5

 わたしは、夏海さんとキスをした。付き合い始めてから一週間目の初めてのデートの終わりがけだった。とてもぎこちないキスだったと、思う。そもそも、誰かと付き合うという経験自体が初めてなのだ。肩に手を置いた方が良いのかだとか、目をつぶった方が良いのかだとか、そういう語り尽くされている出来事は、果たして目の前で起こるとたしかにどうしたら良いのかわからなくなるという代物だった。


「ごめん、歯、当たっちゃった。初めて、だったから」


 そしてこれも語り尽くされているであろうありがちなミスを犯した。


「大丈夫です。私も、初めてなので」と言って、夏海さんはなぜか涙を流した。


 わたしは人生でおよそ初めて棒立ちになるという経験をした。


「ごめん。なんかその、ごめん」


 ほとんど無意識に謝った。今この人を手放したら次いつ手に入るのか分からないという恐怖に心がほつれそうになった。


「謝らないでください」


「でも」


「大丈夫です。大丈夫ですから。ただ、感情が溢れちゃっただけです。もったいないので、すぐに堰き止めます」


 あたりはすでに暗く、意識すれば潮の匂いが鼻についた。観光名所である横浜の山下公園も、夜二十一時を越えればさすがに人が少なくなってくる。中華街の散策から始まった今日一日は、わたしの想像を軽く超えるくらいに楽しくて、同時に楽しいと思った自分に動揺もしていた。それが、最後になって悪い方になって出たのかもしれなかった。


 時折遠くから汽笛の音が響く。とても静かな音だった。


「抱きしめてください。それで、チャラにしますから」と夏海さんが言った。


 わたしは、ごくりと唾を飲み込んだ後、ゆっくりと夏海さんの背中に手を回す。思ったより力が入ってしまい、夏海さんを引き寄せる形になった。女の子の体は華奢なんだなと、改めて思う。そのまましばらく、夏海さんの体温を感じた。いつかのサキ姉ちゃんの温かさとは違って、随分と心細い温度だったけれど、それでも確かに、他者のぬくもりだった。潮の香りに混ざって、夏海さんの髪の毛の匂いが鼻をくすぐる。


「これは確実に言えることなんですけど」と夏海さんがわたしの胸の中で言った。「私は合田先輩が思っている以上に、合田裕也という人が好きです。あなたと触れ合うことで気持ちが溢れかえっちゃうくらいに、好きです」


「ありがとう。なつみ」


 今度は、思っていることを言えた。


「はい、ありがとうございます。裕也さん」




 帰り道、わたしから夏海と手を繋いだ。夏海の気持ちへ答えるには全然足りないけれど、まずはここからだ。石川町までの道のりは、やけに長かった。


「ひとつ、確認していいかな?」わたしは前を向きながら言った。


「なんですか?」


「ぼくはさ、ぼくのことが好きか嫌いかで言えば、嫌いなんだ。それも、すっごく」


 夏海の手が強くわたしを握り返してくる。


「だから、こんなぼくのどこが好きなのか、よくわからないんだよ」


「たぶん、そういうところだと思います」


「そういうところ?」


「裕也さんが自分のことを嫌いになればなるほど、私はあなたのことが好きになる。自分が嫌いな人は、嫌いだっていう気持ちをこれでもかってくらい理解しているから、他人もそんな自分に近寄らないで欲しいって思う。でも一度近づけてしまったら、今度は全力なんです。だって自分を信用していないんだから。いつ相手を傷つけるかと思うと怖くて仕方がないから、今度は全力で近づけてしまった人を大事にするんです。主に、自分自身から。それがやさしさなんです。裕也さんは、ことごとくわたしの琴線を刺激します。それが意図しているかは多分わかってないと思うんですが、とにかく全力で刺激するんです。つまりですね、裕也さんは人ったらしなんですよ」


「ぼくが?」とわたしは夏海を見ながら言った。


「そうです。あなたは人ったらしです」と夏海は言って、髪をかきあげた。


 とても女性らしい仕草だった。思わず見入ってしまう。なぜか、この人にならわたしを規定されても良いかなと思えた。


「私の髪は、好き?」


「もちろん」


「また、伸ばそうかなあ」


「昔は長かったの?」


「私の生きてきた中で、今が一番短いです。大学に入る時ばっさり切ってから、そのまま。でも飽きてたから、また伸ばしてもいいかなって」


「いいんじゃないかな。なつみの髪、きれいだから」


「裕也さんが、そういうのなら」と言って、夏海は微笑んだ。


 石川町駅から町田駅を経由して互いの最寄駅までの間、わたしと夏海はずっと手を繋いだままだった。繋いだ手のひらからは、わたしの心が夏海へと溶け出していた。夏海もまた同じように感じていてくれたら嬉しいなと思った。




