星めぐり 絡む糸 前

鬱蒼とした森だった。夕日が地平線へ差し掛かるこの時刻、灯りを持たずに入るのは素人目に見ても良い選択とは思えない具合である。しかし、ケヴィンが介抱していたアルテアの娘と思しき少女が森へ入って行った事実は変わらない。

「早いところ見つけないとまずいぜ、これは」

 独りごちてケヴィンは森の中へ分け入った。

 バッグの中には火打石をはじめ、非常用の道具も常備している。万が一には松明を作ることも出来る、そこまでは織り込み済だった。

 耳を澄ますと遠く、前方で草むらを駆ける足音が聴こえている。方角を定めるとケヴィンも足を走らせ、彼女の姿を捜して神経を尖らせた。

 ――ゾッ。

 緊張感にも似た悪寒が走ったのは数百メートルも進まないうちのことだ。それは、山で感じた気配と似ていた。

「……まただ、この感じ。一体何だって言うんだ」

 背後に感じる獣の気配。刺さる様な視線は、よそ者を警戒しているだけでは済まず、獲物を前に飛び掛かる機会を窺っている様でもある。

 立ち止まったケヴィンは跪き、バッグから火打石を取り出す傍ら反対の手で腰の小剣へ手を掛けた。獣は火が苦手なものだ。火を持つ人間を恐れて危害をこちらから加えるのでなければ、逃げ出すだろう。安全と、何より視界が確保出来る。

 繁みの裏に隠れた獣の動きを耳で追いつつ、視界は前方警戒と手元を行き来させる。

 火打石を手にしたところへよく燃えてくれそうな枯れ草を毟り取って挟み、手頃な太さの枝を掻き寄せた。まだ獣が動く気配はない。幸いだ。続いて、抜き身の小剣の背に火打石を打ち付け、火花で草を燃やそうとした。ばち、と火花が散り草が僅かに焦げる。まだ足りない。もう一度。

 ケヴィンは内心酷く焦っていた。手元と周囲を確認しながら、三度目の火打ちでようやく燃材に火が点き枝へ火を移すことが出来、額へ浮かんだ汗を拭った。

 小さく揺らめく火種へ息を吹き掛け、小剣を腰へ収めようとする、と、そんな矢先。

 後方の繁みから飛び出す獣の気配。そのまざまざとした殺気にケヴィンは咄嗟に身を庇って小剣を斜めに構えた。

腕に鋭い爪が触れて微かな傷が出来、思わず反射的に腕を振るっては小剣が薙ぎ払う様な一閃を繰り出す。

 嫌な手応えが伝わり、両目を閉ざして逸らすと同時、呻く様な獣の咆哮と重く濡れた落下音が響いた。全身の血の気が引いて、罪悪感を抱きながらもケヴィンはその目をゆっくりと開く。想像通りの惨たらしい光景に加え、むせ返る様な血の臭いが五感を刺激した。

 横たわるは野狐。その腹を縦に裂かれて臓物を散らし、濁る眼はケヴィンを睨み据えて息絶えている。

 羊や兎を捌くことはあった。それと同じだ、ケヴィンは己に言い聞かせたが腰は引け、膝は震えた。

 野生は家畜とは違う。凄まじい臭いにえずきながら後退り、震える膝をどうにか立たせると利き手に握った小剣を仕舞うことも忘れ、火の灯った松明を掲げて森の奥地へ走った。

「冗談じゃない、一刻も早くあの子を見つけてここから離れてやる……!」

 自身を奮い立たせるためにそんな言葉を口にする。

 ――こんな場所で丸腰の少女が無事で居られるのか?

 考えたくもない疑問がすぐさま浮かんだが、頭を振って一蹴した。声を上げて捜すことが出来れば良かったが、指名手配の手前それはリスクが大きかった。ケヴィンは、奥歯を噛み締めた。

 いよいよ陽が沈んだか、周囲は松明なしには視界を得るのも難しい。何処まで彼女が逃れたのか、少なくともこの闇の中ではもう然程も進めないだろうと想像出来る。

 しばらく、獣の気配は失せていた。その静けさすら今度は不気味に思うケヴィンだったが、月明かりの差す場所を見つけると多少の安堵を得られた。

 水がせせらぐ音が近くなり、開けた場所へ着くとそこには岩肌から滲み出た水で出来た泉があった。見上げれば星の瞬きが望め、泉の水面には月影が光を反射して灯の代わりを担っている。その畔で蹲る様に、少女は居た。泉で咽喉を潤している様子に、ケヴィンはほっと胸を撫で下ろした。

