星めぐり 絡む糸 後


 クレメイユとリュシヲンを結ぶ関所から、リュシヲン公国・同名首都への道程は馬で気象・環境に問題がなくて五日、不順となれば倍の十日は掛かる距離にあった。馬を確保、休ませるためにも経路には町を含む必要もあり、そうすると北へ南へ迂回路を取ることになる。商業の盛んな国のため、町々を繋ぐ貸し馬の数はクレメイユよりずっと多いだろう。しかし、それに如何ほど掛かって来るのかは想像するしかなかった。

「関所を抜けられるかどうかはこの際考えないぞ……」

 夜中、発掘したクレメイユとリュシヲンの載る大陸地図へ、大胆にインクで経路や日数、必要な情報を抜き出して書き移したケヴィンは半ばヤケクソ状態で独りごちる。まともな睡眠は取れていなかったが、仕方がない。

 ぐう、と腹の虫が音を立てた。まともな食料も持ち揃えていない。部屋の奥、地下室がまだ静かであるのを一瞥して確認すると、独りで小屋をそろりと抜け出た。

 食材の調達と、関所付近の偵察を兼ねていた。昨晩はああ言ったものの、顔バレのする彼女を連れて歩くのは何かとリスクが高い、そう判断したためである。

 朝の森は打って変わってほの明るく、野生動物の警戒の気配を感じることもなかった。好都合だ、と思う反面若干の不可思議が残る。ケヴィンは水差しとカップをバッグへ入れてまずは泉の方へ向かった。

 少し行くと、視界全体へ薄く霧が出ていた。見通しがあまり好ましくない。昨晩カンテラの灯の見えた方角を見遣っても、具合は分からなかった。

 泉の水で、この先しばらく世話になりそうな小剣を洗い、軽く手入れをした。抜き身を出した途端また襲われるのではと構えたが、杞憂に終わる。

「……逆に妙だと思う方がいいのか、これは?」

 小さく自問自答してみせつつ、長く使われていなかった様子の水差しとカップを濯いでから飲み水を確保し、一旦と小屋の入り口へ置いて戻った。

 後は関所まで出来る限りで近付いて、その様子を見た足で関所越えの策を練りながら実り頃の木苺、山葡萄を少しいただこうという算段だ。

 関所へ向かうには必ず森を経由しなければならないため、行商が行き来して出来上がった道筋が存在する。多少は道幅を拡げて整地もされているため見つけるのは困難ではない。

 が、思惑に反して足を進めるのは難しかった。行く先、進めば進むほど霧の濃さが増しているため、見通しがとても悪い。視覚に頼った偵察は頼れそうにない。数メートル先の姿を見落とす危険性を考慮してケヴィンは道脇の繁みへ隠れ、両膝をついてゆっくりと前進した。

 いっそ気味が悪いぐらいに、獣の気配はない。しばらく進むと、鼻先に肉の焦げた様な匂いがした。手の届く距離には牡鹿が弓を射られて倒れている。息はとうにない。獣が居ない理由は、逃げ失せたか狩られたかのいずれかが原因であるのが分かる。腰を低く保ったまま、ケヴィンは聴覚と嗅覚へ最大限に意識を配る。

 ぱちぱちと火の粉のはねる音の間に、金属鎧を気だるそうに引き摺り気味に歩く足音が聴こえた。前方数十メートル、といったところか。

「あ~あ、こんな辺鄙な場所の警護のために俺は夜更けから待たされてたなんてよ。……せめて、侵攻組に回りたかったぜ、腕が鈍る」

「よく言うよ、訓練の最中に血ィ見て蒼くなってたヤツが。あっちに行きたいなら構わんぜ、どうせここはしばらく騎士団関係者だけで民間人も通らん」

会話する声ははっきりと聞き取れる。もう少し情報が欲しいケヴィンはそのまま聞き耳を立てた。

「……それはさておき、侵攻組についてったあの小隊は何だったんだ? お前、知ってるか?」

「オレが知っているワケないだろ、馬鹿。……でもあの小隊長なら知ってるぜ、兵舎の側の塔の門番をしてた奴だ。同期入団だったし、春先の模擬一騎戦で上位数名に数えられてた様な手練れのはずが何でか今の今までオレたちと同じ一兵卒だったんだから遅咲きの出世というところかな」

