第二章

栄華の都・ヘテルナ

 沈黙は重かった訳ではない。ただ、互いが互いに思いを巡らせるあまり相手の存在を忘れたように黙り込んで、思考の海に落ちていた。

 リュシヲンの地を踏んで三日、ル・サを出てから二晩目を迎えようとしていた。雑貨店の主人から聞いた通り南下途中で小川を越えたのだが、その辺りからだろうか、気候の変化を如実に感じるようになる。

 朝方はからりと乾いた陽気で過ごしやすいのだが、午後から夕方に掛けての日射しがきつく、帽子のないケヴィンは何度か目の眩みを覚えた。クスハは暗色のローブが日光を吸うので茹だる暑さに更に寡黙になった。そして夜になるとまた心地良く風が通り過ごしやすくなる。この寒暖差はクレメイユにはない特色だった。

 依然として追手が掛かる気配はなく、幾度かル・サへ向かうであろう荷馬車の姿を見たが、それ以外は人の往来のない静かな道中となった。

「……聞かないんですか、何も」

 先に口を開いたのはクスハだった。

 小岩の上に布を被せ、枕にして横たわる彼女は、快晴の空に浮かぶ星をじっと眺めている。

「聞いた方がいいのか、聞かない方がいいのか。考えたけれど、君が話したくないことなら別にいいか、って思ってたところ」

 木の幹へ凭れるケヴィンも視線を空へ移した。横並び、互いの視線が交わらない方が落ち着けた。

「アシュレイは、わたしのたったひとりの友人なの。塔の門番に就いてから四年、狭い塔の中だけだったわたしの生活に唯一積極的に関わってくれた。わたしが居なくなって、はじめに疑われたのは彼なのでしょうね……」

 思い出を語るようにぽつりぽつりと言葉が出る。田舎生活ゆえに空間認識の広さでは平均より上のケヴィンにとって、塔内だけの生活を想像するのは難しい。

「いつも、気に掛けてくれるのは彼だけでした。……わたし、あの時あんなこと言ってしまったけれど、本当は怖いんです。間違った選択をしたのかも知れない。きっと、あそこへ戻らないことはアシュレイに迷惑が掛かってしまうことになるでしょう。分かっているけれど、言えなかった」

 「あんなこと」とは、もう戻らないとアシュレイに告げた言葉だとわかる。語尾が震えるのを感じて彼女に視線を落としたケヴィンは、クスハが自分の指を撫でる仕草に注目する。なぞる指の先に黄金色の指輪。指輪の嵌まる右手を、ひょいと持ち上げてその具合を間近に確かめた。

「へえ、クローバーの指輪? 小洒落たことも出来る、夢のような王子様だな」

 単純に感心したつもりの感想だったが、アシュレイに贈られたであろうという憶測を過分に含んだそれは、口にしてみると厭味がましく聞こえた。クスハは、その辺りの機微に気付いているのかいないのか、恥ずかしそうに手を引っ込めるだけだった。否定はない。右手中指へ収まる指輪を見つめる彼女の視線は、ケヴィンにはまるで恋する乙女に映る。微かに燻るような居心地の悪さを覚えたが、強引に視線を逸らして考えないことにした。

「親父、大丈夫かなあ。……足が悪くてさ、羊追うのも鍬持つのも無理なんだ。帰って来ないことに嬉々としてそうでもあるけど」

「そうですよね、ケヴィンにも家族、居ますもんね。きっと、心配していらっしゃるわ……ごめんなさい」

 それとなく逸らした話題にクスハが乗ってくれることが、ケヴィンにはありがたかった。互いが互いの環境を知る由もないのだから、これほど興味をそそる話題はない。

「オレの親父、昔王宮付きの錬金術師だったんだ。君のお袋さんの知り合いだったって話は少しだけしたよな。アルテアが親父宛に寄越した手紙に、彼女の予言が残されてて、親父はそれに執心してた。……馬鹿馬鹿しい話だろ? オレは馬鹿げてる、って思った。……思ってた」

 語りながらに思い出し、ケヴィンはバッグの中を探る。父親が投げて寄越した物の中にあった龍の伝承神話。それを膝の上へ広げては手探りに頁を捲る。その文字を読み取ろうとクスハも身を乗り出した。