「……クスハ!」

 響かない程度に小さく叫んで、彼女の元へと駆け寄る。

 驚き振り向いた少女は、身を強張らせた。その眼差しは松明を掲げ、獣の血に塗れた小剣を握ったケヴィンを真っ直ぐに捉えて震えている。今にも声を上げそうだった。

 次の瞬間、ケヴィンと少女を取り巻く様に獣の気配がした。全身の毛が立つ程の鋭い視線に、ケヴィンも息を飲む。この時点で少女とケヴィンの間には行き違いが生じていたが、それを知る由はない。少女が恐れるのは剣を手にしたケヴィンだったが、ケヴィンは少女も獣の気配に気づいたのだとしか感じていなかった。

 ゆっくりと見回すと、ケヴィンの視界には狐、狼に始まる狼などの獰猛な獣がひしめいており、じり、じりと距離を詰めるのが映る。標的はどう見ても二人でしかない。まだ、飛び掛かるには距離がある。そのことだけが救いだった。

「――キャアアァ!」

 恐怖で怯え切った声を上げた少女は、ケヴィンから距離を取って地べたを這う。

「おい、今離れたら無事は保証出来ないぜ」

 彼女の腕を引き寄せるには松明か、小剣が邪魔だ。気づいたケヴィンは小剣を腰へ収め、少女の白く細い腕を強引に引き寄せることで腕に抱き留めた。

 獣がまるで威嚇する様に咆哮する。いつ飛び掛かられてもおかしくはない。どうすべきなのか、逡巡するケヴィンの腕の中で少女はもがいた。

「いや……放して! こんな、こんなもの……!」

 ケヴィンの顎に肘鉄が偶然にも決まる。目の前で星が散る様に立ち眩んだその手から、少女は松明を奪うと夢中で水の中へ向けて放り投げた。放物線を描いて、松明はとぷんと泉に沈む。

「馬鹿、何やってんだ!」

 水音に、最悪の事態を予測してケヴィンは蒼くなった。

 今、踏み込まれたら――。しかし、先程にしても火で怯む様子はなかったのだ。いずれにしても安全策とは言えない。万事休すか。自由になった両腕で彼女を抱いて蹲るしかなかった。

 静寂をそよぐ風が破る。

「……………?」

 一向に獣が襲って来る気配はない。不思議に思っていると、距離を詰めていた獣達の様子が変化していることに気づく。ある個体はケヴィン達に背を向け、のそりのそりと後退し、またある個体はこちらの様子を窺いつつも先程ほどには警戒していない風に見えた。

 そうしてしばらく見守っていると、最後には一匹残らずケヴィン達の前からすっかり姿を消して行き、辺りには静寂だけが残される。

 ケヴィンは大きく息を吐き出して脱力し、側の岩へ寄り掛かった。その腕から少女がさらりと抜け出したが、一連の中動きで無害な相手だと判断されたのかもう逃げる様子はない。

「さすがに……生きた心地がしなかった、ぜえ…。なんだって松明を捨てる必要があったんだい?」

「怒っていました、彼等」

「ああ……?」

 項垂れたケヴィンの隣で、少女は獣達が消えて行った奥地を見据えている。

「……剣を片手に森の中で火を焚くあなたを、動物達が怖がっていた。怒っていた。……何だか、そう感じたんです。だから――」

「だから、松明を投げ捨てて危険な相手じゃないことを示してみた?」

「………はい」

 彼女の言うことはもっともらしくはあるが、何処か納得が行かない。ケヴィンは頬を掻いた。

「森に火を持ち込むのはダメです。夜の森は彼等の領分ですから。それに………あなたは血の臭いがした」

「仕方ないさ、あんたを捜さなきゃならなかったし、それに、殺生だって好んでやった訳じゃない。出遭い頭だったんだ」

 こうなると少々分が悪い。むっすりとしながら答え、ケヴィンは腰の小剣を抜き出した。鈍く光る刃はところどころ赤黒く汚れている。後でしっかりと洗い流す必要があった。

 隣でそれを見て、少女はあからさまに眉を顰める。

「わたしの名前を知っているのは、あなたが手配書を見てわたしを追って来たからなのでしょう?」

「……そうだけど、そうじゃない」

 明らかに再び警戒されている。ケヴィンは、ひとまず彼女に示して見せる必要があった。先程、彼女が獣達へそうしたのと同じ様に。

「オレはただ、ウルヴァリ山脈で急に目の前に現れて失神したあんたを城下町へ送って、家に帰してやりたかっただけだよ。……どうやら真っ直ぐ帰る訳にはいかなさそうだけど」