「ヒュー、羨ましいねえ。俺もいつか手柄を立てて爵位を戴くまで昇りたいぜ」

「アルテアの娘でも生け捕ればあるいは?」

 笑い声が響いた。冗談じゃない、ケヴィンは奥歯を噛み締める。耳を澄ませる限りではこの関所を見張っているのはこの二人だけの様だった。話を聞くに、クレメイユがリュシヲンへ侵攻したのは最早疑いようがない事実らしい。昨晩、クスハと話しながらにわかに抱いた予感だった。その意図も目的も到底ケヴィンには想像出来なかったが。

 兵士達は暇を持て余しているためか、依然として無駄話を続けている。

「正午前には霧が晴れる、それまでのんびりしていようぜ」

 物音を立てない様に慎重に後退を始めていたケヴィンは最後にそんな会話を拾った。兵士達の警戒心は低く、この霧が晴れるまでになら国境を越えることは難しくなさそうである。来た道を戻りながらに山葡萄の木から小さな房を?いで、入念な策を練る。少し離れた場所にも紅く熟した林檎が生っていたので、三つほど?ぐと片腕は一杯になった。

 収穫を終えたケヴィンが小屋へ戻ると、起きて来たクスハが水差しの水で顔を洗っているのが見えた。

「おはよう、関所の様子を見てきた。濃霧のおかげで少しは楽に抜けられそうだ」

「騎士団は……」

「多分、オレ達が昨日見たのは本隊じゃあないみたいだ。夜の間に関所を占拠して、時間通り朝方に本隊がリュシヲンに向かった様なことを話してるのが聞こえた。……リュシヲンに攻め込んで何がしたいんだろうな」

 出来るだけ簡潔に状況を述べる。クスハは国の行く末を思ってか、苦痛を浮かべて小さく呼気を吐いた。躊躇う時間はない。ケヴィンは、水差しの水で軽く果実を洗い、林檎の一つを彼女へ差し出した。

「食ったら、早々だけど出るぜ。昼前にはこの霧は晴れちまうみたいだし、どれだけ順調に進めてもここから五日は掛かりそうなんだ。……食える時に食っておかないとな」

「……いただきます」

 クスハの顔は浮かないが、受け取った林檎をゆっくりと頬張り始めるのを見て、ケヴィンもそれに倣った。

 鳥の囀り一つ聞こえない森の静けさはやはり不気味としか言いようがない。そんな異常を、関所の現状を知らないクスハもしっかりと感じているらしく食事はすぐに済んだ。小屋の中へ置いた大陸地図と、使えそうなランプと水差しを別の肩掛け出来る麻袋へ詰め込む。傍らでクスハはロッキングチェアへ掛け古された黒いローブを広げて首を傾げていた。

「これ、お借りしたらいけないかしら」

 使われた形跡がないとはいえ、他人の物に手をつけることに抵抗を感じているらしい。

「今は自分の身を守ることだけ優先すりゃいいよ。気に病むなら後で返しに来ればいいしな」

 迷う様な素振りを見せるクスハの手からローブを攫い、表へ出てケヴィンはばさりと埃を叩く。黒地に青緑のリボン刺繍の縁取りのローブが風を受けて翻る。すぐ後ろに麻袋を運んでクスハが佇み、ほら、と彼女の肩へ着せた。