 次の日のアルバイトの終わりがけ、わたしは塾長である藤村校長に話しかけられた。


「合田先生、ちょっといいかな?」


「はい」


 そのまま面談室へと向かう。普段は保護者との面談や手続きに使われる部屋だけれど、授業が終わって二十二時を過ぎたあたりからは、もっぱら先生同士の会話やアルバイト講師の担当授業をどうするかなどを話し合うことに使われるので、今日もそれだなとあたりをつける。


「宮田先生が高校受験の早慶希望者のための特別進学コースを受け持っていることは知っているよね?」


「はい」


「今度その特進コースを増設することになったんだ。それでBクラスの方をもしよかったら合田先生に受け持ってもらえないかなと思って、今日はその相談なんだよ」


「ぼくが、ですか?」


「もちろん。合田先生の授業は評判が良いし、実際生徒の成績も伸びている。実績は全校舎の中でも上位レベルだし、私としては是非引き受けてもらいたい」


「確か、特進コースの授業は隔週の日曜日でしたよね?」


 わたしは少しの間、日曜日という時間をアルバイトに費やしても良いのか考えた。今は夏海との時間を大切にすべきだという声と、またとないチャンスだから是非受けるべきだという声が、わたしの中で反響する。ただ同時に、わたしの未来が良い方向に向かい始めたので周りもそれに反応したのだという考えも頭の中によぎった。


「君は学生だし、もちろん無理にとは言わないけれども……」業を煮やしたように藤村校長が言った。


 わたしは藤村校長という人と会話するときは基本的に希望を言う以外はイエスマンに徹していた。圧が怖いのだ。自分がやることで塾はうまく回っているのだという全能感にあふれている人だった。やけに静かだ。扉一つ隔てた向こう側では先生たちが明日の授業準備をしているはずなのに、それが聞こえない。この空間では一方的に声を響かせ続けたものが、主導権を握り得るのだ。


「いえ、引き受けます。精一杯、やらせていただきます」


 藤村校長がにんまりと笑うのがわかる。せめて期待以上の成果をだすことで、この人に一泡吹かせてやろう。


 面談室から出ると、宮田先生がコピーを取っていたので、わたしも明日分のプリントの原版を持ってそちらへ向かった。


「宮田先生、ぼくもやっと、少しだけ追いつきましたよ」


「なに、突然?」


「早慶の特進コース、担当することになりました」


「引き受けてくれたんだ! うれしい」宮田先生は声をパッと明るくさせた。


「知ってたんですか?」


「そりゃもちろん。私が推薦したのよ」


「そうだったんですか」わたしの気持ちが沈み込む。


「いやだった?」


「いえ、とても光栄に思ってます。ただ、実力だけで同じところに並びたかったな、とは……」


「合田先生の実績は相当なものよ。まだ二十なのに、ほんとよくやるわ」宮田先生はコピーし終わったプリントを揃えながら言った。「それに、推薦も実力のうちよ。他人からの評価はそういうところにあらわれるの。早慶への合格にはね、生徒の力と講師の力、どちらも十全に必要なの。私は私の経験で、あなたはそれを達成し得ると思ったから、推薦したの。一緒にがんばりましょうね」


 宮田先生は矢継ぎ早にことばを並びたてた。先ほどまで沈みかかっていたわたしの心が、瞬く間に浮き上がってくる。まったくなんて単純なやつなんだと思うけれど、こればかりはどうしようもなかった。いつもわたしに大人風を吹かせる宮田先生がわたしを信頼してまかせてくれたのだと思うと、浮き上がった心はたちまちのうちに弾み上がった。




 帰り道、日々涼しさを増していく夜風がわたしを冷やす。だんだんと冷静さを取り戻すと、夏海に相談せずことを決めたことに後ろめたさが芽生えた。いつもの松屋で、わたしは夏海へメールを送った。


 ――少し報告。日曜日にバイトしている塾で特別授業を受け持つことになった。尊敬している先輩がぼくのことを推薦してくれた。日曜日に会いにくくなっちゃって、ごめん


 カレーを食べながら、携帯の画面を眺める。思考はなかった。ただただカレーを食べていると、お腹だけは機械的に満たされていった。家にたどり着いても返信はない。わたしはいつものようにスーツを脱いでクローゼットにしまい、ワイシャツを洗濯機に入れると、スウェットに着替えた。そこまでして、やっと気が抜けた。わたしはそのまま何もせずにベッドへ倒れ込んだ。




 深夜二時に、夏海から返信があった。わたしは眠りが深い方なので、携帯のバイブレーションに気づいたのは本当にたまたまだった。


 ――今から行っていいですか?


