7

 九月になっても、特進コースの授業はうまくいかなかった。わたしが反復によって身につけた解法へのプロセスを、生徒たちは思うように吸収してくれない。それでも、少しずつ成績は向上した。宮田先生は、「すべてを求めるのは酷なことよ」と言った。それでも、その当の宮田先生のクラスの生徒たちは順調に成績を伸ばしていく。全校舎における順位でも宮田先生のクラスは上位に位置し、わたしのクラスは中の下に入るのがせいぜいといったところだ。わたしの情熱は宙に浮き外へと消えてゆき、宮田先生の経験は地に吸収され確かな養分となる。実らせることのできない自己嫌悪は日を重ねるごとに成長し、焦燥を糧にして無限に大きくなっていく。


 この頃になって、夏海が出て行ったのは正解だと思うようになった。こんなに惨めなわたしを、夏海には見せたくなかった。


 特進コースの授業が終わり家にたどり着く頃、夏海からは見計らったようにメールが届く。


 ――だいじょうぶですか? がんばれていますか?


 わたしはいつも、今日は生徒の反応が良かっただとか、全校共通の模試で良い点数を取ってくれたとか、実態とはだいぶ違う内容を返す。


 夏海からは、大抵最後に、


 ――よかった


 と返ってきた。


 なぜかメールでなら、わたしは自分を取り繕うことができた。




 九月にしては肌寒い土曜日の夕方、わたしは明日使うテキストの中から早慶へとつながるパターンの洗い出しを続けていた。消しては書き、消しては書きを繰り返し、机の上には消しゴムのカスが溜まっている。それを捨てようと視線を動かしたとき、夏海が置いたままにしている化粧品が目に映った。わたしはいつもここに座って、隣で化粧をする夏海の姿を見続けていた。


「反復が刷り込まれ、根づけば、それは当たり前になる」


 以前宮田先生に言われ、それ以来わたしの新たな礎となったことばを、口ずさむ。わたしはクローゼットを開け、夏海が残した服を確認した。ゆったり目のチャコールブラウンのワンピース。背の高さは違うとはいえ、もしかしたらわたしにも着られるかもしれない。


 わたしはそれから、夏海が眉毛を抜くときに使っているピンセットを使って、髭を一本ずつ丁寧に抜いていった。痛みは徐々に慣れた。全てを抜き終えてから、眉毛も整える。頭の中には、いつも夏海がおこなっていたメイクまでの手順がありありと思い描かれていた。朝起きてからすぐにシャワーを浴びていたけれど、半ば儀式のようにわたしはもう一度シャワーを浴びた。身体を綺麗に洗う。全てを落としきるように、念入りに洗う。身体を拭くと、基礎化粧品を顔につけてから、髪の毛を半乾きの状態まで乾かした。わたしの髪の毛はちょうど首筋くらいまでの長さがある。スタイルによっては女性のような髪型まで持っていくことも可能かもしれない。夏海の下着とタイツを履き、ブラジャーをしてから、中にくしゃくしゃに丸めたティッシュを申し訳ない程度に詰めた。少し余裕があったので、ストラップを限界まで短くした。最後にワンピースを着る。その姿を、衣装鏡で確認した。ワンピースの丈は少し短いかもしれないけれど、背の高い女性ならこれくらいになることもある。わたしはテーブルへ行きいつも夏海が座っていたところに腰掛けると、折りたたまれていた鏡を目の前に置き、メイクを始めた。シーラボの下地を顔全体になじませてから、リキッドファンデを薄く引き、パフでなじませる。わたしの目は夏海と違って大きく二重なのでアイラインは薄めに入れた。アイシャドウはまぶたと同じくらいにし、濃くなりすぎないように気をつける。チークは頰からこめかみに向けて目立たないようにのせた。フェイスパイダーを顔全体にはたいたあと、淡めでオレンジ色に近い口紅を塗り、眉をアイブロウで整える。マスカラは失敗するのが怖くてやめた。すべて、夏海のやり方だった。鏡の前に立ち、もう一度自分の姿を確認する。正直、女性に見えるかどうかは、わからない。それでも夏海のメイクを見続けたおかげかそれなりのものに仕上がっている気がした。流石に髪型のスタイリングまでは覚えていなかったので、インターネットでカールアイロンの使い方を調べたあと、ゆっくりと丁寧に髪の毛を巻いていく。できるだけ輪郭を隠せるように、内巻きにふわっとした形に仕上げる。髪型とメイクの出来を再三確認した後、最後にヘアスプレーを髪の毛全体に吹き付けた。