 丈に問題はなさそうだった。

「よし、そろそろ行こうか」

 ケヴィンは右手に麻袋を担ぎ、左手にクスハの手を取った。

笑みを向けると、彼女も少しの微笑みを返してくれる。大丈夫、うまくやってみせるさ。口の中で呟いた。

 泉を越えて森の細道へ入ると、やはり先程と変わらず濃い霧が周囲を満たしている。ケヴィンは道中で程好い長さの枯れ枝を数本集めて歩いた。

「この先の関所には見張りが二人居た。オレが注意を削ぐ間に抜けて、その先で待ってるんだ」

 小声に諭すとクスハは目を剥いて頭を振ったが、ケヴィンの無言と強い眼差しの前に少しして小さく頷いて見せた。

「あまり、危険なことはしないでください……ね」

「大丈夫」

 食い気味に返す言葉は自身の不安を払う様でもあった。

 先程同様、道横の草むらへ身を潜めながら今度は関所の煉瓦壁まで辿り着く。すぐ側でも半径一メートルほどしか視界ははっきりとしないほどに霧が濃い。その原理は分からない。

「――――…ッ」

 息を飲むクスハが、身を強張らせてケヴィンの衣服を掴む。

震える彼女の視線の先――道の真ん中に赤黒い血溜まりが見えていた。うっすらと霧の先に足鎧が見え、血溜まりの中に横たわる人の死体であることが分かる。

 それは、ケヴィンも見つけていなかったものだ。

 汗ばむ手で、彼女の肩を優しく撫でた。思えば、ここを守っていたであろうリュシヲンの兵が居ない訳がない。燻る火の音も焦げた匂いもここが一時戦場になったことを証明していた。

 遠く、反対側で金属鎧の音がする。やはり気だるそうな足取りで周辺警備もやむなく、といった風だ。

 ケヴィンは火打石を鳴らして枝へ火を灯した。恐らく、すぐに火元は察せられてしまう。拾い集めた枝数本すべてへ火を灯すと、関所の入り口から離れた方へ目掛けて投げ掛ける。

 一本――二本、三本。

 そうして、クスハへ顎先で関所を越えろと示した。

 クスハがローブを翻して走って行く姿は、すぐさま白い靄へ包まれる。

 四本、五本。流石に、それだけの本数を投げ込めば木の一本や二本は容易く燃え上がるだろうか。霧の中にもよく浮かぶ橙の火が育って行くのが見える。

「――おい、何か燃えているんじゃないか?」

「何言ってるんだ、そりゃ俺達が射掛けた火矢の……」

「だとしても、森に燃え移ってンじゃねえか?」

「……まさか」

 間延びした、楽観的な声が火元を確かめに動く音がする。ケヴィンは足音が火元へ近付く頃を見計らって関所に向かい全速力で走り抜けた。血溜りがばしゃりとはねる。

 その瞬間はぞっとしたが、幸いにも兵士達には気づかれずやり過ごすことが出来たのだった。

 煉瓦門を潜り抜けたところで、ケヴィンは背中の衣服をぎゅっと掴まれる。振り返る先に不安に満ち満ちた顔のクスハ。胸を撫で下ろして、その手を握り直した。

 薄く拡がる霧を抜けるまでは、安心出来ない。二人は無言のままで走った。追っ手が来る気配はない。

 リュシヲンへ無事足を踏み入れた二人の次の行く先はリュシヲンとクレメイユを結ぶキャラバンの町、ル・サである。ケヴィンは地図からその位置を徒歩一時間半ほどと読んでいた。霧が晴れる頃、視界には風に揺れる大草原が海原の様に広がっていた。晴れ渡る青空、天候もまず問題がない様に見える。まずまずの走り出し、といった様に思えた。

「ル・サの町で馬を借りよう。まずはそれからだ」

 言いながら、ケヴィンはもう次の問題に気づいていた。

 リュシヲン侵攻が事実だとするのであれば、騎士団は必ず最初の拠点にル・サの町を占拠しているだろう、と。

 町が町として機能していればいいのだが、場合によっては廃墟と化している可能性も否定は出来ない。ル・サの側までは草の剥げた道筋を逸れた、森伝いに移動することにした。森は町の西側に展開していて身を隠すにはちょうど良い塩梅だ。ケヴィンが自ら馬と数日分の食糧の調達に動いている間、クスハには待機してもらおうと考えていた。

 大きな世界へ飛び出した二人の背を促すかの様、風が吹き付ける。


 ◇◆◇

 