「昔々、三匹の龍が枯れた星を駆け、大地と海を作り、人と文明を築きました」

「人が龍に祈れば、龍は真摯に応え、そうして幾千と文明を重ねてきたのです」

「ああ……」

 ケヴィンが冒頭を読むとクスハが記憶をなぞるようにすらすらとその後を続ける。顔を見合わせた二人は、肩を竦めた。

「子どもの頃からずっと、わたしもこの本を読んでいたの。本当にそうであるのなら、人に知られることもなく星を見下ろす龍は何を思うのかしら、って」

「そうか、クスハはそう考えたのか。オレは、居もしない神さまをでっち上げるおとぎ話だとばかり思ってた。けど……君のことも、アルテアのことも、何か本当はちゃんとした根拠があるのかも知れないって、今は……思えてくる」

 父親が何故これを手渡したのかは分からない。改めて頁を捲ってみるが、胡散臭いばかりの伝承が記されているようにしか思えず、文字を追う目が滑るばかりだ。大人が信仰するには文体といい、子ども向け過ぎるとケヴィンは思うのだった。

 クスハは本の中身が分かったからか、元の位置へ戻りブランケット代わりのローブを掛け直していた。

「……ここは空が近くて、まるで星が囁くみたい」

 うっとりと瞳を瞬くクスハの言葉に、ケヴィンはふと笑みを漏らす。以前の自分であったら、そんな言葉にどんな感情も感じなかっただろう。

 ところがクスハが口にすると、それは何処か本当にそうなのではないかという思いがした。あるいは、その言葉の美しさに、心が洗われるような心地を覚えた。

 見上げる空は満天の星を湛えて、ちらちらと明滅して見える。再び視線をクスハへ戻す頃、彼女はその瞳を伏してすやすやと眠っていた。ケヴィンも、それに倣って目を閉じた。


 ◇◆◇


 照り付ける太陽の中、二人はそびえるような螺旋組みの建造物をもう間近にしていた。遠巻きにはまるで山に見える。

 商業都市・ヘテルナ。その町は外観からして繁栄が窺い知れた。広さはクレメイユの城下町を優に凌ぐだろう。これが首都でないのだというのだから、妙なものである。首都・リュシヲンはそれ以上ということだろうか。

「見ろよ、キャラバンが出て来る」

 ケヴィンが指す前方、町からぞろぞろと馬車を連ねた団体がゆっくりとふたりの方へ向かって来るのが見える。ル・サへの行商に向かうのだろう。

 車輪の音は徐々に近づいて、道の脇へ避けたケヴィン達の馬の側を通り抜けて行く。

「すげえなぁ、……そういえばクスハにとってははじめての外国、はじめての町だな。宿を取ったら、少し観光でもしようか」

「でも、急がなくて大丈夫ですか」

「だいじょーぶ、大体クスハ、もう四日も野宿だぜ? 国を出てからまともに休めてないんだ、ちょっとぐらい羽伸ばしたって構わないさ。ル・サと違って規模もでかそうだしな、首都に向かう前に情報収集もしておきたいし休む道理は整ってる」

 不安そうにケヴィンを見上げるクスハも実際は疲れが溜まっているのだろう、ケヴィンの言葉を聞いて表情が緩み、安心したように馬上で、ケヴィンに背中を預けた。

 駈足で町の入口まで寄せてから馬を降り、門番の兵に滞在許可の申請をすることになる。ル・サに比べ人口のせいもあってか堅剛な制度を敷いている。

 書面には滞在目的や人数、ヘテルナ敷地内で有効な条例規定の承認を書き記さねばならなかった。条例規定は数頁にも及び、文字を読むことそのものに苦手意識のあるケヴィンは音を上げ、代わりにとクスハがひと通り目を通す。

「リュシヲンへの経由地か。ならば、ここの指定宿でキャラバンが馬車の同乗をやっているから資金に余裕があるなら使うことをお勧めする。近頃はこのルート間で金品を狙った賊が確認されているからな、脅すわけじゃないが」

