さざなみの巫女

 首都・リュシヲン。その壮観を垣間見ることなく幌馬車ごと城内へ入ったケヴィン達は、警備兵にせり立てられるまま地下牢へと連れられ、各々に牢へと入れられた。

 石積みの壁に囲われ、鉄格子の嵌る小部屋は麻の敷物一枚が敷かれているのみ。暗がりに壁立ての篝火と、何処を流れているのか水の音が絶えず聴こえている。

 投獄の際、後ろ手の縄を解いてくれたのはありがたかった。鉄格子の間からどうにか隣の様子が窺えないかと首を伸ばしたが、顔幅には見合わない。

「クスハ。……おーい」

 声を掛けても反応はなく、ケヴィンは憔る。警備兵は階上に立つのみか、声を上げても反響するだけだった。まだ泣いているのか、と気を揉んで黙ることにする。

 狭い牢の中でやることもなし、ケヴィンは胡坐を掻いて背を壁に預けた。

 ――と。

「あっ」

 蚊の鳴くような小さな声に、ケヴィンは背を引き剥がして鉄格子に再びしがみ付いた。

「どうした? 何処か痛むのか?」

 矢継ぎ早の質問にクスハは間を置いて、ぼそぼそと零す。

「腕輪が、ありません……」

 その言葉にケヴィンは頭が眩む思いだった。彼女が唯一、身分を証明出来たであろう持ち物だ。金の装飾に緑柱石まで施されたそれは、誰にとっても金になることは想像に易い。

 こんなことならば初めから丁重に扱うべきだった、と後悔してはみても牢の中の二人は今や着の身着ひとつ。後悔も立たない。

 実のところ、縛り上げられるその前に落としてしまっているのだが、混乱の最中二人してそれを見落としていた。結果として、腕輪の所在は分からず仕舞いである。

「こうなったら、もう祈るのみだな。まあだけど、最悪カタル辺りに返してはくれるんじゃないか。そしたら、連中に見つからない何処かで暮らそう。そうだよ、それがいい」

 紙のように薄っぺらい口上だとは、口にするケヴィンが誰より分かっている。それでも、少しでも良い想像をして気を紛わせていたい、一緒になって絶望してしまってはいけないと努めた。

 しかし、にべもなくクスハは黙り込んでしまう。それがケヴィンの心をぽっきりと折ってしまった。

 胡坐に膝を突いたケヴィンは、不貞腐れてそれきりそっぽを向いて黙る。

 彼女は、余りに内向的過ぎた。本来、初めての外国に戸惑うのはケヴィンとて同じであり、予想外に投獄に至るこの状況は成人男子でも持て余す経験だろう。

 これまで何度となく場を保とうと必死に努めたケヴィンにとっては苛立ちも不安も、その矛先がなかった。明るく振舞うことにも、限界が訪れようとしている。

 気まずさを感じるような段階はとっくに過ぎていた。互いの顔も見えなければ、そんな懸念も少なくなる。ほの明るい闇に、留まることのないせせらぎの音に、ケヴィンはいつしかうつらうつらと舟を漕いだ。

 石畳を硬質な音を立てて歩く足音が聴こえ、意識を取り戻した時、どのぐらいの時間が経ったのかが分からなかった。

 顔を上げたそこに人影はなかったが、気配で隣の房の前に居るのが分かる。

「ガッシュ隊が拾った羽虫、か。クレメイユ先王の娘を騙る程、切れるようには見えんが。一体どういう了見か」

 野太いハスキーボイスだったが、女性のものであると直感する。

 鉄格子へ顔を寄せ姿を確認しようとするが、座ったままでは黒色のマントしか見えなかった。

「大公に会わせてくれ! 彼女はクレメイユ先王の娘だ、大公とは面識もある!」

 声を張り上げる。交渉事にクスハの積極性を期待してはいけない。それは己の役目だとケヴィンは痛感していた。

「もう一人居たか。……なるほど、そっちの女子よりよっぽど狂言回しが上手そうだ。褒められたものではないがな。お前、国家を騙る罪について知らぬ訳ではあるまい? 何の意図がある?」