 ル・サ西部の森。そこでケヴィンはクスハと別れた。当初の計画通りの様だったが、実際は芳しくない状況にあった。

関所を抜けてからル・サまで目算では一時間半で着いている予定だったが、既に日は傾き始めていた。森沿いに移動する中で左足首を捻ったクスハがまともに歩けずに予定の二倍の時間を費やす結果になってしまったのだ。

 足を庇うクスハを連れての道程は、簡単ではなかった。かといってウルヴァリ山脈での様に彼女を負ぶって歩くには荷物が増えすぎていたし、何より彼女がそれを拒むのだった。

 ル・サの町は南北に入口を設けていたが、そのどちらにもクレメイユの兵が警備を固めていた。町の中は背の高い煉瓦壁の向こう、目立つ騒ぎも見えず、静かすぎるぐらいであった。正攻法が無理であると判断したケヴィンは外壁を上って中の様子を伺う。

 クレメイユ騎士団が到着して半日ほど経つはずだったが、関所に比べその様子は平穏そのものである。ケヴィンが頭一つ壁から覗かせたそこは厩の側で、十数頭は居る馬達に訝しげな眼差しを受けることになった。

「シーッ、頼むよ、ちょっとだけ静かにしていてくれ」

 馬達はやや興奮気味に鼻息を荒くさせたり嘶いたりしたが、大騒ぎをする訳でもなくそれで人が近寄る気配はない。厩の向こう中央には広場が見える。クレメイユ兵士の姿はなく、町人がまばらに肩を寄せ合っては密やかに声を交わしているのが見受けられた。その表情はみな、険しく苦々しい。

「……ひとまず話を聞いてみるか、ってうわッ!」

 呟くや否や、ケヴィンは衣服の肩を馬に食まれて地面へと引きずり落とされていた。二メートルの高さから落ちた衝撃で全身に痛みが走ると同時、転がった上に馬の前脚が振り下ろされる。

 踏まれたらひとたまりもない。反射的に地面を転がってみせたケヴィンだが、その挙動は他の馬を騒がせる要因になる。転がる先転がる先で馬が嘶き、逃げ惑って気付けば厩の中で馬に囲まれる状態になってしまっていた。

「わ、悪かったよ、俺もそんなつもりじゃなかったんだ」

片膝ついて上体を起こしたケヴィンは背中に鈍痛が走るのを堪えながら馬に歯を見せる。人相手でない以上それが通じるとも思えなかったが、他にやり様を思いつかなかった。

「なんだい、騒々しいと思ったらお客かい」

 背後の女性の声に、一難去ってまた一難。ケヴィンは肝を冷やす。恐る恐る振り返るそこに、髪を一つに結わいた中年女性が馬の頬を撫でて佇んでいた。

「クレメイユの次は馬泥棒、次から次に勘弁して欲しいもんだね。……ほら、立ちなよ」

 左腕を掴まれて立ち上がらせられて初めてケヴィンは気付く。中年女性の身長はケヴィンを頭一つ分越している。驚き目を剥いたが、肩から背に掛けて稲光の様な痛みが走った。

「いッ………」

「あんた達、こいつを踏んでやったのかい?」

 彼女は馬に訪ねていた。「冗談言ってる場合かよ」と吐き捨てたかったが、大女相手に啖呵を切る勇気は持ち合わせていない。肩に触れて傷があるわけではないのを確認した。

「盗みたかったんじゃないんだ、信じないかもしれないけど。ここに来る途中で馬が潰れたんで替えが欲しくて……」

「――まあいいさ、ケガさせちまったのは本当の様だしひとまずうちに来なよ。寝床貸してやるからさ、これで」

 大女は指を四本立てて見せる。

「金取るのォ!?」

「当然。クレメイユの関所が閉じて以来、こちとら飯のタネが減ってるのさ。それでも生きてかなきゃならねんだ」

 素っ頓狂な声を上げたケヴィンに白い歯を見せて笑う彼女は、明朗ながらにそんな言葉を返して「おいで」と彼を誘導して厠を出て行く。相場としては宿よりずっと安いものの、悠長に休んでいる訳にも行かない。事情を話し、ひと通りの情報を集めたら早々にこの町を出なければ。肩を抑えてケヴィンは彼女の後を追う。