 文面を見るなり、わたしの意識は急速に浮上した。わたしは、


 ――だいじょうぶ


 とメールを打った。夏海からの返信を見た瞬間に、返答はもうこれしかないと感じられた。こんな時間にどうやってくるのかとか、やはり日曜日にバイトをいれたのは失敗だったかとか、いろんなことが頭に浮かぶ。


 三十分ほどして、チャイムが鳴った。ブーというその音を久しぶりに聞いた気がする。玄関を開けると、メイクせず着飾ってもいない素の夏海が立っていた。


「こんばんは」とわたしが言った。


「夜遅くに、すみません」と夏海は消え入りそうな声で言った。


 いよいよもってわたしの不安は混迷を極めていったけれど、努めて冷静に振舞いながら、夏海を居間まで連れていく。とりあえず座ってもらうと、夏海が「後ろから抱きしめて欲しいです」と言ったので、わたしは言われるがままに後ろに回って夏海を抱きしめた。無言だった。少ししてから前に回したわたしの手に夏海の手が重ねられた。部屋には、外から聞こえる車の音とキッチンにある冷蔵庫の音、それと電化製品から聞こえるキーンという響きだけがあった。都会の夜ではそれらが主役で、わたしと夏海からたまに漏れ出す息は逆に異質だった。


 どれくらい時間が経ったのか、正直わからなかった。わたしの部屋には時間を確かめられるものが携帯くらいしかない。わたしは何回か口を開けて、それから閉じた。告げるべきことばは見つからず、見つけられないままに時が過ぎていく。


「ありがとうございます」と唐突に夏海が言った。


「落ち着いた?」


「はい」


「日曜日のバイト、断った方がいい?」とわたしは聞いた。聞かずにはいられなかった。


「はい?」


「日曜日に会いにくくなるのが、嫌だったのかなって」


「それはたしかに、寂しいです。でも、それじゃないです」


「じゃあ?」


「あなたのやさしさが、怖くなりました。あなたの内側に入り込めた人が思った以上に多かったんだと思って、悲しくなりました」


「……バイトの先輩のこと?」


「……はい。でもどちらかというと、それは呼び水のようなものだったと思います。私は、裕也さんを独り占めしたい。裕也さんの内側を私だけで満たしたい。もう私は、ひとりになりたくない」


 なぜこの人は、こんなにも嘘で満ちたわたしを好きになってくれるのだろうか。夏海の声は今にも消え入りそうなのに、その音は触ったら火傷しそうなくらいに、熱かった。


「前から抱きしめても、だいじょうぶ?」とわたしが言った。


「涙、拭いてからでいいですか?」


「うん」


 わたしは今になって初めて、夏海が泣いていたことを知った。嗚咽のない、静かな涙だった。涙を流し慣れた人の涙だなと思った。こんなところだけ、わたしは彼女と一緒だった。


「もう、だいじょうぶです」と夏海がつぶやく。一度立ち上がろうとした夏海の手を反射的に掴むと、わたしは彼女を自分の腕の中へと抱き寄せた。


「裕也さん?」と夏海が言った。わたしはその口を自分の口でふさいだ。


 自分の舌を夏海の唇に押し付け、こじ開ける。そのまま歯をなぞった。夏海はビクッと体を震わせ、かすかな喘ぎを吐露する。夏海の舌にわたしの舌を絡みつけた。有機的な情動が部屋へと広がり、身体から湧き上がる彼女を蹂躙したいという意思がわたしの中に満ちていく。


「抱くよ」とわたしが告げると、夏海は「はい」と言った。


 ベッドへ行き、彼女の服を脱がせていった。女性の体が露わになっていく。身体はそれに興奮し、こころはわたしが持ち得ないものに羨望を覚える。背反するふたつの感情は互いに影響を受けながらも決して交わらなかった