 猜疑心に満ちた瞳で見つめて来る少女を前に、ケヴィンは町で拾った手配書を取り出して目の前で破いて見せる。小さく千切った紙片が夜風に吹かれてはらはらと舞い飛んだ。

「オレはケヴィン、フロラの羊飼いだ。きみを利用するつもりも、危害を加えるつもりもないよ。ただもう一度だけ、確認させてくれ。……きみがアルテアの娘、クスハなのか?」

 訊ねながら、ケヴィンは握手の手を差し出す。

「クスハ・エンデ・クレメイユ、それがわたしの……本当の名前です。王族の血を引きつつも、アルテアの処罰の手前離宮で幽閉生活を送っていた落ちぶれでしかないですが……」

「――れっきとしたお姫さまじゃないか。なるほどね……見えた様な、見えない様な」

 ケヴィンの差し出す手を少女改めクスハが恐る恐る取る。その手は柔らかく、冷たかった。

「大丈夫、オレの親父はあんたの――…きみの、母さんの旧友だったみたいだし、友達の友達はナントカ、って言うだろ。何が出来るか分からないけれどさ、何とかしてみせるって」

 語調を改めたのは、彼女に対するささやかな敬意でもある。

「………ケヴィン」

 クスハの瞳がにわかに潤んで、雫が零れる。声を殺して俯いた彼女の手を、ケヴィンは強く握り締めた。今の今まで気を張り詰め続けていたのをようやく緩められたのだろう。小さく震える背をそっと撫でて宥めてやった。

 静寂を取り戻した森は、秋の夜に相応しく次第に気温を下げて行く。このまま夜を明かすのなら場所を移す方が良さそうだと考えたケヴィンは、どうにかフロラへ戻れないものかと思案したがクスハが首を横に振った。

「町中で聞いた噂では、国中へ捜索隊を派遣したそうですから、危険です。それにあなたの家族まで巻き込むことになるのだけは避けたいのです。わがまま、かも知れないですけど……」

「そういや、そんな話も聞いたな。明朝、リュシヲン公国へ向けて第二騎士団が騎行する、とも聞いたぜ。連中がどういうつもりなのか判らんが、クレメイユでやり過ごすのが難しいなら亡命を考えた方が安全か?」

 改めて振り返ると妙な噂だった。リュシヲン公国へ騎士団を送る必要性が見えて来ない。国外逃亡を恐れて、国際間での指名手配を企むのか。ケヴィンは考えてはみたが何分情報が足らず、思考を放棄する他なかった。

「……関所を越えるなら夜のうちの方が良いのかも知れないですが…、………何だか嫌な予感がします」

 クスハがじっと何処かを見つめてぽつりと口にする。その眼差しを追う先に、ちらりちらりと小さなカンテラの灯が見えた。耳を澄ませば聴こえる、軽量鉄の甲冑が擦れる音。数は多くないが、それが騎士団の手の者であることだけは判る。二人して目配せて頷き合った。騎士団が向かう予定の明朝には時刻が早過ぎるが、何はともあれ今関所へ向かうのは得策ではない。

 ケヴィンはクスハの手を引いて、出来るだけ関所からも町からも離れた森の奥地を目指した。野生の獣がまた襲って来るのではと心配したが、クスハが大丈夫だと諭した。妙に自信のある言い切りの根拠を訊ねたかったが、それは落ち着いてからすればいい。そう考えて足を走らせた。

 それに何故だか不思議と、もう怖くはなかった。彼女もそれは同じなのか、怯えた様子もなくシフォンの裾をたくし上げて懸命に走っていた。

 繋いだ手の温度が、心強い。

 そうして二人はしばらく森を行き、かつては人が住んでいたであろう痕跡が残る古めかしい小屋に辿り着くのだった。

 何故こんな森の奥深くに人の痕跡があるのか怪しんでいる暇はなかった。灯が燈っておらず、ひび割れた小窓に蔦が蔓延る外壁、人が居ないことを物語るその場所は身を隠すにはちょうど良かった。