 厩の隣が大女・スゥラの住処であり、店だった。

「夫が出て行ってから一人で切り盛りしてる貸し馬屋なのさ。この半年、まともな商売が出来ていないけどね。関所が閉じたって聞いた時から妙な気配だったけれど、今朝方からクレメイユの連中が町を占拠してでかい顔してやがる。……あんたも悪い時期に来たもんだね、ヘテルナからかい? まさか、クレメイユじゃないだろう?」

 ケヴィンの上半身を剥いて寝台の上へうつ伏せに寝かせたスゥラは、その背中に冷やしたタオルを宛がいながら訊ねた。

背中は左肩から背中に掛けて赤く腫れていたものの、軽い打ち身で済んでいる様だった。

「………まあ、そんなところです。急いで首都・リュシヲンまで人を運ばなきゃならないんだ。どうしても馬が要る。なるたけ、早い馬を――……いててッ、染みるッ」

「この程度で騒ぐんじゃないよ。多肉植物のゲルを取り出した軟膏さ、塗ると塗らないんじゃ大違いなんだから」

 べちんと頭を叩く様がケヴィンには大衆の母親像を思わせた。こそばゆい様な感覚にはにかみそうになって、枕へ顔を埋めて誤魔化す。幹部へ塗り拡げられる軟膏はひやりと冷たく、初めの痛みを堪えれば後は熱が引いて行く様な心地良さである。

 ふと、クスハの足のことが過った。

「スゥラ、馬もだけど……出来ればその軟膏、売って貰えないかな。同行者にケガ人が居る」

「馬から落ちでもしたかい? そりゃ大変な旅だったね。うちは商売だからお安い御用だけど、ケヴィン、あんた少し休みなよ。どうせ今すぐには準備してやれそうにないんだ」

 軟膏を塗り終えたスゥラは寝室を離れたのか、声が遠くなる。首だけで何とか振り返ってみると、彼女は居間のカウンターで何か作業をしている様だ。

 起き上がれないものかと両手で上体を起こそうと試みようとして、ケヴィンは諦めた。スゥラの言う、すぐに準備出来ない理由が分かる気がしたからだった。

「クレメイユが攻め込んだって割には、そこまで荒れた様子がない気がしたんだが」

「……そうだね、良かったのか悪かったのか分からないけど、領主様とクレメイユの間で協定が契られたって噂を聞いたよ。それが本当だとするなら、この町は既にクレメイユ領なんだろうね」

 要領を得ない返答だ。つまり、この町にクレメイユ騎士団が到着した午前から午後までのたった数時間足らずでル・サは制圧されたということだが、町の住人には正式な知らせがないまま現在に至っているということだろう。

「人が死んだり、町が燃えてるよりかはずっとマシだと思いたいね。そういうことなら、連中はまだ聞く耳持ち合わせてるってことかな?」

「どうだかね」

 苛立った様にスゥラの返事は短かった。そのまま、会話は途切れて再び続くことはなかった。フロラを出てから一日半、その間中まともな睡眠を取れていなかったケヴィンもまたクスハと違わず疲弊し切っていた。ひどく久しく感じる柔らかなベッドの上、ケヴィンは自然と意識を手放していた。

 次に目を覚ました時、辺りは闇に包まれていた。

「まずい、眠っちまった。……クスハは大丈夫かな」

 スゥラは家を出ているのか、居間に灯りこそ点っているものの物音一つ聞こえては来ない。ケヴィンが身体を起こすと、もうすっかりと背の痛みは消えていた。痛んだ肩を試しに回して、調子が戻ったことを確かめてベッドを下りた。やはりスゥラは居ない様だ。ベッド脇へ置かれていたシャツを着、帆布バッグを肩へ掛け直す。馬を明日の朝から走らせるなら、今夜の内に数日分の食糧を調達しておかなければならない。人の居ない居間を抜け、ケヴィンはそのまま夜の町へ繰り出した。