 鼓動が高鳴る。視線を下げ、衣装鏡の前に立ち、足の先から少しずつわたしという存在を確かめていく。胸の膨らみに違和感はないはずだ。身体の凹凸はワンピースにうまく隠されている。元来細身だけれどそこまで肉付きが悪いわけではないのも、功を奏していた。何より、今までずっと身近に感じていた夏海という女性のおかげで、わたしはわたしの姿を女性たらしめることができたのだ。最後に唇を見てから、ゆっくりと、鏡に映る自身の目を見つめた。微笑んでみる。できるだけ、自然なように。


 自信はない。それでも、今までひたすらに焦がれ続けていた本当のわたしの姿が、そこには映っていた。成長というものを飛び越えて突然目の前に現れた二十一の女。初潮も迎えず、母から女性としての嗜みも与えられず、高校で化粧品や男の話にうつつを抜かすこともなく、大学でファッションと本格的なメイクを自然と学ぶこともなく、あと一年も経たず、わたしは社会人となる。


 残念ながらバッグは女性用のものがなかったので、夏海と買ったわたし用のメンズのポシェットからできるだけユニセックスに見えるものを選んで財布と携帯を入れた(クローゼットの中にわたし用のバッグが少なくとも四つはあることに気づき、今更ながら驚いた)。玄関へ行き、夏海が予備として置いていったパンプスを恐る恐る身につけた。夏海は身長のわりに足が大きい。わたしとはワンサイズとちょっと違うけれど、無理をすれば履くことができた。いつか夏海が「足の幅が広いから大きめなのを買わないと足が痛くなるの」と言っていたのを思い出す。世の中の全ての事象が、今はわたしの味方をしている感覚があった。


 携帯を取り出して時刻を確認する。十八時を少し回った頃だ。わたしは大きく二回深呼吸をしてから、玄関のドアを開けた。まだ夏の終わりには早い気がするけれど、今日は気温のせいか秋を感じる。残暑の終わり頃、焼けたアスファルトや乾いた土埃りの匂いはなりをひそめ、本格的な秋の始まりまでははっきりそれと分かる匂いのなくなる頃合いが、わたしは好きだ。わたしは外の世界へ踏み出した。パンプスはロウヒールだったけれど、思っていたより歩きにくい。はやる心を抑えながら、わたしは駅に向かってゆっくりと歩いた。見慣れて擦り切れた景色が鮮やかな色彩を持ってわたしの目に映り、過ぎ去っていく。


 衝動的な行動なので、漫然として行く場所も曖昧だ。ただもしできるのなら、何か一つ、夏海が所有する女性物で満ちたわたしの部屋にわたしという女性が買った何かを、置きたかった。


 生田駅をPASMOで通過し小田原方面行きのホームへ向かう。階段を登る時、自然と慎重になる。ワンピースは膝上少しくらいの長さで心許なかった。電車に乗ると、わたしはいつものように、空いていた端の席に座った。つい、女性の姿を追ってしまう。わたしは女性として不自然ではないか疑心暗鬼になる。女性の行動をつぶさに追って、わたしもそれに倣う。わざとらしくならないように細心の注意を払う。町田駅に着くと、わたしは他の乗客と同じように下車してホームを通り、横浜線の方へ向かった。夏海と、夏海の服を買いに行くために通ったマルイまで行ってみようと、今この時わたしは決めた。先ほどまでとは格段に増えた人の量に圧倒される。土曜日ということもあって若い人が多い。マルイに着くまでの間、それこそ数えきれないほどの人とすれ違ったけれど、誰一人としてわたしには見向きもしなかった。こんなに苦しんで、苦しみ抜いて、わたしの希望を打ち砕くような行為に及んでまでして成し遂げた不安定な歩みは、結局のところわたしひとりの問題だったのだ。わたしの目の前を歩く人たちは、当然のことながらわたしのことなんか知りもしないし、興味もない。そう実感した時、張り詰めていた緊張の糸がぷつんと切れた。