 書面を受け取った兵はちらりと流し見てそれを脇へ挟み、ヘテルナ滞在の許可証となる木札を手渡しながら言う。内心冷や汗を掻きながら記したにも拘らず、その閲覧や秒の世界。ケヴィンは突っ込みたくなるのを最大限我慢して木札を受け取った。

 木札にはリュシヲン公国のシンボルとヘテルナの物と思しきシンボルの焼印が施されている。

「ありがとう、検討するよ」

 とても有益な情報だったためもう少し聞き込みたくはあったが、作り笑いが限界に来ていた。クスハの手を引いて、引き留められないうちに町中へ紛れ込むことにした。

 幸い、声は掛からず済んだ。

「……ケヴィン、変な顔してますよ」

 小さな声で指摘を受け、ケヴィンはようやくと堪えていた息を吐き出す。

「はぁッ、……まっっったくどうなってるんだよこの国は! オレはてっきりこうもっと、居住地だとか諸々聞き込まれるんじゃないかって――、む」

 クスハに口の手前に人差し指をぴたりと当てられ、ケヴィンは口を止める。そろり、そろりと周りを見回すが道行く人の群れがこちらを気に留める気配はない。

「いいんです、うまく通れたのなら。ケヴィンの仰りたいこと、ようく分かりますけどね」

 年少の彼女に諭されてしまっては、ぐうの音も出ない。今日に至るまで彼女の前で出来得る限り恰好を付けていたケヴィンとしてはこれはとてつもない痛手だった。

 馬の手綱を引きながら歩き、まずは宿を探すことにする。これだけの規模の町ならば、宿屋が厩を持っているのが相場だ。門番が話していた乗り合いのことからもそれは間違いなさそうだ。

 町の入口からなだらかな坂が続き、円を描くようにして徐々に高度を上げて行く石積みの大きな道を見上げ、ケヴィンは立ち止まる。宿を設けるなら入口にほど近いと考える方が現実的だった。道を上って行く馬や牛はみな、積荷を運んでいる。

 それからほどなくして宿の場所を見つけ、二人はようやくと休むことが出来た。馬も係留することが出来、手狭な部屋ではあるが一室に二つの寝台があり、少なからずプライベートな空間を守れるのはありがたかった。

 その分値が張り、手元に残った金銭が侘しくなったことにはいっそ目を瞑ることにした。今一番必要なものは、この旅路を乗り切るための体力なのである、と。

 柔らかなベッドには、唐草を模した民族調の派手なシーツが掛かっている。その上へクスハは腰を下ろし、一方のケヴィンは大の字で突っ伏した。

「ハー………やっと、この旅も折り返しってところだなぁ」

「折り返し?」

 脱力し切ったまま半ば無意識にケヴィンが零した言葉に、クスハが首を傾げた。

「うん、折り返し。オレ、君を無事にリュシヲンの大公に会わせられたら、村に帰ろうと思ってる。何だかんだ、飛び出して数日になるけどあんな親父でもオレにはたった一人の家族だからさ」

「そう……ですよね、じゃあ、こうやって一緒に居られるのも後少しなんですね」

 それは、ル・サを出た夜から考えていたことだった。足の悪い父親は、あんな態ではあったもののケヴィンが居ない間どのように生活をしているのだろうか。そう考える時間が、遠い異国の地で日毎に強くなっていた。

 クスハの表情は目に見えてしょげている。膝上、強く握られている手にケヴィンは手を重ねた。

「……観光しようぜ、この町には港があるんだ。間近に海を見られるよ」

 言うなり身体を起こして、目一杯の伸びをしたケヴィンはクスハの返事を待った。小さく微笑って、頷きが返る。それは口元だけ精一杯笑ってみせたという風ではあったが、子ども染みたものではない。ケヴィンが立ち上がって手を差し出せば、素直にその手を握り返して来る。そんな接触にも慣れて来たようだった。

 荷物は最小限に、帆布バッグだけを着けて宿を出る。陽が傾き始め、行く先そびえる塔のような出で立ちの向こうからの日射しが眩い。

 この町で作る思い出が、彼女にとってどんな風に残るのだろう、そんなことを考えながらケヴィンは手を引いて人波に加わるのだった。

 螺旋組みに見えた町は、実際は三つの階層に分かれていた。等間隔にいくつも並ぶ窓と、出入りする人を見るに二層、三層は居住区らしく、頂上には礼拝堂が構えられている。入口を南として南北の両側にそれぞれ螺旋に見えるようなスロープが階層を繋ぐ、一捻りしたその構造はリュシヲンの技術がクレメイユに全く後れを取らないものであることの証明と言えるだろう。