 太陽も沈む時間、町の灯りはあるものの辺りは昼と変わらず静かなものだった。クレメイユの兵士は依然として南北の門に立つ以外は姿を見掛けない。通りに面して店が並ぶのが見え、ケヴィンは食料品を扱う店の扉を開く。

「いらっしゃい、悪いが大したもんは売れないぜ」

 開口一番の店主の声にケヴィンはカウンターまで詰め寄った。

「……やっぱり、クレメイユの連中のせいなの?」

 出来るだけ声を潜めて訊ねると、盛大な溜息が返事とばかりに返る。立派なあごひげを弄びながら店主は台の上へ書類を載せた。紙の上には、物流協定の文字。ル・サ以東の都市からの物流の六割をクレメイユへと運ぶ取決めについて細かく記載されている。

「勝手に関所を閉じたかと思ったら、今度は町を占拠して物流の横流しだ。そんなに飢えとるんだったら、大公に話をつければそれで済むだろうに、何故こそこそしとるんだか。戦でもおっ始めようってのか」

「………この数年は収穫量がダダ下がりな一方で、自分たちの生活分をいかに守るか、役人の目を誤魔化すのに何処も必死だったから。例え収穫元から根こそぎ取ったって、行き渡らないだろうって聞いたことがある。手っ取り早く解消するには、領土の拡大が一番だったってことかな」

「やけに詳しいな?」

 腕組みながらに今考えるそのままを述べたケヴィンだったが、店主の訝しむ様な視線を前に腕組みを解いて慌てて取り成す。

「い……いやぁ、む、向こうに親戚が居るから、さ」

「まあ、いい。そんな訳だ、売れるもんは知れてるぞ」

 書類をトンと叩いて片付けた店主の前にケヴィンはバッグから硬貨の入った革袋を取り出して置き、中身を並べた。

「馬を借りてリュシヲンに行くんだ、その残りの金で買えるだけの食糧を調達したい。……どのぐらいなら売れる?」

 真っ正直な提案は、賭けの様なものだった。相手が悪ければ必要以上に毟り取られる危険がある。根拠と呼べる程ではなかったが、ケヴィンには自信があった。

 硬貨を積み上げ数える店主に、スゥラから提示された前金額を伝える。渋い顔で眉間に深い皺を刻まれたが、じっと黙って見上げるケヴィンの眼差しに折れたか、暫くの後に店主は大きく息を吐き出した。

「首都まで最短五日、まあこの季節ならヘテルナまでは雨に遭うこともなく順調に三日だな。……旅慣れない人間連れて行くにはちょいと長旅だがね。ヘテルナまでの三日分の食糧なら売ってやってもいい」

「ありがとう、恩に着るよ」

「ああ、是非とも着て欲しいね。尤も、頼みに来たのはスゥラだから礼を言うなら彼女にだが」

 どうやら眠っている間にスゥラが手を回していたらしい。丸く大きな硬パン三つに、チーズひと塊、木苺ジャムひと瓶。麻袋に詰めて手渡されたケヴィンは手持ちの金がどれだけ減るのかを考えて肝を冷やしたが、予想に反して馬の前金を除いても少し余裕が残った。もう一晩ぐらいなら宿に泊まれる額だった。

「飲み水は南のシュラトの側を流れてる小川で汲むといい。余所者を嫌う土地だから長居は勧めない。ここやヘテルナの様にキャラバンの経由地点じゃないからな」

「……親切にありがとう」

 ケヴィンは頭を下げた。生活苦の中、他人の為に施すのは易くはない。何か返せたら、と切に思ったがどんな言葉も口にすればそれは何処か軽々しい。そう思っては、ただ態度でそう示すだけが今のケヴィンに出来る精一杯だった。

