6

 家の中に、少しずつ夏海の物が増えていった。


 泊まる時のためにパジャマと下着が置かれ、替えの服も何着かクローゼットにかけられる。歯ブラシやコップなどの生活用品も二セットずつになり、トイレには生理用のナプキンが常備されるようになった。幸いにお金はあったのでソファをゆったりとしたものに買い直し、夏海が家にひとりでいる時(この頃には夏海に合鍵を渡していた)寂しいと言うのでテレビも買った。いつの間にかローテーブルに夏海のスペースができ、メイク道具や基礎化粧品などがそこを陣取る。


 そして、わたしの物もまた増えていった。夏海と一緒に買った私服はワイシャツの数より多くなり、靴も服に合うようにと数足が玄関に置かれる。二人で写ったディズニーランドでの写真が本棚に飾られ、二人で買った雑貨が部屋を彩った。




 年を越えて二〇〇八年の春頃には、ほとんど同棲のような形になった。夏海は毎日わたしの家に泊まり、わたしの家へと帰ってくる。たまに友達が遊びにくるからと向こうのアパートへ行くこともあったけれど、それも多くて週に一日くらいで、その回数は徐々に減っていた。


 夏海は夜なかなか寝付けない日が多い。ほとんど、夜を怖がっていると言っても良かった。札幌にいた頃、夏海の母親は夜の仕事をしていて、だから夜はいつもひとりだったと、いつか夏海から聞いた。眠れない夜、夏海はわたしのいるいないに関わらず、ひたすらにひとり静かな涙を流している。感情は伝染し、自然わたしも落ち着かなくなるので、夏海が寝付くまでわたしが今隣で寝ているから大丈夫だと伝え続ける。


「何か、お話をして欲しいの。なんでも良いから。あなたを知れれば、なんでも良いから」と夜、夏海が言ったことがある。


「ぼくの話なんて、つまらないよ」


「つまらなくても良いの。ただ、あなたの声がわたしに届いていれば、それで良いの」


 先ほどのことばと違うことについては、指摘しなかった。わたしはそれから、夏海が眠るまで一方的に話し続けることが日課になった。それは一時間で終わることもあったし、途中無言を挟みながら二時間以上続くこともあった。わたしの帰宅は二十三時を越えるのが普通のため、睡眠時間が減ることは正直言って、厳しい。それでも、朝先に起きた時横で寝息を立てている夏海の寝顔を見ると、わたしのしていることに意味はあるのだと思えてくる。共依存に堕ちている感覚はあった。でも、それが悪いものだとは思わなかった。むしろ心地よささえ感じていた。




 夏海は朝起きると、シャワーを浴びる。反対に、夜は寝るだけだ。わたしもそれに合わせるようになった。それから簡単な朝食を二人で取り、夏海は三十分ほどかけてメイクをする。わたしはその姿をいつも隣で眺めていた。


「そんなに面白いことでもないでしょう?」とある日夏海が言った。


「なつみはメイクするの、好き?」


「好きか嫌いかで言えば、好きよ」と言いながら、夏海は笑う。


「でも、毎日三十分も時間を使うのは大変じゃない?」


「習慣は私を怠けさせるの。それでも習慣だから、いつも同じものが出来上がるの。だから、大変じゃないわ。この三十分はいつも存在しているからぱったりなくなってしまった方が私は大変になると思うわ」


「そういうものかな?」


「そういうものなの」と夏海は締めくくった。


 メイクをし終えると、夏海は髪のセッティングに取り掛かる。アイロンでカールさせたり、逆にストレートにしたり。それから、ワックスで髪の毛を整える。ワックスも何種類かあって、夏海の髪型の種類は本当に多様だった。それら全てが夏海には本当によく似合っていて、つくづく自分の身体のことをよく理解しているのだなと思った。最後にやっと、服を選ぶ。


 夏海が朝の支度をする手順がひどく奇妙に見えて、わたしは一度それを夏海に尋ねてみたことがある。


「メイクをしていると、その日の気分とか体調とかでぼんやりとこんな感じかなあっていうのが浮かんでくるの。それに合わせて髪型を決めて、全体をしっかりと見てから、メイクと髪型に合う服を決めるの」