 靴音を高らか響かせ、ケヴィンの前に立つ仮定・女は顔の半分を覆う金髪の下、碧く凍えるような瞳で見下ろす。マントが側面、背面とその体躯の想像をし辛くさせていたが、正面から見れば明らか女性だと分かる。マントの下に着込んだ軽鎧は女を武器にしていると言っていい、肌蹴た胸元には思わずケヴィンも一瞥をくれる。しかし、目を眩ませるような輩は端から斬り捨てられるのではと思わせられた。冷える眼光、纏う強烈な威圧感が女性性の魅力と妙なアンバランスさを醸し出している。

 ケヴィンの第六感が訴えた。おっかない女だ、と。

 にわかにたじろいだが、姿勢は崩さない。鋭い眼光を真正面から受け止める。

「嘘か本当か、確かめてみれば分かる。アンタが知らないのも当然だろうさ、文字通り秘匿の姫君なんだから」

「会わせる利点がこちらにはないと言っているのだよ。お前達が持ち込んだル・サ陥落は今後のクレメイユと戦火を交える要因になり得る。そこの娘が正当な血を受ける姫であるならその利用価値はあったろうが、それも見込めんのだろう? 我々にとってお前達はクレメイユ亡命貴族とそう変わらん」

 呆れたように淡々と述べた女は、憐憫を含む視線を隣の房――クスハへと向ける。

 女だてら、大公の下に仕えるのであろうと伺えるが、それはクレメイユの尺度ではまず測れない事態だった。鎧うのも、政も、女に手出しさせるなというのが通説。星読みのアルテア以来は尚更だった。

 ケヴィンとしては反論材料がない。例えクスハの身分を証明出来たところで、この両国間は今や一触即発寸前、戦支度が万全とは言えなさそうなこのリュシヲンでは持て余した目の上のたんこぶというところだろう。

 しばらくの間ケヴィンは口を噤んでいたが、不意に何やら遠くざわめきが届いた。

「大公殿下!」

「殿下、そちらはハリスン殿にお任せください」

「ウィリアム殿下!」

 口々と叫ばれる声に、ぞろぞろと足音が連なって近付いてきている。

 女の眉間に深い皺が刻まれて行くのをケヴィンは見た。苛立たしげにマントを翻し、声のした階段の方へと向かう。

「殿下、一体何用です? 公務に差し支えましょうが!」

 何やら階段の側で喚き立てる女の口調は、君主相手にしては砕け過ぎている。

 まるで、子を叱る母親のようだ。

「キティはそうやってすぐ怒鳴る。眉間の皺が大変なことになっているよ」

「この件は私が処理致しますとお伝えしたはずですが。殿下自らお相手なさる必要など……」

「まあ待ちなさい。私も理由なくこんな場所へは来ないさ」

 押し問答の声だけでしか状況は判断出来ない状態だったが、充分だった。ケヴィンは、心音が高まって行くのを感じながら手汗に滑る鉄格子を握り締めた。

「殿下……!」

 必死の制止も虚しく響くだけとなり、後には緩やかな足音だけとなる。

 そして、ケヴィンは目の当たりにする。リュシヲンの大公、その人の姿を。

「うーん、流石に大きくなったなあ。あれから何年経ったかな……星読み殿の面影が濃いね」

 独りごちるのは申し訳程度肩から巻き付けた絹布から褐色の肌が目を惹く精悍な肉体美を持ち、艶やかな黒髪を肩から背に伸ばした男。年齢は若くもあり、また壮年の知性も漂い、推測が難しかった。