 クレメイユには概念の薄い、宗教文化の浸透も特徴的だった。身の丈以上もある大きな抜き窓に囲まれた八角のドーム状をした風通しの良い礼拝堂は、真ん中へ噴水が設けられており敬虔な人々がその周囲で跪いて祈りを捧げていた。

「水の信仰? うちの村の山岳信仰のようなものかな」

「ケヴィンの村では、山を信仰するんですか?」

「ああ、古い祭壇が山の中にあった。尤も、こんな風に祈りを捧げる人間はほとんど居なかったけどね」

 礼拝の邪魔にならないよう、建物を離れてからケヴィンは口にする。ウルヴァリ山脈での記憶を、クスハは持っていないに等しい。村の誰もが知らない、あの祭壇の存在理由を彼女なら知っているのではと密かに思ったものだが、クスハはそれきり興味を失ったように口を噤んだ。

「見ろよ、こっちからクレメイユが見えるぜ」

 礼拝堂の周りに張り出した踊り場へ出るともう青い海が視界に入って、ケヴィンは思わずその柵の役割を果たす腰の高さまである壁へ身を乗り出した。

 海を挟んで前方、地平線に見えるのはクレメイユ領地・銀鉱脈のあるカタルの村のはずだった。そこから西方へ首を巡らせると、盛り上がるような大森林が続いているのが分かる。二人が通った影踏みの森で間違いない。

「あの森を抜けて……ここまで五日間、これからまだもっと遠くに行こうとしているんですね、わたし達」

 隣へ並んだクスハの声が、ケヴィンの心境を代弁するようだった。高さのせいか、強めの風が吹き抜けて、彼女の髪をなびかせている。

「オレも知らなかったよ、世界がこんなに広いなんてな。そりゃ、クレメイユ中は回ったことがあるったって、南北は三日、東西でも五日だぜ。リュシヲンには及ばない」

 見下ろす下には、帆船を幾つも寄せた港が覗く。大量の木箱の積荷を下ろしている最中だ。わいわいと声を掛け合う賑わいに混じって、海猫がミャオミャオと周囲を飛んで回っていた。クレメイユとの貿易は、国境閉鎖の後も続いているのだろうか。もし今尚行われているのであれば、帰路に使うことも出来るな、とケヴィンは考えた。しかし、常識的には航路は関所同様に閉じられていると考える方が現実的だろう。

「ねえ見てケヴィン。あっちの方で、市場が開かれているみたい」

 クスハは港側に面した下り坂を指すと、軽やかに駆け出す。彼女にしてはやけに積極的な行動に慌てて後を追い掛けた。旅の疲れを感じさせない足取りは、クスハが知的好奇心に駆られていることを示すようで、ケヴィンはそれを好ましいと感じた。

 初めて触れる世界は、彼女にとってどんな風に映っているのだろう。ケヴィンには想像も出来なかった。

「下り坂なんだから、あんまり急ぐとすっ転ぶぞ」

 声を掛けながら下りる坂は町の入口と同じく、螺旋を描いて港へと繋がっている。クスハは徐々に歩調を緩め、曲がりに差し掛かるところで追い付くことが出来た。螺旋沿いにも店が立ち並んでいる。

 店先にはどれも色鮮やかな庇が立てられ、強い日射しから商品を守っていた。樽入りの果実、木箱に張られた水の中では魚介がぎっしりと並ぶ。じっくりと覗き込んでいるクスハの後ろからケヴィンも眺めると馴染みのない種類のものが一つ、また一つと見つかる。無意識に二人は声を合わせて、感嘆する。