「女の子って、そういうものなの?」


「人によると思うわ。ふうかは前、一週間の天気を見て着る服を一週間分全部日曜日にコーディネートするって言ってた。適当な人はもっと適当だと思うわ」


「人それぞれってわけか」


「そりゃ、人なんだもの」と夏海が不思議そうな顔をしながら言った。


 夏海と暮らし始めて半年近く経ち、わたしは自身の中で女性というものを規定しすぎていたことに気が付いた。届かないと思っていたそれを、わたしはいつのまにか偶像として形式化していた。それは、男性が考える女性像と一体何が違うというのだろうか。わたしは実際の生活を行う女性というものを、まるで知らなかった。それでいて、わたしのこころは自身が男性として規定され得ないのだ明確に訴えてくる。実体感として男を嫌悪し、実体感として女を感じられないわたしは、一体何者なんだろうか。嘘で塗り固められた身体のくせにそれを引き剥がしてもまた、その中には嘘しか潜んでいないのだ。それでもやはりわたしは夏海のことが好きで、夏海とのあたたかい未来を望んでいる。夏海は、あやうい。こころと身体の均衡が保てていない。それはわたしも同じだけれど、彼女はおそらく、それを実感していない。わたしは彼女を支えるために、そして自分を支えるために、嘘の上にさらに嘘を重ねた。




 四月になると、特進コースの授業が始まった。半同棲になってからは夏海も落ち着いていたので、わたしが塾の講師としてひとつの到達点である特進コースを担当することには夏海からの了解も得ていた。


 教室に入った時、まずその雰囲気に圧倒された。わたしが普段担当している授業とは違い、生徒の期待と不安に満ちた意志みたいなものが部屋中に満ちていて、一種独特の様相だった。ふざけている生徒はおらず、私語を話している生徒もいない。全員が全員、テキストに目を通しているか他の教材を使って勉強をしていた。彼ら彼女らの本気に、わたしはしっかりと答えてあげなければならない。


 生徒たちは、わたしが一を言えば十で答えた。テキストは漏れなく予習されているし、わたしがホワイトボードに書くことはわたしのことばと合わせて噛み砕かれ、生徒たちのノートへと吸収されていく。授業が後半へ向かうに従って、わたしは生徒たちにとって邪魔なのではないかという疑念に支配されていった。


 わたしの担当は後コマだったので、授業が終わると彼ら彼女らはそれぞれすぐに片付けをし、あっという間に教室から立ち去った。わたしはひとり教室に取り残される。放心状態で教室を片付けると、職員室へと戻った。


「お疲れさま」と宮田先生が言った。


「どうだった?」


「落ち込みました」わたしは正直に告げる。


「具体的には?」


「あの子たちには、もう導く要素がないように思います。少なくとも、ぼくにはそれが見えないです。宮田先生には見えていそうなものが、ぼくには、見えません」


「私に見えているもの?」


「彼ら彼女らに足りていない要素みたいなもの、です」


「それが、私には見えている?」


「はい」


 宮田先生は「そうねえ……」と言って、わたしが担当している生徒の今までの成績を眺める。それから、宮田先生が担当している生徒の成績もさっと見た。


「私はもう、五年くらい、早慶の特進コースを担当しているの。だから経験でわかるんだけど、私が担当している子も含めたこの子たちは、これから独学で勉強したとして早慶の付属に合格するのは、そうねえ、十パーセント弱と言ったところかしら? でもね、私が担当すれば、それを五十パーセントくらいまでは引き上げられると思うわ。それは、合田先生にも可能だと思ってる。じゃあこの子たちに足りないもので、私たちが充足させてあげられるものは、一体なんだと思う?」


「得手・不得手の指摘、ですか?」


「なるほど、認識の違いはそこね」と宮田先生はわざとらしく手を打って言った。


 わたしはその所作に、正直イラっときた。宮田先生の大人風はもうたくさんだと思った。でも、わたしはそれが顔に出ないよう、努めて冷静に、それでいて深刻そうに振る舞う。


「たとえば合田先生は、早慶付属の過去問を自分で解いて、合格点を取る自信はある?」


「はい」とわたしは即答した。


「満点くらい?」


「それに近いくらいは」


「そうよね。私もそうだわ。でも、特進コースの生徒たちは違う。得手を伸ばし、不得手を理解してもらう。そうやって導けるのは、ある程度の学力までなんだわ。あの子たちにはもう基礎がある。応用もそれなりにこなせる。それでも、足りないの。これはね、私の先輩講師の受け売りなんだけど」と宮田先生は言って、一度息を吐いた。