 彼は、クスハの前に檻越し屈み、淡く笑みを浮かべている。

「クスハ・エンデ・クレメイユ、大変懐かしい名だ。こんな形で再会するとは想像もしなかった。……とんだ無礼をしたね」

 最後の句は、隣の房のケヴィンへも目配せをくれる。先程のやりとりのせいか、それとも彼の表情の柔和さのせいか、一国の王と等しい人の御前とは思えないほどに気持ちは安らいでいた。まるで、凪いだ海のように高鳴っていた心音さえ、声と共にすっと静けさを取り戻した。

「衛兵、開錠を。私の客人だ、宮殿内へ丁重に、連れて来ておくれ」

 大公が号令を掛けると、すぐさまざかざかと衛兵が集まり固く守られていた牢の鍵が解かれる。クスハを初め、ケヴィンの牢も程なく開かれた。

「小父さま……いえ、大公殿下」

 牢を出ると、大公の前に立ちその顔を複雑を込めた瞳で見上げるクスハの姿が見えた。その瞳から涙が零れるより先に、大公は彼女の両手に何かを握らせる。

「……もう、失くさぬように。大事にしておいで」

「あ……!」

 クスハの手には、失くした金の腕輪。ほっとしたように胸へ抱え込むクスハは、声もなくくずおれた。

 すかさずケヴィンは駆け寄って彼女の身体を支えるように肩を抱く。

 大公は、笑みを深めると背を翻した。

「落ち着いたら私の居る広間まで来なさい。聞きたいことも、話したいことも多くあるだろう」

 優雅な物腰、来た時と同じゆったりとした足取りで遠退く背を二人して見送った。階段の手前、腕組みをしたまま一連を見守っていた女、キティ・ハリスンの表情は未だ険しいままだったが。

 二人は牢を出た後、衛兵に案内されて城内奥に位置する宮殿へと向かった。中庭へ出ても堅固な造りの石壁は高く視界を阻み、見えるのは月明かり一つ。リュシヲンへ到着してから恐らく半日は過ぎているだろう。

 途中、しばらくの間を過ごすための客室から食堂、湯浴み場の案内を交えた。

 宮殿は、広大な湖の真ん中に浮くようにして建っており、その造りは城に比べ風通しを重視してかアーチや吹き抜けを多く使用している。どの窓にも硝子はなく、日中の陽を避けるためであろう、薄いシフォン生地のカーテンが施されている。

 宮殿内はひんやりと心地がよい。地下牢でも聴いた水のせせらぎがここでも聴こえていた。音の元を辿ると、通路へ設けられた細い側溝を水が流れていた。

「水の信仰、か……」

 ヘテルナでも垣間見たことを思い出してケヴィンはごちたが、ハッとして黙る。

 広間を仕切るカーテンを潜る向こうに、寛ぐ大公の姿が見えたからだ。傍らには、相変わらず冷えた瞳のキティ・ハリスンも控えている。

 胡坐に銀器の盃を手にしていた大公は座椅子へ預けていた上体を起こす。

「先程はすまなかったね。改めて名乗らせて頂こう、私がリュシヲン大公、ウィリアム・ロクスだ。貴君らがここまで足を運ぶに至る経緯、何か大きな問題があると見えるが……話していただけるかな?」

 ケヴィンはちらとクスハを一瞥したが、彼女が口を開くより先に答えた。

「初めて御目に掛かります、大公殿下。おれ……私は、クレメイユ最北部、農村出のケヴィン・タラークと申します。クスハ……姫とは偶然ながらウルヴァリの山中にてお倒れになっているのを見つけ、行動を共にすることとなりました。しかし――」

 慣れぬ言葉に舌を噛みそうになりながら話すケヴィンを前に、大公は隠さずに肩を揺らし始める。口元を覆うが、微かに喉の震えるような笑いが漏れ、ケヴィンは冷や汗を垂らした。

