ビター・スイート・セレナーデ

冷門 風之助 

ACT.1

 スタジオに入っていった時、流石の俺も仰天した。


 何しろ撮影用のホリゾントの前に、一糸まとわぬ若い女性が両手を頭の後ろで組み、悩殺的なポーズでいたのだから。


 助手の一人が”もうすぐ終わりますから”というように手で静粛にするよう合図をする。

 仕方ない。


 俺は初めてストリップ小屋に入った二十歳はたちの頃(あくまで公式に、だぜ)の気分を思い出しながら、隅っこで両腕を組み、じっと立って”儀式”が終わるのを待ち続けた。


『お待たせしてしまって、申し訳ない』


 そういって彼が俺の前に現れたのは、20分ほど経ってからだった。


 白髪、というか、銀髪と呼んだ方がいい髪をオールバックにし、半そでの開襟シャツにグレーのズボンという、ちょっと現代とは不釣り合いな服装をした老人が、微笑みを浮かべながら俺の前に現れた。


 相馬寛治、年齢73歳。

 フォトグラファーとして数々の賞を獲得し、世界的にも名声が高く、ついこの間は紫綬褒章まで授章した、いってみればその道の大家といっても差し支えのない人物である。


 これまで数々の女優、歌手など、多くの有名な女性をそのファインダーに収めてきた。

 彼のレンズの前に立てば、田舎から出てきたばかりの少女でも、見るもあでやかな”おんな”に化けると評判の”婦人科カメラマン”である。


『アカネプロダクションの生田社長から、どうしてもと頼まれまして、乾宗十郎いぬい・そうじゅうろうといいます』

 俺はそう言って認可証ライセンスとバッジを提示してみせた。

 彼はそれを眺め『如何にもインスタント写真で撮った顔だな』などと、馬鹿にしているのか、感心しているのか分からないような口調で答え、

『紅茶でも淹れようか?』というのを、

『いえ、出来ればコーヒーを、砂糖とミルクは抜きでお願いします』そう返すと、初めて相好を崩し、

『実は私もブラックが好きでね、君とは波長が合いそうだ』と答え、アシスタントに命じ、コーヒーを二杯持ってくるように頼む。


 スタジオの窓が開けられ、そろそろ7月になろうとしている午後の日差しが、暗かった室内を自然光だけで明るくした。


 アシスタントの運んできたコーヒーを飲みながら、彼はしばらくの間何も言おうとはしなかった。


 それからおもむろに一冊の写真集を取り出して、テーブルの上に置いた。


『光の中の女』と、タイトルがあった。随分古いものに見えた。


『私が一番最初に撮った女性のヌード写真集だ』


 思い出した。


 確か20年は前だったろう。


 当時相馬氏は既にベテランの域に入っている写真作家だったが、その彼が全編ヌードだけの写真集を発表したというので、当時あちこちで随分話題になったものだ。


 俺はその写真集を手に取り、頁を繰ってみた。


 髪の長い、見事な肢体を持った少女が躍動する様が、あらゆるアングルで捉えられている。

 芸術なんかにはとんと疎い俺であるが、ヌードというものを『性的』な意味ではなく、本当の『アート』として見ることが出来たのは、この相馬氏の写真集が初めてだったといっても、あながち言い過ぎではないだろう。


『このモデル・・・・名前を篠宮香苗しのみや・かなえ、当時確か20歳になったばかりだったかな』

 相馬氏は当時、女性のヌードで写真集を作りたいと考えていた。

 しかし、なかなか眼鏡にかなったモデルがいない。


 そこで知己であったアカネプロダクションの社長の生田氏にも依頼して、モデル探しを凡そ一年かけて行い、やっと見つけ出したのが、篠宮香苗だったという。


『彼女はプロのモデルでも、女優の卵でもなかった。ごく普通のOLだったのだが、一目見て私は”彼女しかいない”と思ったものだよ』


 撮影は二年の歳月をかけて行われた。


 その間、彼女には厳しい禁欲生活を強い、

・男性と付き合うこと。

・刺激物(コーヒー、煙草等)を摂取すること。

・夜更かしをすること。


 この三つを特に厳しく禁じた。


 篠宮香苗は忠実にこれを守り、相馬の期待に見事に応え、そして二年後、


『光の中の女』は完成し、写真集はスキャンダラスな前評判なぞ物ともせずに版を重ね、凡そ八万部を売りつくした。


『それだけならまだよかったんだがね・・・・』ため息交じりに相馬氏はカップを置き、俯き、それから呟くように言った。

『恋をしてしまったんだよ。私は』


 少し雲が出て、空が陰ってきた。


 彼はソーサーを手で持ち、コーヒーをゆっくり飲む。


『私にとって女性はあくまでも被写体に過ぎない。そう思っていたんだが』


『彼女だけはそうは思えなかった。いや、思えなくなったというのが正確だろう』

 

 幸か不幸か相馬氏は独身だった。

 いや、今まで一度も結婚歴はなく、プレイボーイを気取っていた。


『撮影が終わり、写真集が発売された後、私は彼女に求婚をした。浮ついた気持なんかじゃない。心底真面目に”この女と一緒にいよう”そう思ったんだ。


 彼女はそう言われた時、

”うれしいです”と恥じらいながら答えたのだが、ではOKしたかというと、それについては、

”考えさせてください”というばかりで、はっきりした答えを出さなかったという。


『世間的に見れば、私は当時もう50を越しとったし、向こうは20歳そこそこだ。親子とまではいかなくても、眉を顰められても仕方がないところだろう。彼女のためらいも、そうしたところから生まれたものだ。私はそう考えていた。”時間はある。幾らでも待とう”そう思っていたのだが・・・・』彼はカップを皿ごとテーブルに叩きつけるように置いた。陶器が激しく触れ合う音が、しんとなった広いスタジオに響いた。


『それっきり、音沙汰がなくなってしまったのだよ』



 


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