 空気が変わった気がした。


「私たちは特進コースの生徒に、反復を刷り込むの。それも、難度の高い反復よ。導くんじゃないの。覚えこませるのよ。パターンを全部ね。私たちは、もうそれが普通になってる。つまるところ、私たちが当たり前にできることを、その思考を、その場その場で丁寧に丁寧に紐解いて、生徒に分け与えるのよ。それを続けるうちに、生徒たちには道が見えてくる。勉強は思考だから、職人みたいに見て覚えろができないのが辛いところよね。でも根気よく続ければ、生徒たちには絶対に根付いて、身に付いていくの。そして、それが当たり前になっていくの」


 わたしは愕然としていた。導くなんていうのは思い上がりも甚だしいものなのだと、わたしの中に突き刺さる。わたしの塾講師としての核のような芯のようなものが、もろく崩れ落ちていく。


「だいじょうぶ。あなたなら、できるわ」と宮田先生は微笑みながら言った。


 わたしは、今まで以上に宮田先生を遠く感じた。この人に追いつくことができるのだろうか。そしてこんなことさえ考え至らなかったわたしが生徒たちに教鞭を振るう資格があるのだろうか。それでも、自分を規定できるただひとつの生き方をわたしは手放したくなかった。


「がんばります」とわたしは努めて明るく言った。


「気負いすぎないようにね。最初から完璧にやり遂げられる人なんて、世の中にはほんの一握りしかいないわ」


「一握りはいるんですね」


「その一握りが世界を変えるのよ。きっと。凡人は凡人なりに足掻くしかないの。私も、あなたも」


 自分のことを凡人だと言い切った宮田先生のことを、わたしはカッコいいなと思った。相変わらず達観した物言いだったけれど、なぜかこの時は素直に宮田先生のことばを受け入れられていた。




 当たり前だけれど現実は現実で、わたしは宮田先生にはなれない。わたしは泥臭く足掻くしかない。


 特進コースの開講から二ヶ月が経った頃には宮田先生の担当クラスとわたしの担当クラスの間には少しずつ成績に差が現れ始めた。それは生徒のモチベーションにも直結していて、結果としてわたしのクラスは冷静さを失っていった。それは声でもなく態度でもなく、ただ雰囲気として感じ取られた。わたしは大学の講義もほとんど無視するような形で、次の授業のための準備に没頭し始めた。過去問の解法プロセスの検証をひたすらに行い、それらと特進コースの標準テキストとの整合性を、何度も何度も確かめる。何をどう反復させれば、それを定着させられれば、成績を伸ばすことができるのか、それだけに集中する。帰宅する時間は必然、遅くなった。零時を回ることも珍しくなくなる。鍵を回しドアを静かに開けると、部屋は暗い。寝ている夏海を起こさないよう電気はつけずに目が慣れるのを待ってから洗面室へ行き、服を脱ぎ捨て、スウェットに着替えるとベッドに潜り込む。夏海がまだ寝付いていなかった時は、いつものように一方的な話を続ける。わたしの中には夏海という存在と塾講師という意義が確かにあって、それ以外はほとんどどうでも良いもののように感じられた。


 六月上旬の金曜日の夜、校舎を出ると雨が降っていた。梅雨時のあの体にへばりつくような煩わしい雨ではなく、冷たい雨だった。勢いは緩やかで、街灯に照らされた雨粒が放射線を描くのがよくわかる。夜の雨は生気を吸い取っているようで気持ち悪い。わたしは居心地悪く電車に乗り、そのまま家へと帰った。


 ドアを開ける前に、まだ電気がついていることに気がつく。 携帯で時刻を確かめると、零時半過ぎだった。この時間まで夏海が起きているのは珍しかった。わたしはドアを開け、「ただいま」と言って靴を脱ぐ。反応はなかった。そのままいつものようにスウェットに着替え部屋へ行くと、夏海がソファに座って毛布に包まっていた。その時初めて、部屋が異様に寒いことに気がつく。


「夏海?」と声をかけるけれど、やはり反応はない。


 わたしはほとんど衝動的に夏海の毛布を引き剥がした。それから冷房を消し、窓を開け放つ。冷たい雨も、部屋の中よりは暖かかった。


「裕也さん?」と夏海が言った。


「ぼくだよ」


「よかった。帰ってきた」と言ったきり、夏海はおよそ初めて声を出しながら泣いた。


 わたしが抱きしめようとすると、夏海はそれを拒絶した。とても強い力で、わたしの腕を振りほどいた。塾講師がうまくいっていない中、夏海にまで愛想を尽かされたら、わたしはどうなるんだろうと思うと恐怖で押しつぶされそうになる。せめて他者からの規定がないと、わたしは生きていけない。