「まてまて、まあ気持ちは分かる。畏まった私も悪い。……率直に言おう、畏まらずに居てくれ。俺は、飽くまで統率のシンボルであって一国の王とは訳が違う」

「殿下……」

 再びとハリスンの噛み付きそうな声が発せられたが、銀器を預ける大公の一瞥に諦めたような反応を見せた。

 困るのはケヴィンだ。畏まるなと言われて簡単に態度を覆せるほどの勇気はない。気まずく視線を泳がせていたが、代わりに今度はクスハが口を開く。

「小父さま、わたしは今アルテアの娘として賞金を掛けられている身です。理由は……わたしにもよく、分かりません。でもわたし、もうあの狭い塔で暮らすのは嫌なのです。わたしをここへ置いてください……!」

 お願いします、とクスハは跪き額を床へ擦りつける。ケヴィンも遅れてそれに倣った。彼女がここで暮らせるのなら、全ては丸く収まるだろう。それより他に、最善の策が思い当たらなかった。

 遠く、唸るような声。クスハとケヴィンは顔を見合わせてからゆっくりと窺うように顔を上げた。そこには、顎を撫でて思案顔の大公。

「アルテア殿には会えず仕舞いだったがその力、人並外れたものだったと聞いている。しかし、あれは彼女の力であって彼女の力ではないのも事実。それをそっくりそのまま、姫が受け継ぐという保証もない。あれは、頂くものなのだから」

 二人にはまるで意を介さない話であった。

「ちょっと待ってください、力って……」

「ああ、すまない。妙な話をした。話を戻そう。長旅で心身共に消耗が激しいと見えるし、しばらくここで羽根を休めてくれ。ただ、長期的には考えさせて欲しい。今朝方耳に入ったル・サ陥落が確かなら、この国も本格的に改め備える必要がある。答えを出すのに時間をくれないか」

 話は濁されてしまい、それ以上は語られなかった。続いてはル・サ陥落の外聞の答え合わせをするように事情聴取が為され、ケヴィンが表立って説明をした。

 クレメイユの騎士団兵にクスハと二人、顔が割れていることまで包み隠さずに伝える。

「この国の侵略に加え、姫の奪回に躍起になっている部隊も居るということだな。話の通りならばル・サ陥落からじきに一週間、都市間の連携が取れているとは到底言えんな。早々に手を打つべきだろう」

「殿下、各領主へ伝令を。……後は我々で煮詰めましょう、お客人はお疲れでしょうから」

 ハリスンは口調に反して、いかにもうざったそうな視線をケヴィン達へ寄越す。部外者の、それも他国の人間を前にする話ではないと言いたいのだろう。態度を隠そうともしない。

「うん、まあ、子どもを巻き込む話ではないな。呼び立てておいてすまない、今夜はもう休んでくれ。都の方へ顔を出す以外なら、城内を自由に歩いてくれて構わない」

「………、ありがとうございます」

 ケヴィンは頭を下げながら、引っかかりを感じていた。都、つまり城の外へは出るなということである。支障はないので気に留めるほどでもないことかも知れなかったが、微かな違和感だった。

「戦が始まってしまったら、きっと、ここにも居られなくなるんだわ……」

 二人、そのまま大人しく広間を離れたところで、クスハが俯き加減にぽつりと零した。

 彼女の推測が間違っているとはケヴィンにも思えない。ここが戦渦に巻き込まれるような状況になってからでは遅い。恐らく、見越して早々に何処か別の場所へ身を移すことになるのだろう。

「アルテアの処刑を、あの人は知っていたのかな」

 それはケヴィンの口から何気なく出た疑問だった。無意識に発していたと言っていい。ケヴィンは我に返って、己の言動を恥じた。彼女の前で口にすべきことではなかった。

「……どうでしょうか、わたしが大公にお会いした時期をはっきりとは覚えていなくて。でも、母にあった力のことは知っていたみたいだった。わたし……もっと母のことが、父のことが、知りたい」