「このお魚、図鑑で見たことがあります。何でも、足が早いものだから採れた土地でしか食べられないそうです。漁獲量も、そう多くないとか」

「詳しいね、オレ植物には自信あったつもりだけどダメだな。地元で採れる物のことしか分からないや」

「本ぐらいしか、時間を過ごす方法、なかったですから」

 にゅるにゅると滑る灰色斑の軟体生物が木箱の縁へ這い上るのを眺めながら返される言葉には一瞬、要らぬことを思い出させたと気を揉んだ。が、笑い声を漏らすクスハは軟体生物と戯れ始め、心配が杞憂であったことが分かる。

「当たり前のこと、か……」

 ケヴィンの呟きは、溜息に紛れる。

 脱走を試みていた軟体生物を無事、木箱へ戻したクスハはケヴィンを振り返り微笑み、自らその手を引いて歩き出した。

 その後もヘテルナの散策はクスハにとってだけでなく、ケヴィンにとっても驚きと感動の連続となった。

 ケヴィンにとってはクレメイユとの比較となり、クスハにとっては本によって得た知識の答え合わせであり、新しい知識の吸収源となる。二人は互いに知識を交換し合うことで更に知識と見聞を広めた。

 市場を回るうちどうにもこうにもお腹が減って、一階層は波止場を前にした軽食を売る店に立ち寄り、小判型に焼いたパン生地にオリーブとトマト、オニオン、チーズとボイルされた海老が調味油と味付けして挟んであるサンドウィッチを二つ買い、波止場へ腰掛けて並んで頬張った。店の壁に張られたメニューはどれも海鮮を用いたもので、恐らくは目の前の海で獲れた新鮮なものを扱っているのだろう。魚の焼ける香ばしい香りが煙と一緒に流れていた。

 ヘテルナでは海産物が主流タンパク源となるのか、食肉を扱う店はとんと見当たらない。振り返ればそれはル・サでも同じであり、日持ちのするチーズや干し肉を目にするのが精一杯といったところだった。

 腹拵えを済ませた二人はしばらく潮風を浴びながら側に停まる中型帆船を物珍しく眺めた。

 出港準備に取り掛かっているらしい船には、船員が忙しく積荷を運んで出入りしている。もう一時もすれば陽が地平線に落ちるだろう。橙に染まる夕焼けの空に、潮騒と海猫の声。時間を忘れてしまいそうだったが、じきにカラーン・カラーンと鐘の音が響いた。

「そろそろ、戻ろうか。ゆっくり休んで、明日に備えよう」

「そうですね、……ふわ、ぁ」

 欠伸を噛み殺すクスハが見え、ケヴィンは小さく微笑った。

 帆船の前を通る際に今から運び込むのだろう積荷の山を目にした。カタル、と書かれた紙のラベルが貼られているのを、ケヴィンは見逃さなかった。

 今夜、このヘテルナからカタルへ向けて船が出るのだ。それは、関所が閉じた現在も両者間で貿易が行われているという事実に他ならない。

 その晩、ケヴィンは柔らかなベッドに横になりながら一人寡黙にその理由を考えていた。しかし、久しい心地の良さを前に身体はあっさりと眠りに落ちてしまうのだった。


 ◇◆◇


 商業都市の朝は早い。日が昇る前から大通りを荷馬車の走る車輪の音が聞こえていた。久方振りに柔らかなベッドで身体を休めることが出来たケヴィンは実に爽やかな気分で目覚め、朝の町を散策に出た。壁に向かって眠るクスハの背中を一瞥して、音を立てないようにそっと部屋を出た。旅疲れで泥のように眠っているのも無理はないだろう。リュシヲン首都までの旅路はまだ数日掛かる。出発の間際まで休ませていてもいいだろう、ケヴィンは考えていた。

 実際に、少し独りになる時間が欲しかったというのもある。彼女の前ではあれこれを思い悩むことが出来ずにいた。所持金の遣り繰りやクレメイユの内情は勿論、リュシヲンの政治事情等々、この先に関わるあれこれを考えるとその表情は自然と厳しいものになる。彼女の不安を煽る恐れのあることは遠ざけていたかった。