 軋むドアを開ける手に、迷いはなかった。


 ◇◆◇


 その小屋の胡散臭さは最早童話レベルの代物で、そのままポンと出て来た様にすら感じられた。外装だけでなく中も同様で、それでいてケヴィンには何処かで見た様な光景だった。埃塗れのテーブルの上を手探ると、ランプがある。蝋燭へ火を点すと、部屋が仄明るくなり先へ踏み行ったクスハの姿が見えた。

「おい、あんまり無用心に触らない方がいいぜ。……見たところかなり長いこと使われてない様ではあるけど」

 声を掛けるが、クスハの返事はない。

 ぐるり見渡してみるが、人が一人ようやく住むことが出来るだろうか、といった狭さだ。

 キッチンなどなく、恐らく火を焚くことや水仕事に関しては外でのみだったのが窺えた。入り口側のロッキングチェアには黒いローブが掛けられ、分厚い書物が何冊も積んであった。テーブルの上を見ても何のために使うやら知れない瓶や道具がお世辞にも整頓しているとは言えない状態で並んでいる。

「……そうか、親父と同じ系統の人間」

 拭えない既視感の正体がそこでケヴィンにはピンと来た。

 父親の書斎と空気感が似ているのだった。特に、胡散臭さにおいて。

 ケヴィンの予想が正しければ、この小屋の持ち主は錬金術や魔術といった類の分野に精通している。試しに、ロッキングチェアの上の一冊の埃を指で拭う。曇りガラスをなぞる様な跡が生まれ、その下に「観測記述・星周り」とあった。箔押しの文字はところどころ剥げ落ちていた。なるほど、知識のないケヴィンにはどういった代物か分からない。思い切って開いて分かったのは、夜の星模様の観測記録だということだが数十年前のそんな観測記述がどんな方法でどう役に立つのかはまるで想像が出来なかった。

 元の通り本を閉じたところでケヴィンは気づく。あまりにも静かすぎる。

 彼女のことが気掛かりになってランプを片手に、奥まった部屋を進む。

 ――と、部屋はすぐに行き止まり、慌てる足元の開いた穴にうっかり片足を踏み入れそうになった。

「うわッ、――っぶないなァ、……クスハ? 居るのか?」

 よくよく見れば、それは穴というより地下室の入り口の様だった。上蓋にしていたのは絨毯だったらしい、幾何学模様の厚手の絨毯の端がべろりと捲り上げられており、浅くはあるが梯子がしっかりと掛けてあった。

 ケヴィンはランプの灯を床下へ向け、試しに顔だけを穴へ突っ込んでみる。

「きゃあッ……!」

 今度はクスハが叫ぶ番だった。ケヴィンの声に振り返ったところ、生首の様に天井からぶら下がる彼の顔が眼前へ迫っていたのだ。

鼻先一寸の距離に息を飲み互いが顔を背けてしばらく、居心地の悪い間が流れた。

「ご、ごめんなさい……声がしたからつい……」

 クスハの声は意外に笑いを含むものだった。ホッとケヴィンが胸を撫で下ろしたところで堪えられなかったのかくすくすと愛らしい笑い声が聞こえた。ランプを地下の床へ下ろし、降りて梯子へ腰掛けて見ると、奥は壁並びの本棚の間に急拵えなのか横板を渡しただけの簡素な机があるだけの造りで、少女一人が半腰ようやく納まる狭さだった。

「狭いな、すごく居心地良さそうだけど。よく見つけたね」

「はじめから絨毯が捲れてました。きっとここで、独りで集中しながら研究に篭っていたのでしょうね。何だかすてき」

 気がかなり解れたのか饒舌になるクスハは表情も柔らかく、ケヴィンもつられて頬が緩む。ようやく、互いに落ち着いて話が出来そうだった。

「なあクスハ、聞きたいことが山ほどあるんだけどさ。……とりあえず、今順序を追って一番重要なのは夜を明かしてその先どうするかってことだと思うんだ。関所がある以上、人に会わずに国を抜けられるとは思えない。何か、アテがあるのか?」