 クスハの答えはケヴィンの想像よりずっと好ましかった。どうやら、クスハは知的好奇心が勝るとその他のことに気を取られなくなるらしい。ここでめそめそと泣かれると面倒だ、と思っていたケヴィンは心中胸を撫で下ろしてクスハの手を引いて歩き出す。

「それはオレも同感。あの人には聞きたいことが沢山ある。……だけど、それにはどうもあの側近サンが厄介だな。余所者だから仕方ないとはいえ、これじゃ気が収まらない。既に巻き込まれてるんだ、関わる資格はあると思いたいよな」

 憂さを晴らすように抑揚を交え、大袈裟に肩を竦めるケヴィンを横目にクスハは久しく微笑った。

「目を盗んで、会うことが出来ればいいけれど」

「……それだな。じゃあ、作戦会議と行きますか」

 二人は、その言葉を境に回廊を走った。先に案内された客室へ戻って、あの冷徹側近・ハリスンを大公から引き離す作戦を立てるために。


 ◇◆◇


 身の丈よりずっと高いアーチから、くっきりと湖上に浮かぶ月が見える。

 クスハは、ケヴィンの提案した策の通り彼がハリスンを呼び捕まえて話し込む隙を突き、宮殿の中を歩き迷っていた。探すのはただ一つ、大公の姿。

 宮殿内を無暗と歩いていてお咎めを貰うことがないのは有難かったが、その広さに焦燥が募るばかり。

 歩き疲れ、水際に面した端で湖を眺めて少しばかり休むことにする。

 湖の向こう展開する大森林は、影踏みの森よりもずっと大規模に見えた。この宮殿も、自然も、大陸も。何もかもが、クレメイユより大きく、クスハには見えていた。

 息を落ち着け、大きな柱へ背を預ける。湖から吹く夜風が心地よく、双眸を閉ざす。

 シャン …… シャン …… リン シャン。

 何処か遠く、小振りの鈴が幾つも幾つも震え響く音色が聴こえた気がした。

 シャン …… シャン …… シャン リィ。

「何処から、聴こえるのかしら」

 音の出所を探るべく、再びクスハは回廊を探り歩く。鈴の音は遠く、それが北からか南からか、東か西かも曖昧に感じられる。不安に胸元へ拳を握るクスハの肩を風がさあっと駆け抜けた。

 呼ばれるように振り向くと、今度はその背を押すように追い風が吹いてクスハは駆け足で広間の脇を抜ける。不思議な感覚だったが、本当に呼ばれるようだとクスハは思う。

 地下へ続く階段を迷わずに駆け下りるその判断も、何処か自分であって自分ではない、ただそれを恐ろしいとも感じない妙な心地。

 …… シャン。

 頭の中に一閃が走るような、研ぎ澄まされた鈴の音。今度は近い。クスハは、自分の眼前に広がる景観に思わず息を飲んだ。

 アーチの柱で囲われた広間の真ん中へ大きく円形に水が張られている。プールと呼ぶには浅い、その水の中に立ち、曲線の美しい中振りの刀剣を振り仰いで踊る男の姿が在った。

 くるぶし、手首へ金銀の小鈴が沢山飾られている。所作一つの度に鳴り響くそれは、雨音のような、せせらぎのような、……さざなみのような。

 ステップを踏むその度に、水が跳ね、その雫が灯火に照らされて光る。鈴と、刀身と、雫と。

 白色の衣と、黒髪をなびかせて踊る男が大公・ウィリアムの姿であると気付くのには思いの他掛かった。

(声が、出ない)

 誰もおらず、何に咎められるでもないはずなのに、クスハはその存在を気取られないように、舞の邪魔にならないようにと努めていた。舞が止んでも、声を掛けるのが躊躇われたほどに。