「噂のキャラバンを捕まえる手筈を整えないとな。……それと、航路の確認が必要だ」

 潮風を受け、港を見下ろして独りごちる。

 ケヴィンにとっては帰路を考えることも大事なことだった。昨日のクスハの様子から、彼女の前でその話題は避けるべきだと判断した。クスハは恐らく、リュシヲン大公との面会が叶いさえすれば身の安全を守ることが出来るだろう。しかし己は自力でどうにかしてまた国を渡らなければならないのだ。クスハを連れていることがアシュレイという騎士団員にバレてしまったことも気掛かりだった。無事に村へ帰り着くことは、もしかしたら今までの道程より遥かに困難なことなのかも知れない。

 彼女が傍に居ない今、ここぞとばかりケヴィンは盛大な溜息を吐いて項垂れた。が、そうしてもいられない。

 港へと下りると、待機する幌馬車へ積荷を積み替えている様子が見えた。朝日に鈍く光る、鋭い刃がずらりと上向いた槍の束を立て掛けた木箱が目に付く。

「カタルから仕入れてるんだっけ?」

 積荷を下ろす場所を指示している男へケヴィンはそれとなく訊ねてみた。

「銀製品はあそこの方が質が上だからな。しかしいつまで続けられるかね、値も厳しいが連中が縛り上げられたら今度こそ、航路が閉じちまうよ」

「今、クレメイユに渡れるのは荷物だけか? オレ、国を渡りたいんだ」

 訝しがられやしないか、流されやしないか、内心ひどく気を揉んだ。

 男はじろりとケヴィンを見遣ってから、何か考えるように甲板の上に視線を移した。

「……基本的にゃ無理だな」

 呟くような声にケヴィンは落胆しそうになる。

「――が、出来んかと言われたらそれもない、としか俺の口からは言えんな」

「やっぱり、金か……」

 それはそれで大問題だった。航路を利用する機会のないケヴィンには船賃が幾らかは見当も付かない。しかし、非公式であるという以上はそれなりの大金になるのは間違いない。

「おォし、野郎ども! 積荷はバッチリだ、出掛けの祝杯をやったら予定通り出発する!」

 大声を張り上げた男に身体がびくりと跳ね、思考は中断される。積荷を終えた男達が歓声を上げてわらわらと、波止場沿いに開かれた食堂へと飛び込んで行った。残る男も、ゆっくりとケヴィンに背を向ける。