 夏海がわたしのペニスを触った。「私に、興奮しているのね」


「うん」


「うれしい」


 夏海は、そのまま手を動かす。カウパー液が漏れ出して、夏海の手にねっとりとはりつく。それでも夏海は手を止めなかった。


「汚いよ」とわたしが言った。


「汚くないわ」と夏海は言って、わたしのペニスを触っていた手を口に持っていくと、薬指をぺろりと舐めた。「しょっぱい」


「胸、触ってもいいかな?」とわたしが言った。夏海はクスッと笑ってから、「うん」と言った。


 夏海の乳房は、大きすぎず小さくもない、とても綺麗なかたちをしている。わたしにはない、女性の象徴。愛おしむように触ったあと、乳首を指で撫でる。乳輪は少しだけ大きかったけれど、それが余計に女性を主張しているように見えた。それから、夏海のいろいろなとこを舐めた。夏海は目をつむり、時たま閉じた口の中で声を漏らす。その女性らしい艶やかな声に興奮するわたしと、嫉妬するわたしの両方をうちに抱えたまま、それでも身体は本能に任せて動き続けた。


 わたしは、恐る恐る夏海の性器を触った。


「初めてだから、うまくできるかわからないんだ」とわたしは正直に告げた。


 夏海は驚いたような顔をした後、「私も、だから」と言った。こころから湧き上がってくる罪悪感を、性への衝動で打ち消す。夏海の性器はすでに濡れていた。夏海の首に腕を回し、キスをしながら、手で性器を愛撫する。膣液がわたしの手を潤していく。わたしから漏れ出るカウパー液と精液とは違い、粘りが強い。わたしも、中指でそれをなめる。酸っぱさの中に苦味の混じった、女性の味だ。やっぱり、わたしから出るものとは似ているようで、違っていた。


 それからわたしは彼女と交わった。互いにぎこちのない交わりで、ほとんど無言で、シーツの擦れる音と肉体が重なる時に漏れ出る互いの熱い吐息とピストン運動の際のパンパンという音が、ひたすらに部屋へ充満していった。いつのまにか、それらかが世界のすべてになっていた。


 射精の予兆を感じ、わたしは膣内からペニスを抜き取る。我慢しきれず、夏海のお腹へと精液が飛び散った。


「ごめん」とわたしが言うと、彼女はうっとりとした目をして「ありがとう」と言った。


 わたしという男性の身体から溢れ出したものに汚された彼女を、わたしは綺麗だなと思った。夏海の体は汗ばんでいて、甘い匂いがわたしの鼻をくすぐる。幾分かの冷静さを取り戻したわたしにとってそれは緩慢に広がっていく毒のように思われた。


 夏海を先にシャワーへ行かせると、わたしは窓を開け放った。空はうっすらと白み始めている。携帯を確かめると、午前五時を少し回った頃だった。わたしは部屋を外へと同期させる。外からは、これから始まる人々の喧騒の先触れみたいなものがそこかしこから感じられた。


 シャワーから出た夏海には、わたしのワイシャツを着せた。


「ステレオタイプだけれど、私、こういうの好き」と言って夏海は微笑んだ。


「ベッド整えておいたから、横になっててよ。セミダブルだから、頑張れば二人で寝れると思う」


「広いなあって思ってたの。これ、セミダブルなんですね」


「ぼく、寝相が悪いから」


「そうなんですね」と夏海は嬉しそうに笑った。


「そんなにおかしかった?」


「いえ。誰も知らない裕也さんが私の中に増えていくなあって思ったら、ついつい顔に出てしまいました」


 いつもの夏海だ。わたしはその声音に安堵を覚えた。


 シャワーを浴びてからベッドに戻ると、夏海はすでに寝息を立てていた。音を立てないよう横にそっと入ると、わたしはとなりに寝ている夏海のうなじを眺めた。不思議な感覚だった。ここにきてやっと、わたしだけの世界だったこの部屋にわたし以外の人がいるという奇妙な事実に思い至る。自分の空間に他人が侵食してくることが好きじゃないと思っていた。でも夏海はやはり、自然なかたちでここに存在していた。わたしが嫌いだったのは、身体が作り出した空間に否応無しに存在しなければいけない、わたしのこころ自体なのかもしれなかった。


 わたしと夏海は、起きてからもわたしがアルバイトへ出かけるまでずっと布団の中で話をしていた。互いが互いを内包させていく感覚は、先ほどのセックスのように気持ちがよく、わたしはその甘美な瞬間の連続をいつまでも続けたいという欲望に抗って、スーツを身にまとう。そして着替えた夏海と共に、外へ出た。

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