をもらった気がする。

 なんというか....冥土の土産には持って来いである。


「主任、なんて言ったらいいか分からないけど、本当にありがとうございます。

 こちらこそ、出会ってくれて本当にありがとうございます。」


 《環境の変化に対する不動の心をよく育てました。それにより、様々な変化に対する耐性を身に着けました。

 次は、自ら環境を変えていく力を身につけましょう。》


 なんだいまの!!?


 なんか聴こえた。え?どういうこと??

 主任に褒められた後に、また、他のよく分からない何かに褒められた!



 心の内側から聞こえたようにも感じるけど、主任には聞こえなかったのかな?


 ふと目を向けると主任はティッシュで鼻をかんでいた。

 どうやら聴こえていないらしい。


 気になるが、このことはひとまず置いておこう。


 主任も、もうじき若くして死ぬかもしれない人間に対して正直どんな言葉をかけていいか分からないと思う。

 僕自身、吾郎が死ぬ前に何を伝えればいいか分からなかったんだ。

 自分から話を切り上げて、去ろう。


「では、失礼いたします」


 とだけ言い、一人暮らしの家へと歩き出した。





 僕はすでに家族がいない。


 ファントムウイルス以前に、僕が21歳の時、交通事故で両親ともにすでに事故死をしている。


 速度を出しすぎてカーブを曲がり切れず、ガードレールを突き破り、崖から車ごと落下した。

 法定速度が40キロの場所で100キロほどの速度を出していたらしい。


 親父がそんな速度を出してカーブを攻めるとかありえない。

 親父はいつも法定速度50キロの所でも40キロで走るほどのマイペースっぷりだ。


 今でもどうして事故にいたったのか分からないが、両親ともにこの世に存在していないのだけが確認済みの事実である。



 それで、家に帰る途中、今後のことについて考えていた。

 この感染症は、幻覚を見たらほぼ一週間以内に死が訪れるらしい。

 さっきは幻聴まで聞こえた。


 ただ......幻聴を経験して思ったが、この幻覚は興味深い。


 幻覚で現れたふくさんにしろ、さっき聴こえた言葉にしろ、幻覚の中に登場するものは「固有の意志を持つ何か」であるように感じる。

 本来、幻覚は自分の頭の中での現象なのだから自分が知っていること・過去の記憶しか登場しないはずだ。

 そこには意志など感じないのではないか?


 しかし、発症して経験した幻覚には、まるで自分とは別の存在が関与するような固有の意志を感じる。


 まあ、幻覚なんてはじめてなんだから、これが特殊な幻覚かどうかなんて比較しようがないんだけどね。



 せっかくだから幻覚を分析してみようと思う。


 確かに、近い未来に訪れるであろう心臓麻痺は確かに恐ろしい。

 しかし、恐ろしいからといってただビビるだけでは命のむだづかいなのだ。


 ひとまずスーパーに立ち寄り、いつものようにカップラーメンを買っていった。


 好物である「ミルキー担々麺」は、その名前に騙された人は地獄を見ることになるだろう。

 名前の印象どおりかなり甘いのだが激辛である。

 しかも、ミルキーなドロドロが舌に絡みつき、辛みが一向に抜けないのだ。

 食べてみると、罰ゲームのような激辛を味わいつづけ、悶えることになる。


 死ぬ間際でも激辛好きは変わらないってことか。



 少し大きめの公園の裏に立つ赤い屋根の木造アパート。その一部屋が僕の城である。

 物が少なくこざっぱりしたいつもの部屋。


 さっそくミルキー担々麺を食べる。

 いつ最後の晩餐になるか分からないからな....好物をいっぱい食べておこう。


 いただきまーす。


 ふぐぁ!!!ぶほっ!


 思わず噴き出した。ちくしょう!テーブルの上にミルキー汁と麺が散乱した!!

 なんなんだよこれ。


 辛みが抜けてなめらかな甘味ばかり感じる。

 これじゃ本当にミルキーじゃないか。別にラーメンにママの味なんて求めてねえぞ。

 あのベロ出しガールの飴のような味じゃないか。


 不良品にしてもほどがあるだろうよ。


 《変化に対する不動の心を得たことで様々な耐性が顕現されています。その一つとして、痛覚は制限されています》


 ああっ!また聞こえた。


 意志を感じる謎の幻聴。


 前にテレビで見たが、辛みは痛覚で感じるらしい。

 なるほど、だから辛みだけが抜けて甘味だけを感じたのかー。っておい!!!


 すでに痛覚にまで幻覚が及んでいるじゃないか、もう僕はダメだー!

 っておい!!そういうことでもないだろ。


 幻覚が幻覚について教えてくれたぞ。

 全くもってよく分からん。一体どういうことなんだ?


 いま、僕はどういう状況におかれてるんだ。

 この謎の声に質問したら教えてくれるかな??


 シーン。


 どうやら、あの幻聴は聴こえない。

 しかし、この出来事で確信した。やはりこの幻覚はただの幻覚ではない。


 さらにいえば、この幻覚には何か別の存在が関与している。


 仮に、謎の声がさっき言ってたことが真実なら、「環境の変化に対する不動の心」とやらが痛み耐性のきっかけになっているということか。


 人類滅亡するかどうかの非常事態なのに呑気なままなのが、痛み耐性につながっている?


 まるで、精神が現実を飲み込むかのように、精神が現実を変えているといっても過言じゃない状態だ。


 いや、あくまでも幻覚の中だからそう感じるだけで、幻覚の中にいない人にはミルキー担々麺は激辛なままのはずだ。

 それは他の人々が認識している絶対的現実までを変えているわけではない。


 とはいえ、幻覚の中にいる僕にとって見える世界は、自分の精神の反映ということになるのだろうか?


 まあ、色々考えたいことはあるが、まずは散乱したミルキー汁と麺を片付けるか。

 あと、痛み耐性の確認の意味でも、ミルキー担々麺を引き続き食べることにする。


 ぐえー!!甘い。ちくしょう、やっぱり甘い。


 ・・・・・・


 ぷう、、、こんな甘いラーメン初めて食べたぜ。


 そういえば、もっと簡単に痛み耐性を試せるな。

 自分を殴ってみる。とうっ!!ボカっ。

 ガーン、やっぱり痛くない。


 頬に衝撃が走り、顔が横に弾かれたのだけが分かる。


 どうやら痛覚が制限されているという謎の声は本当であるらしい。


 その夜は、きつねにつままれたように悶々と考えながら眠りについた。

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