 店を出たケヴィンは鉄鎧の音を耳にする。顔を上げる先には、数人の下級兵士の姿が対面の店へ入って行くのが見えた。軒先にぶら下がる看板を見るに、酒場の様だった。

「なるほどね、酒飲んで管巻いてるってことか。随分と余裕なんだな……」

 悪態を零してこそみたが、ル・サに対抗出来るだけの武力がないのは明らかだった。無抵抗さながらに町を占領された様子を見るに、リュシヲンというのはとんだ平和呆け国家なのではないか。そんな思案が過る。自国のことでもないのに、ケヴィンは何故だか苛立ちを覚えた。

 酒場に顔を出してみることも考えたが、顔を覚えられることは面倒を起こしそうだと思い止めにする。大人しく、麻袋を抱えてスゥラの馬屋へ戻るのだった。


 ◇◆◇


「遅くなっちまった、早く戻らなきゃ」

 ケヴィンは馬を急がせて草原を西へ走る。

 その後、スゥラはあろうことか、無償で馬を貸し出してくれた。入れ違いにクレメイユの小隊に言い値で馬を五頭貸し出した彼女は署名だけなされた小切手を手渡されたのだと嬉々としていた。

「あんたは訳有りなんだろう、一頭分ぐらい奴らに余分に払わせたって気づかれないさ」

 白い歯を見せて笑うスゥラの心意気に、感歎したケヴィンは思いの丈を込めてスゥラとハグを交わして別れたのだった。入れ違いに彼等の姿を一瞬だけ垣間見ていたケヴィンは、その後方に紛れる様にして町を抜け出て今に至る。ここまではとても運が好い。門の警備をどうやって誤魔化すかが課題だったが、先客がそれを取っ払ってくれた。五頭の馬を走らせる小隊はそのままル・サを出てまっすぐに南下して行く様子だった。シュラトに向かうと考えるのが筋か。すぐにクスハの待つ西の森へ赴いたケヴィンが、彼等の行く先を明確に把握した訳ではなかったが、そう推測した。

 馬を走らせて五分足らず、森の際へ辿り着いたケヴィンは馬を降りて手綱を引いて森を歩く。

「クスハー今戻ったぞー」

 控えめながら声を掛けると、そう遠くない位置でがさりと繁みが揺れる。腰を低くして四つ足に這うクスハの姿が見え、ケヴィンは駆け寄って彼女の身体を支えた。

 疲弊し切った様に胡乱な表情ながら、クスハは安堵で表情をわずかに綻ばせる。

「遅くなってごめん。……足、まだ痛むか?」

 訊ねながら、スゥラより貰い受けた軟膏の小瓶を開けて、彼女の左足首の具合を窺う。編み上げのサンダルの紐を解いた足首には、気休めに濡らした葉が巻かれている。

「少しだけ。町の様子はどうでしたか」

「連中、戦争をやるほどの派手な仕掛けをするつもりには見えない。ただ、表向きはともかく、もうあそこはクレメイユの管轄だと言っていい。……まあ、そんなことはいいさ。馬も手に入ったんだ、この先は少しぐらい楽になる。次の町では柔らかいベッドで眠れるようにするから」

 軟膏を塗り終え、譲り受けた新品の包帯でしっかりと保護する。腫れはまだ目立ったが、今より悪くなることはなさそうだった。手を引いて歩くことは出来る。立ち上がったクスハは、ケヴィンの手を取りながら馬の側まで寄った。

「………ケヴィン、誰かついて来てる」

 馬の背を撫でながら小さく零したクスハは森の入口を見据える。馬の蹄の音がゆっくりと近づいて、二人の前に青毛の馬に跨り真紅のマントを揺らす男が現れた。

 二人は同時に息を飲んだ。

「アシュレイ」

 先に言葉を漏らしたのはクスハだった。驚きの余り無意識零したらしいその言葉に、男が足を止め、クスハは馬を背にして隠れる様にフードを被ったがもう遅い。

 ケヴィンはクスハの知己であったことに更に驚愕していた。目の前の男は先ほどスゥラの店前ですれ違い、ケヴィンが途中まで後追いした小隊で一番権威がある様に見えた、その男だ。まさか、こんなに簡単に行くとは思わなかったが、その代償がこんな形でこの様にして訪れるとは。焦りと動揺で立ち尽くす他なかった。

