サイン
上手く行っている、と思っていた彼女と別れて二年。僕は未だに彼女への想いを断てないでいるけれど、それは別に重たいものではなくて。生きるのに精一杯すぎる日常の中で、彼女のことを思い出すことが、ちょっとした癒しになっているからだった。
彼女はこの古びた旧市街のダンサーだった。かつては。今や、僕たちのような下級市民の手の届かない、高層都市群の一流ダンサー。今となっては、何で付き合えていたのかもわからないほど、身分差ができてしまった。
この惑星では、身の丈に合った生活を強いられるのが常で。それは酒場や賭博場なんて歓楽街にも識別があるぐらいだった。住む場所から、使う施設まですべてが決められた界隈の世界。
だから、電子ネットワークでただ閲覧だけ許された彼女の記録が途方もなく眩しく映る。
言葉通り、手の届かない世界。
テレヴィジョンに映し出される、鮮やかなシーグリーンの髪をなびかせて踊る彼女の名前は――モモ。というのは舞台での名前で、本名はもっと地味な名前だった。僕の前ではグリッターの強いシャドウも、豹のように強いアイラインもしていない、素朴な女性だった。
同じ下級市民出の僕たちは、下級酒場で出逢い、意気投合して一緒になった。
広いとは言えない部屋で一緒に寝食を共にし、ずっと変わらない生活を営むはずだったけれど、それは僕だけに限った話だったらしい。
彼女は、下級酒場の小舞台から、気付けば中流層の酒場へと移り、今や上流市民酒場とテレヴィジョンの大舞台で舞う。
パトロンが付く過程で、僕という下級市民との関わりを棄てるか、躍進を棄てるかの二択を迫られたのだ。
ネオンの光やホログラムを浴びて踊るモモの姿は、僕の心を時々、掻き乱して行く。
――すべては、幻だったのではないかと。
そうして不安になって、僕は部屋に飾ったままの、飾らない彼女のホログラム写真を再生するのだ。
「……タクヤ、忘れないよ」
いつも僕に見せていた笑顔で笑って、左頬眦の黒子をとん、と指差す彼女。
別れる直前に彼女が送ってくれたそれは、最後にした約束のサイン。
ふと、もう一度テレヴィジョンに映るモモの姿に視線を戻す。
踊り終えた彼女が取る決めポーズと、黒子に添える指。
モモが発信する放送や情報に、凡そ必ず添えられるポージングだ。
「辛くなったら、思い出して。私もここで、闘ってるから」
最後の抱擁も、その言葉も、意味合いは今とあの頃ではきっと違ってしまっているのかも知れなくても。
それでも僕は、モモの――トモコと一緒に居た頃の記憶を大事に掻き抱いて、今日という日を生きている。
本当に愛したのはモモじゃなくてトモコだけれど、画面越しのサインは二人を繋いでいるはずだと信じていた。
あのサインは自分だけのものではなくなっていたとしても。
あの頃の日々は、僕が覚えている限り僕の物なのだと。
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