「リュシヲン公国との国交が、長い歴史を遡って兄弟国と呼べるほど親しいものであるのは、きっとケヴィンも知っていることだと思います。わたしは昔、大公がお見えになった時にお会いしたことがありました。わざわざ、塔まで足を運んでいただいたところや、民衆には言わない妾腹の子の存在を知らせていたことを思うと大公は父王ととても仲が良かったのではないでしょうか。……関所の管理はリュシヲンに委ねられていると聞いたことがあります。わたしには身分を証明出来る物はこの腕輪一つですが、これを見せればあるいは、と」

 とつとつと語る言葉はケヴィンが思うよりかは具体的であり感心したものの、疑問点がいくつか残るものだった。

 ケヴィンはクスハの細腕には余る金細工の厚い腕輪に視線をやる。ベリルの様な翠色の宝石が大きく嵌っており、高価なものであることは見て知れる。

「その腕輪、きっと国章が刻まれてるんだろうけど、盗品だと思われるのが関の山なんじゃないかな」

 王家の人間がたった独りで関所へ丸腰でやって来るなどというのは誰であれ訝しむだろう。ケヴィンが小さく息を零すと、クスハも目に見えて肩を落とした。

 それを見てハッとしたケヴィンが慌てて取り成す。

「いやさ、もしかしたらとは思うぜ。だけど町で聞くにはもう半年もリュシヲンとの間で流通が途絶えて関所を閉めてるそうだ。オレも田舎出だから知ったばかりだけど、あからさまに怪しいだろ。そこへ加えて明朝、騎士団がリュシヲンに向けて騎行するのはどうしてだ?」

 ケヴィンとしても自分の中の情報と照らし合わせて推測しなければならなかった。現状揃っているのはどれも不確定で曖昧な情報しかない。言葉に出しながら、懸命にない頭を使って考えているのだ。彼女の無鉄砲さを責めるつもりはないと伝えたかった。

「……きみも言ってたけれど、嫌な予感しかしないんだよ。オレが思うのは、国境の壁を登る無茶を試すか、………」

 言葉の歯切れが悪くなる。口に出すのを躊躇うからだったが、クスハの真っ直ぐな視線がケヴィンを捉えて離さない。

「……試すか?」

「…………騎士団が関所を通過するのを待って様子見するか」

 ピリリとした緊張感が場を走った気がした。

「も、もしかしたらクスハの手配を伝えに回るのかも知れない。そうしたら向かう先で逆にサクッとリュシヲンの大公に会えるかも知れないぜ。何せ友人の娘だろ、きっとその目で確かめたがる。そのままひっ捕らえて本国に、とは行かない。……多分」

 語尾の危うさが、本音の不安をよく表していた。

 クスハは口許へ指を当てながら視線を床へ落とし、じっと熟考している。

 先程、森の入り口の方角で見えたカンテラの灯と甲冑の音の正体もまだ分からないままだ。町でクスハの姿を捉えた目撃者が居て、捜索隊が来たのだとしたら。

 不安に耐えられなくなったケヴィンは、ランプの灯を吹き消した。辺りはたちまち闇に包まれ、互いの顔一つ見られなくなる。

「悪い、どうしても、いい兆しを思い付かなくて」

 暗闇の中でクスハがどんな顔をしているのかが分からなくて、ケヴィンは謝った。もっと不安なのは彼女であろうに、と苛立ちも混じる。だが、今この場所を気取られてしまうのが一番恐ろしく、望まないことなのだ。

 手探りに、彼女の居る方へと手を伸ばす。瞬きを繰り返すことで少しずつ闇に慣れて行く目でクスハの手を探って上から握った。

「わたし、少しだけだけれど良かったって今、思いました」

「……何を?」

「ずっと十年間、わたしの生活はあの塔の中だけ。窓の外の世界は、動く絵と同じで触れることも、歩くこともままならなかったんだもの。もし、今捕まってしまったとしても、あのまま一歩も外を知らないままでいるより今のわたしはしあわせなのかも知れない」

 ひどく穏やかな声は、甘やかに最悪の事態さえ受け入れる覚悟を伝える。そんなことにケヴィンの背は震えた。自分より年少に見える少女のはずが、言葉が些か重い。

「……独りじゃないって、こんなにすてきなことなのね」

 緩く握り返される手が、震えていた。涙を堪える様な気配がして、ケヴィンは抱き締めるべきだと感じたが奥手な彼女を思えば、この繋いだ手が今の最大だとも思い沈黙を守った。