 わたしは夏海の横に座った。夏海は相変わらず何も言わない。掌三つ分の距離が、わたしに許された距離だった。夏海は時折鼻をすすり、えずくように声を漏らし、過呼吸になるんじゃないかというくらいに息を吸い込み、溢れ出た涙は彼女の鎖骨あたりまで濡らしていた。夏海はその一切を拭こうともしなかった。少し落ち着いて、またぶり返してを何度も何度も繰り返す。わたしはその度、動悸を抑えるのに必死になる。夏海の感情は読み取れなくても、ほとばしった感情の波自体はわたしを揺さぶり続けた。


 雨はいつの間にか土砂降りになっていた。窓に近づき、だいたい外の気温と同じになっていることを確認して、窓を閉める。途端、雨の音は実体をなくす。


「裕也さんは……」と言って、夏海はこちらを見た。涙と鼻水で汚れきった顔だった。でもなぜか、いつもの夏海よりせいを感じた。「裕也さんは、なんでそんなに全てに全力なんですか?」


「ぼくが、全力?」


「私にも、塾講師のお仕事にも。大学だって、休んでない」


「でも、講義は適当に受けてる。講義中に塾の授業準備だってしてる」


「でもちゃっかり、単位は取っちゃうんです。きっと」


「買いかぶり過ぎだよ」


「それは主観です。私には、そういうのは、難しい。何か一つでいっぱいになっちゃう。私は裕也さんのことで、いっぱいになってる。私は不器用だから」と言ってから、夏海はティッシュを何枚か取って顔を拭いた。「ごめん。顔、ぐちゃぐちゃだった」


 わたしの感情を置き去りにして、夏海は幾分か落ち着いてきたようだった。


「ぼくは、偽物なんだよ。偽物だからせめて、ぼくが大事にしたいって思ったものは精一杯やりきらないと、ぼくには何もなくなっちゃうんだ。他人が認めてくれないと、ぼくはいなくなってしまう。そもそもが、ぼくなんてのがいるのかさえわからないんだ。それが本当に怖い。生徒がぼくのことを信頼してくれるから、ぼくは危うい中でもぼくでいることができた。夏海がぼくを愛してくれたから、ぼくはぼくという存在に自信を持てた。あなたとの将来に、希望が持てた」


 夏海のとなりに座り、カーペットを見つめながら、わたしは語った。声は多分、冷たかった。


「裕也さんは、ここにいます」と夏海が言った。わたしはゆっくりと、夏海の手を握った。


「うん。夏海がいてくれるから、ぼくはここにいる」


「あなたの中に、私はいますか?」と夏海が言った。抑揚のない言い方だった。「私の中は、裕也さんでいっぱいです」


 わたしは、即答できなかった。もちろん、わたしの中には柏木夏海が確固たるものとして存在していたし、それはもう無視できないくらいに大きい。ただ、それを口に出してしまったら、わたしの中の何かに永遠に蓋をした上でこれからを過ごしていくという絶対な覚悟が必要なように思われた。わたしはその先に進む勇気を持てなかった。


「裕也さんが私のことを大事にしてくれてるのはわかってる。ちゃんと、感じてる。同じくらい塾の講師が大事なんだってことも、わかってる。理解してる。頭の中では絶対にそうだって、思ってる。でも、だめなの」


「それは、信じられないってこと?」


「ううん、違うわ。ごめんね、裕也さん。どうしても私は、あなたに父や母を重ねてしまうの。小さい時はあんなに私のことを愛してくれていたのに、二人とも私を見なくなった。二人とも、私から離れていった。だからあなたも、いつか私の前からいなくなって、私の中に消えない楔として残り続けるんだって、思ってしまう。あなたのいないあなたの部屋で、あなたを待つのが、怖い」


 随分な言い方だと思った。なし崩し的に上がり込んだのは、夏海の方だ。わたしのテリトリーに踏み込んで、二人のものとしていったのは、夏海の方だ。でもそれを受け入れたのは、他ならないわたしだった。


 わたしを人ったらしだと言い、やさしさが怖いと言い、わたしを待つのが怖いと言い、わたしに女を見せつけた上で、わたしのことを愛しているという。特進コースの件もあいまってわたしはもうぐちゃぐちゃだった。