「どんな小物が釣れるかと思えば、クスハ、君がこんな場所で見つかるなんてね。探したよ。……うちに帰ろう」

 馬上に乗るまま、アシュレイとクスハが呼んだ男は優しい声色で声を掛ける。極めて友好的な対応だ。ケヴィンが状況を把握することに気を取られた一方、クスハは俯いたまま姿を晒すことさえしない。

「みんな心配している。君が居なければ、俺達は何の為にあの塔を守るんだい。外が危険なことはもう充分に分かったはずだろう、クスハ」

「……詭弁は止して頂戴、あんな手配書まで撒いて。生かすつもりをこれっぽっちも感じられないわ。あなたの言う『守る』って、ただ隠匿するだけのことでしょう?」

 アシュレイに背を向けるままのクスハの表情には、怒りにも似た懐疑があった。ケヴィンは、クスハと男とをくるくるり眼を動かして観察した。まだ言葉を挟む段階ではないと踏んでいたが、馬の手綱にだけ手を掛ける。

「クスハ、あまり手を焼かせないでくれ。そう、確かに君はその存在を知られてしまった以上今までの様な暮らしは出来ないだろう。だけど、いくらでもやり様はある。……按配良く、代わりも居ることだからな」

 アシュレイの眼光がケヴィンを鋭く捉える。音のない所作でレイピアを抜き出して下手に構える、その刃が鈍く光った。

 ケヴィンは咄嗟に馬へと乗り上げ、クスハに捕まる様手を差し伸べる。

「無駄な抵抗は止すんだな、こちらはクスハ姫の身柄さえ手に入ればその他に暇はない。貴様の頭ひとつあれば、彼女の保身には充分だろう。命が惜しくばその場に直れ下民」

「――はいそうですかって行くなら、こんなことには最初から、……ならねえよ!」

 クスハの腕を力ずく馬上に引き上げたケヴィンはその片手に握る手綱を引いて、馬を回らせる。嘶く馬の声が森中に響いた。

「クスハ!」

 馬が駆け出すのはほぼ同時だったが、半身後ろをアシュレイが走る。ケヴィンの前に抱かれる様に居るクスハはその肩越し、彼を振り返って気にした。

「お願いよ、アシュレイ。本当にわたしを思ってくれるのならわたしを捜さないで。水瓶には、穴が開いてしまったのよ」

 クスハの呼び掛けは悲痛な思いが込められる。一度壊れたものは元に戻らず、溢れる水を止めるのは容易ではない。それは使い古され、耳慣れた慣用句だった。無口な印象の強い彼女の多弁な一面にケヴィンは内心驚くのだが、ここは揺れる馬上。速さを増すそこで口を回すのは舌を噛みかねない危険を孕む。ケヴィンは彼女の頭を引き寄せて咎めるが、腕を潜って顔を出す彼女はもう一言とばかり、続けた。

「もう、戻らない」

 その言葉を最後に、アシュレイの馬は速度を緩めた。

開いて行く距離。クスハはずっと後ろを見つめていた。足音が遠退いて初めてケヴィンが手綱を緩め、後ろを振り返る時、アシュレイは立ち止まってこちらを見据えていた。

 その表情には動揺が見えた様にケヴィンは思う。

 クスハと、彼の間に何があったのかとても興味を持ったが、ひとまずは今このチャンスを逃す手はない。大人しくなったクスハを抱えて再び馬を最速で走らせ、行けるだけの距離を稼がなければならなかった。追手が掛からない保証は何処にもないばかりか、寧ろ危険性は増していた。

 キャラバンが使う荷馬車の車輪跡が残る道を駆け抜けて一路にル・サ北東、ヘテルナを目指す。疲れ切ったクスハには酷ながら、もう二晩は最低、野宿を過ごす覚悟でケヴィンは馬を走らせた。

 互いに思うことが多かったのだろうか、その晩、二人は言葉をろくに交わさず眠りに就き朝を迎えるのだった。

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