 何としても彼女を助けてやりたい、そう決意を新たにする。その心は、少し恋情に似ているかも知れない、そう漠然とケヴィンは思う。

「あなたが森から出て来た時、とても怖かった。血の匂いと、生身の剣を手にしてすごい形相していたから」

「……ああ、森に入ってすぐ野狐に目をつけられてて……何だか昼からやけに動物の気が昂ぶってるみたいで避けようがなかった。言っとくけど、こんな破目になったの、初めてでオレも動揺してた」

 手の震えの落ち着く頃、クスハは怒るでもなく話した。それによって、ケヴィンはすっかり頭から抜け落ちていた大事な疑問を思い出す。

「なあ、そう言えばオレが追いつくまで結構な時間が経っていたと思うんだけど、なんで無事で居られたんだ? 泉でもあれだけの獣に囲まれていて、何で咄嗟にあいつらの意図が分かったんだ?」

「それは……わたしにも分かりません。森へ入った時に気配はありましたけど、あくまで様子見をしている様な感じで、あの泉であなたが来るまでにわたしは一度も彼らの姿を見ることはありませんでした。……あの時、『感じた』って言いましたけど、本当は正直に言うと『聞こえた』様な気がしたんです」

「………動物の声が?」

 目が慣れてきたとはいえ月の光の遠い暗闇の中、クスハがどんな表情でいるのかは分からない。が、信じてもらえるかどうか不安がっているのが窺える。ケヴィンは頬を掻いた。

「正直、オレはそういうのを易々と信じられない質なんだが――つまりはあの時、警戒されてたのはオレだけということかな」

「ええ……。仲間の血の匂いを纏っていて、刃物と火を翳す人間を怖い、許せない、そういう感情の様なものだけを感じた気がします」

「……この先オレがきみの傍に居ることで余計なことに巻き込まなきゃいいけど」

 少しばかり、そこが気掛かりになっていた。何せウルヴァリの山中でも同じ様に目をつけられていたのだから。

「それにしたってきみは不思議が多いな、クスハ。出逢った時もそうだった、きみは物理的にはあり得ない状況で現れた。それこそ、『風の様に』ひらりとさ」

「………え?」

「………うん?」

 そうだそうだ更に思い出した、と逆順辿って邂逅の疑問を口にしたところ、意外すぎるほどに間の抜けた声が返った。

「ああ……わたし町の宿で目が覚めるまでの記憶が曖昧で。塔の外へ出るなんてほとんど許されたことがなかったから、塔の外にどうやって出たのか、どのぐらい時間が経ったのか全く分からないままこんなことになってしまって…。山は……塔から見える裏山ですよね、どうしてそんな場所に居たんでしょう……」

「そういうことか。分からないことだらけだけど、クスハにも分からないんなら仕方がない。……疲れただろ、もう休みなよ。万が一人が来てもオレだけなら言い逃れが利く。何かあったら、声を掛けて」

 外出をまともにして来なかったのであれば、クスハの体力はかなり消耗が激しいと踏んだケヴィンは、彼女の頭をくしゃりと撫でて立ち上がる。すぐ傍で戸惑う様な呼気を感じたが、構わずランプを引き上げ梯子を上がった。

「あの、ケヴィン」

「どうした?」

「………おやすみなさい」

「ゆっくりおやすみ」

 そんなやり取りの後、ケヴィンは捲れた絨毯を元へ戻す。とりあえずは深入りされなければケヴィン一人小屋をたまのねぐらにしているという言い訳が出来るだろう。そう考えると、ケヴィンにも少しだけ心の余裕が戻った。改めてランプへ火を灯すと、テーブルの上へ据え置いて本棚から一冊一冊を抜き出して何か資料になるものがないか探った。

 関所の先、リュシヲン公国の領土をケヴィンは大まかにしか知らない。それは恐らくクスハも同じであろう。見ず知らずの土地を、追われる身で彷徨うのは自殺行為だ。一つでも多く手元へ情報を集めて、効率よく迅速に、なるべく最短距離で首都・リュシヲンへと向かわなければならない。そう、ひしと感じていた。

 空が白む時刻まで調べ物は続き、ケヴィンはそのままテーブルへ突っ伏したまま朝を迎えることになった。

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