「それで夏海は、どうしたいの?」とわたしは突っぱねたように言った。


「私は多分、裕也さんを縛ってる。私、自分の家へ戻るわ」


「それは、別れるってこと?」


「その考え方、裕也さんの良くないところよ。私もそうだから、よくわかる。裕也さんは、物事をゼロかイチかで考えすぎる」


「それは、そうかもしれないけれど……。じゃあ帰るっていうのは?」


「上がり込んで、ごめんなさい。あなたを独り占めにしたかったから。でも、それだと私と裕也さんは、壊れてしまうわ。私もあなたも、少し距離があるくらいが、ちょうどいいと思うの。一度互いに互いの家で過ごして、それでお付き合いを続けませんか? それで、たまに泊まったりするんです。手に入ったものをなくすのが怖くて、私は急ぎすぎてしまったんだわ」


「なつみがそれを望むなら」とわたしは言った。


 夏海との繋がりを切らないで済むのなら、わたしに選択肢はない。正直、夏海が言うほどわたしは器用じゃない。わたしは根本からして、何かを捨てながら生きている。そういう、何かを天秤にかける行為には慣れているし、捨てたことに対する後悔も何かも全部飲み込んだ上で、わたしは多分、今を生き続けることができる。いつだってそうやってきたのだから、当然これからもそうやっていけるはずだ。そうでなくてはならないのだ。


「夜も遅いし、とりあえず今日は、いつも通りに。ぼくは今、ここにいるから」とわたしが言った。


 夏海は赤く腫れた目でありったけの笑みを浮かべ、わたしにキスをした。わたしたちはそのままセックスをした。セックスから始まって数ヶ月に及んだ今ままでと異なった日々はいつのまにか日常となり、それはセックスとともに終わりを告げた。


 ここ最近はセックスの最中、わたしは夏海の女体に自身を重ねている。身体がペニスで夏海の膣を突くとき、わたしのこころは突かれる側のことを想像する。身体は夏海を犯し、身体から切り離されたこころは男性のアイコンに犯される。いつの間にかわたしはそうしてセックスを楽しんでいた。それは夏海に対する明確な裏切りであると理解しながらも、止めることはできなかった。


 夏海はセックスのあと、大抵すぐに眠りにつく。反対に、わたしはセックスのあとは眠れず、眠れたとしてもとても浅い睡眠しかとれない。冴えた頭の中で、隣で寝ている夏海に手を重ねながら、まだ大丈夫と、自分へ言い聞かせる。恋い焦がれる平凡な幸せは着実に近づいているんだと、わたしのこころへ必死に告げる。そうして見る夢の中では、わたしは大抵、顔のない男にむせ返るような愛を浴びながら犯されていた。夢ではわたしの身体は女そのもので、わたしはそのことに全く違和感を覚えず、むしろ自然なものとして、男からの愛に全力で答えるのだった。


 次の日、夏海はある程度の荷物をまとめて、わたしの部屋を出て行った。何も持たずに来ても数日は過ごせる分はわたしの部屋に残った。


「裕也さんがいる日は、いっしょに過ごしたいから」と夏海は言った。


 すでに夏海がこの部屋にいないというのは非日常になっていて、それでもまた数ヶ月もしたらこれも日常に戻るのだと思うと、わたしは唐突にこの部屋へ越して来たばかりの頃を思い出した。父母とともに父の車に乗って、わたしは岐阜から東京までやってきた。変わらないことが好きで嫌いだった故郷、親友がわたしを男性と規定することが耐え難い苦痛となってしまった故郷、それでも女性へもどることを選択できなかったわたし。全てから逃げて来たのに、結果としてわたしは男性のアイコンのみが整然と鎮座されている部屋を父母とともに形作った。父母は二日間かけてわたしの部屋作りの手伝いをし、最後の夜にともにガストで食事をした後、帰路に着いた。


 わたしはひとり布団を引き、横になる。それからぼうっと天井を眺めていた。新しい部屋の匂いはわたしのものでなく、わたしは誰か違う人の部屋に泊まっているかのような違和感を覚える。全く寝付けずに、外の国道を走り行くトラックの音とたまにその反動で揺れる部屋のミシっという音を聴きながら、わたしは寝返りを繰り返していた。何回めかの寝返りのとき、携帯が光った。母からのメールだった。


 ――辛くなったら、帰っておいでんさい


 わたしはそのメールを見るなり、携帯を放り投げたくなる衝動に駆られた。わたしのことなんか、どうせ誰も理解してくれないのだ。わたしの苦痛のことに、気がついてさえくれないのだ。そういう独りよがりな考えが、嫌いだ。わたしは全てのものが嫌いだ。


 それでもわたしは、


 ――だいじょうぶ。がんばれるから


 とメールを返した。


 それから塾講師という希望にすがりつくまで、わたしはただ生きているだけだった。

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