 幌馬車を何気なく見上げたケヴィンは、その幌に描かれた紋を目にして慌てて男の腕を掴んだ。リュシヲンの国紋。

「待ってくれ、あんた、国付きの商人なのか。首都まで……リュシヲンまで行くのか?」

「なんだ坊主、国を渡りたいんじゃなかったのか?」

「その前にリュシヲンに用があるんだ。頼むよ、同行させて欲しい。連れ合いに女の子が居るんだ。彼女だけでもいい、乗せてくれないか」

 今度ばかりは声に熱意を隠す必要はなかった。

「……そりゃ構わねえよ、それも金次第ってところだが。いくら出せる?」

 男は振り返ってにいっと笑って見せる。出せる訳がないだろう、といった風だったがケヴィンの答えを待った。

 ケヴィンが硬貨の残り少ない革袋を苦々しく差し出すと、それを掌で受け取る。

「食い扶持全部足してもそれだけだ。ダメだって言うなら、後追いさせてくれるだけでもいい。……どうしても行かなきゃならないんだ」

 懸命に伝える最中、男は革袋を手にその重さを確認して唸り、首を傾いでいた。

 所持金はほとんど底をついていた。三日分の食を切り詰めて凌げるか否かという程度のはした金を残すのみだ。現実的に考えてこれじゃあ話にはならないだろう。

 長い沈黙が続く。ケヴィンは半ば諦めた気持ちで、革袋を返してもらおうと手を差し出した。

「……条件付きでいいなら、女子一人ぐらい乗せてやってもいいぞ」

「ほ、……本当か?!」

 ぼそりと零すような声にすかさずケヴィンが聞き返すと渋々と男は頷き、革袋を宙へ弄んだ。チャラ、チャラと鳴る硬貨の音は悲しいほどに軽い。

「リュシヲンに着いてからのひと仕事、手伝ってもらうぜ。こんな安銭で引き受けるんだ、ワケありの『ワケ』ぐらい聞かせてもらいてえモンだが」

「身体で支払えるんなら、出来るだけのことはするよ。とにかく今は確実な手段が欲しいんだ、賊が出るって言うし」

「賊が襲うのは金づるだけだぜ、……まあいい。俺の名はガッシュだ」

 差し出される手をケヴィンは喜んで取り、固く握手を交わす。

「オレはケヴィンです、よろしく」

「一刻の後にここを発つぞ、それまでに準備しな」

 食堂の方から、「頭ァ~」と呼び声が聞こえた。ガッシュは目配せをケヴィンへ送り、声の方へと今度こそ去った。

 なけなしの金をはたくことになったが、こうしてどうにかリュシヲンまでの安全を確保することに成功したのだった。

 約束通りクスハは幌馬車の中にケヴィンの手荷物と乗り込み、単騎で馬を走らせるケヴィンは一行と並走した。

 首都・リュシヲンを治める大公、ウィリアム・ロクスは公国で唯一、関所閉鎖以降のクレメイユへ疑念を持ち、国の守りを固めるよう喚起しているのだとガッシュは旅中に語った。

「あんたら貴族出ですらロクに知らないんじゃ、大公も本当に可哀想なこった。まともに捉えてるのは大公に真の信義がある人間ぐらいか。……もう半年もだんまり決め込んで、今のクレメイユは叩けば埃が出るようなうさん臭さだった」

 野営の焚火を囲んで、ガッシュ率いる男達はそうだそうだと口々に囃し立てる。

「お嬢様もオレも、俗世に疎いんだ。屋敷の外に出たのは初めてだから、そんなことになってるだなんてル・サに着くまでは気付かなかった」

 ケヴィンは事前に、クスハと一芝居打つことを決めていた。リュシヲン貴族の家出娘と、それを追った使用人の旅帰り。そうすることで、リュシヲンの内情を得やすくなると共に自分達の身の保証を作ることが出来ると踏んでいた。

 リュシヲン出の貴族と名乗ることでキャラバンの態度は少なからず軟化したようにケヴィンには思えた。向こうにさえ着けば、追加金をせびることも容易だと分かったからだろうか。ひとつ鍋を使えば一食も二食も変わらないと夕刻には気前よく食を振舞ってくれ、ケヴィンが一番気を揉んでいた食糧についても問題はあっさりと解消された。

 食後、血気盛んな男達は町を出る前のように酒を酌み交わし、その肴に町々の情勢が話題に上がる。

 ヘテルナでもまるで噂ひとつなかったル・サ陥落はやはり何処にも伝わっていなかった。伝えるかはケヴィンの迷うところだったが、隠したところで今居る自分達の場所が危うくなるだけだと思い、打ち明けることにした。周囲はひどくどよめき立ったが、誰一人としてそのことを疑う者はいなかった。

「大昔からの因縁ってヤツだな。事なかれのル・サとシュラト、か」

 酒瓶を直に煽るガッシュが皮肉めいて零す声は、リュシヲンの領主統治が決して上手く働いている訳ではないことを匂わせる。

 ル・サが半日にして陥落した背景に領主が抵抗なく町を明け渡したことは、貸し馬屋のスゥラの話でも明らかだったのを思い出す。武力を持たないことだけが理由ではなさそうだった。

「関所の閉鎖で、クレメイユの貴族が流れ込むのを防いでくれるのは有難かったが、それだけの理由じゃあ物流まで断つ理由にはならねえ。カタルの船乗りどもの硬い口を割るのには、苦労したぜ。クレメイユ国王の病死と、性急な王位継承。……政を仕切る人間次第で、こうも変わるなんてな」

 クレメイユ国王の病死は遡ること三年前になるだろうか。国を挙げて行われる盛大な葬儀は、ケヴィンの田舎にも広報としてビラが撒かれていた。

 王位を継承したのは、齢十二歳に満たない王子・シルス。長年患う病を抱えていたとはいえ若君の教育は充分とは言えず、国王の腹心であるマルセル宰相がその凡その指揮を執ることが決まっていた。