「……来ると思ったよ、上手く誘い出せたようでよかった」

 水場から足を引き上げて、ウィリアムが先に声を掛ける。おいで、と手招いて、クスハが傍へ立つまで待った。

「お邪魔して、ごめんなさい。何を……なさっていたの?」

「リュシヲンの乾季が近づくと、こうして舞うのさ。アクエラの機嫌が良くなる。まあ、そんなことをせずとも、本当は力ぐらいいつでも貸してくれるがね。強請られちゃ、しょうがない」

 まるで誰か観客が居たとでも言うような言葉にクスハは周囲を見回したが、見る限り何処にも誰の姿もない。

 そして、そんな様子も織り込み済みだとばかり、ウィリアムが肩を揺らして笑う。

「俺にも見えないから、説明がややこしくなるな。……君を歓迎するそうだよ、クスハ」

 ウィリアムは片腕を抱き込むようにお辞儀をしてみせる。

「何をおっしゃっているのか、わからないわ」

「それが本題だ。アクエラは君に素質があると言ってる。君から同胞の匂いがするそうだ」

 的を得ない平行線の会話をウィリアムが気に留める様子はない。曲刀を柱の影へ置いた安置台に収め、壁沿いの藤のソファに座るようクスハを促す。クスハにとっては戸惑うばかりで、従って素直に腰掛けこそするものの落ち着きなく見えざる者の姿を探して視線が泳ぐ。

「君もよく知る、昔のおとぎ話をしようか」

 ウィリアムは微笑み、肩に掛かる黒髪を一纏めに括り上げてからゆっくりと語り始めた。

 龍の寓話。昔々、と語られるおとぎに、クスハは胸に広がっていた靄が確信に変わって行くのが分かる。寓話が現実のものであったのだと。未知との対面の恐怖と、緊張に膝上で強く握り締めた手はぶるぶると震えた。

「龍が声を伝えるその人を、この国では巫女と呼ぶ。アルテアが巫女と呼ばれたのは偶然だったが、必然でもある。私と、彼女。もう一人が依然として見つからないまま十年が過ぎ、彼女は逝ってしまったそうだね」

 ウィリアムは語る。アルテアの死後、クレメイユ国王に会えたのが一度きりだったこと。その際にクスハを塔へ匿うことが決まったこと。有事の際の念押しを皮切りに、その後現在に至るまでが、書簡上での簡素な遣り取りしかなくなっていたこと。

「思えば、あの時が既にそうだったのかも知れん。病に臥せているとは聞いていたが……。最後に父君に会ったのは?」

「小父さまにお会いした後しばらくは、理由を付けて会いに来て下さいました。でも、最後にお会いしたのは……覚えていません。年に数度、文を送ってくださいましたが、……きっとそれも誰かが代筆したものでした。父王が亡くなっていたなんて、い、今だって…」

 信じられる訳がない。言葉は声にならず呼気と共に吐き出された。もう散々この数日で出し尽くしたと思っていた涙がまた視界を鈍らせる。泣いてはいけない、とクスハは必死に自分を諭すのだが、こういう時身体は容易く意思を無視するのだと何度目かの無常を味わわせられる。

 情けなく惨めで、顔を覆うまま俯いた。

「その様子ではまともな暮らしが出来ていたとは言い難いね。……すまなかった、辛いことを話させている。やはり何処かで何かが捻じ曲げられていると見るのが妥当か」

最後の一文に至っては、独白のようでクスハには意味を測ることが出来ない。一瞬の思案を挟む鋭い表情を見せたウィリアムだったが、困惑するクスハと目が合うと、褐色の手で背を優しく撫でて笑む。

「君は気にしなくていい。ただ――」

「ただ?」

「もっと色んなものを見て、触れて、感じて欲しい。巫女であるということは、そうあることが好ましいからね」

 常の優しい声色で告げられたクスハにはその言葉が余りに重過ぎた。首をしきりに振って、立ち上がる。

「…、………」

 喘ぐように口を動かしたものの、言葉にもならない。クスハは、それきりウィリアムの前から逃げるように走り去ってしまうのだった。

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