 マルイにある、もう何回も夏海と来た夏海のお気に入りのお店へと入る。最後にきたのはわずか二週間前だ。夏海はこのお店も含めてたっぷり二時間ほどウィンドウショッピングを続けて、それでやっとここでスカートを買った。わたしは夏海と付き合ううちに、わたしの中で夢想し続けていた架空のわたしの女性像に、夏海の趣味が混ざっていくのを感じていた。長い長いウィンドウショッピングの中で、わたしは夏海の「これどうかな?」という共感に自分のことばで答えながら、わたし自身が似合いそうな服もまた、探していた。このお店はきれいめ系に入り、夏海の選んだスカートの隣に並んでいたチェック柄でミモレ丈のフレアスカートに一目惚れしていた。同じものは、まだハンガーで陳列されていた。わたしはそれを手に取ると、鏡の前でかざしてみた。


「お客様、背が高くて細いので、とても似合うと思いますよ!」と小さな店員さんが話しかけてくる。


 わたしは声を出そうとして、躊躇した。地声は低い方ではないけれど、完全に男のそれだと思っている。でも勇気をだして「トップスに悩んでまして」と言った。


「それなら」と店員さんは声をキラキラさせながらトップスのコーナーへ小走りに向かい、一つ選んで戻ってきた。「これなんてどうですか? V字ネックでゆったりめのニットです。厚めの生地なので、十月くらいまでは秋コートを着れば過ごせると思います!」


 わたしはニットを受け取ると、スカートと重ねて鏡を見る。悪くない感じだ。


「ご試着されますか?」


「……はい」


 高めの声を心がける。どうやら店員さんは怪しんでいないようで、わたしはふーっと息を吐いた。案外なんとかなるのかもしれないと、楽観する。店員さんにはわたしが一人の大人の女性として映っているのだと思うと、今まで感じたことのない静謐さを伴った幸福感がわたしを支配していった。


 試着が終わりカーテンを開けると、目の前に店員さんがいた。


「やっぱり! 背が高い人が着るとそのトップス、フェミニンに見えるんですよねえ。私みたいなちっちゃい人が着ると、逆にカワイイ系になっちゃって、私フェミニンな方が好きだから、困っちゃうんですよお」店員さんはどこまでも元気だ。


「わたしが、フェミニン系?」


「はい! 背が高い人って、だいたい何でも似合うんですよねえ。でもお客様、今はワンピースですけど、ボーイッシュなのもすっごく似合うと思うんです。背丈があってボーイッシュな人って、きれいめ系を着ると途端にフェミニンさがムンムン出てくるからほんと羨ましいです」


「えっと、その、ありがとうございます」


「いえいえ!」と言って店員さんは微笑んだ。


 たとえそれが営業スマイルだったとしても、うれしかった。わたしはニットとフレアスカートの二着を購入して、マルイを後にした。帰り道はもう大胆だった。俯いていた視線は前を向き、帰路を急ぐ人々も当たり前な存在としてわたしの目に映る。


 生田駅からの帰路の間、わたしはひたすらに泳ぐ雲を見つめていた。月は出ていない。あれは、夏の雲だ。明日からはまた暑くなるかもしれない。わたしは元来暑がりだ。今度は七分丈くらいの薄めのブラウスも買いに行こうと思った。




 乖離していた身体とこころが合一する充足感は、わたしの中で徐々に大きくなっていく。それと同時に、頭の奥底に仕舞い込んでいた(仕舞い込んだと信じていた)女性にもどらなければいけないという焦燥と衝動もまた、わたしの表層へと姿をあらわしてわたしの意思とはほとんど関係ないものとして昂然と荒ぶるようになった。


 アルバイトのない火曜日と土曜日は、女性の服装で外出することが多くなった。新宿や渋谷に原宿、時にはディズニーランドへ行った。夏海と一緒に行った場所にはおよそ全て、ひとりで行った。夏海との思い出を上書きしたいわけじゃない。ただ、その思い出とともに女性のわたしもまたそれらを楽しんだのだという事実を、共存させたかった。必然、夏海と会う回数は減った。夏海には特進コースの準備に今は力を入れたいからと説明し続ける。とはいえわたしも夏海には会いたいし、セックスもしたい。わたしの身体のことと夏海との関係は相反するのだとわかっていながら、それでもその二つを同時に成立させられることができたならという仮定を、わたしは諦められない。


 夏海がわたしの家を訪ねる前には、購入した衣類やパンプス・ハンドバッグなどの全てを段ボールに丁寧に入れて、クローゼットの片隅へ置く。そうして迎え入れた夏海とソファで話をし、一緒にご飯を食べに出かけ、最後にセックスをして寝る。綱渡りだと自覚しながら、わたしはわたし自身が感じるこの幸福感から抜け出せない。抜け出したくなくなかった。

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