 縁深く、何世紀にも渡って交流を繋いだ国家間であったはずだが三年もの間伏せられていたというのは、只事ではない。

 ケヴィンにとってもこれは予想外の状況だった。杞憂と流したリュシヲンへの本格侵攻がまた、現実味を帯び始めた気がした。

「……嘘!」

 クスハの感極まった叫びがこだます。幌馬車の中で休んでいたはずの彼女が、いつの間にか外へ降りている。橙の炎が照らすその表情は白く凍り付く。

「あ……いや、その……だ、旦那様が昔国王にお世話になったことが……」

 慌てるのはケヴィンだ。ガッシュ含め、キャラバンの男達は皆一様にクスハに視線を投じ、その異様な反応の訳を探っているのが分かる。無理もない。咄嗟の言い訳を考えようとするケヴィンだったが、少し苦しい言葉になった。

「嘘よ、そんなこと信じない。三年前? お父様はわたしに労いの文を……、嘘」

 クスハの悲嘆に満ちた声は、静まり返る中でははっきりと誰しもの耳に届いてしまう。ケヴィンが言い訳の二の句を口にするより先に、ガッシュが動いた。クスハの元までずかずかと歩み寄り、その両腕を一瞬にして拘束する。抵抗の折、彼女の細腕から金の腕輪がするりと抜け落ちてカン、カンと音を立てて地面を転がった。

「いやっ……!」

「そいつも抑えろ! ……狂言にしちゃあ、真に迫り過ぎる。クレメイユから遥々ご苦労なこったな」

 ガッシュの声にケヴィンも数人掛かりで抱え込まれ、事態は既に万事休す、逃れる術もなくなってしまった。

 大人の男相手に、腕力が適うはずもない。クスハが俯いたまま頬を濡らしている姿が見える。

 とんだ盲点だった、とケヴィンは唇を噛んだ。よもや、彼女が国王の病死を知らされずにいたとは。

 しかしクスハの存在とその血縁関係は、国内ですら秘匿された事柄でもある。ガッシュをはじめとするこの場の人間が、彼女とケヴィンとクレメイユをどういう位置付けで把握しているのかは定かではない。この捩じくれた事情でも、話せばまだ和解の余地があるはずだとケヴィンは口を開く。

「頼む、話を聞いてくれ。オレ達は大公に会うために…!」

「会わせてやるさ、嫌でもな。それまでそこで大人しくしていろ、あまり無駄口叩くなら轡を噛ませる」

 嘘を吐いたことでまともに話を聞こうという姿勢は当然、なくなっていた。こんなことなら初めから本当のことだけを話せばよかったじゃないか、と過りもするが、国家間の緊張を前にはいずれにせよ同じことだったのかも知れない。

 二人は改めて荒縄で手足を硬く拘束され、幌馬車の中、ひしめく積荷の隙間に詰め込まれる。固い板張りの上、折り重なるようにケヴィンの身体の半分にクスハの身体も投げ出され、上からばっさりと麻布を被せられた。

 キャラバンの男達は再び酒を酌み交わし始めたようで、それきり外は元のようにわいわいと賑わう。

「………クスハ、クスハ。大丈夫か?」

 ケヴィンは小声に身を捩り背中に乗る彼女を労ったが、すすり泣くような嗚咽と微かな震え、そして、背中を濡らす涙がある以上の反応は返らない。

 父王が今日、彼女の中で死んだのだ。三年の遅れを以て。

 塔暮らしの閉鎖的な生活に於いて、父親でありまた国王でもあった人が彼女とどのように接していたのかは、まだ語られたことはない。そこに親子としての繋がりがあったのだろうか。だからこそ、こんなにも彼女が打ちひしがれているのだろうか。真実を聞き出すには間が悪すぎて、ケヴィンは口を噤むしかない。せめて、この腕だけでも自由ならただ抱き締めていてあげられただろうに、と思った。

 幼くして母を亡くしたケヴィンになら、肉親を失う痛みは少なからず分かち合えただろう。腕をどうにか動かそうともがいてはみたが、易々と解ける程甘くはない。

 背中の嗚咽は朝まで止みそうになかった。それでも当初の予定から大きく乖離したとはいえ、目的であるリュシヲンへの旅路は間違いなく軌道に乗り、恐らくは最終目的である大公への謁見も見込めるという希望がケヴィンには抱けた。

 首都・リュシヲンまでは一昼夜に迫ろうとしている。

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