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 身体の性別をこころに適合させることができると知ったのは、中学二年――二〇〇〇年の時だった。父は昔からパソコンが好きで、この頃になるとわたしの実家はノートパソコンを所有していて、インターネットも自由に使えていた。家族の寝静まった夜が、わたしにとっては特別な時間となった。履歴が残らないよう細心の注意を払いながら、わたしは女性へもどる方法について無我夢中で調べた。その過程で男女の性差というものを学び、そして自身の身体が確定的に男性そのものであると知って絶望もしたけれど、同時に女性ホルモン療法と性別適合手術という希望も得たのだ。


 女性ホルモン療法は、その名の通り女性ホルモンを自身の身体に投与するもので、胸が大きくなり、男性器の機能が縮小したりする。二〇〇〇年当時からいろいろな人の体験談が日記形式でホームページに載っていたりして、わたしは毎日のようにいわゆるインターネットサーフィンを続けた。現在進行状態で投与を続けている人の日記を読み、その人の身体の変化を自分のことのように喜び、同時に焦りを感じた。何か決定的なことが起こる前にわたしは女性ホルモンの投与を始めなければいけないのだという脅迫めいた気持ちが徐々に大きくなっていった。


 性別適合手術とは、自身の性別に合わせて身体の性別を変更する手術だ。何通りかの方法があるようだったけれど、男性器を女性器に作り変えることができるということは全ての方法に共通していた。そして全ての方法に共通して、それは生殖機能が永遠に絶たれることを意味していた。もっとも当時のわたしは、このことについてはあまり気にしていなかった。それよりもわたしは間違いを正す方法が実際にあるのだということに歓喜していた。


 身体が男性そのものであるという確信を得て以来、わたしは自身の男性的特徴に、ひたすらな嫌悪感を抱くようになっていた。ある意味では、憎んでいると言ってもよかった。その憎しみは、わたしを生んだ父母へではなく、このような境遇にわたしを導いた運命へでもなく、ただただ純粋にわたしの内側へと向いていた。


 あの頃、実際に前へと進んでいる人がいるという事実は、わたしにとってどこか遠い異国のことのような出来事だった。インターネットという世界は、そういう人々の存在を曖昧にさせているようだった。ただ、調べれば調べるほどに中学二年にできることなどたかが知れているのだと実感していくことだけは、確かだった。


 ちょうどその頃、八歳年上の従兄弟が東京から婚約者を連れて帰って来た。八月の上旬で、夏期休暇を利用した帰省だった。従兄弟の早川弘人――ヒロ兄ちゃんは名古屋の専門学校を出た後、東京でプログラマーとして働いていた。小学生の頃、たまにわたしの家に来ては、自作のゲームや仲間が作ったという同人ゲームをたくさんくれたのを覚えている。ゲームといっても紙飛行機のようなものを操縦するだけだったり、スーパーマリオを単純にしたような横スクロールアクションだったりで、今思えばそんなにすごいものでもないのだけれど、小学生のわたしにとっては宝物で、何回も何回も遊んだ。いつ頃東京に出たのかは覚えていないけれど、プログラマーになったと聞いた時、夢を叶えたことについて子供ながらに尊敬の念を抱いたことは覚えている。


 わたしの実家は本家だったので、正月やお盆になると親戚の人たちが結構な頻度で訪れる。父は自分が結婚するということをまったく考慮へ入れずに家を建てたようで、実家には子供部屋がなかった。唯一空いていた客間も半分くらい物置のようになってしまっている。そこでしょうがなく、わたしと弟は仏間に机を置いてそこで勉強していた。仏間というものはいつも人がいるということを考えた作りになっておらず、冬はとても寒く夏はとても暑い。空気が部屋を抜けていかないのだ。しかもお盆の時期はいろんな人が来て、仏壇にお供えものをして帰っていく。その度に線香を焚くものだから、たまったものじゃなかった。


 その日は午後から弟は小学校のプールへ行っていて、わたしはひとりひたすらに連立方程式を解いていた。その時、玄関のチャイムが鳴った。


「お母さんー、誰か来たよー」


「ごめん、今出れんわー。おばあちゃん外やし、裕也くんお願いー」と母が言った。


 わたしが「はーい」と言うのと同時に、ガラガラと扉が開く音と「誰かおるー?」という声が届く。すぐにヒロ兄ちゃんだとわかると、わたしは駆け足気味に玄関へと向かった。ヒロ兄ちゃんが東京へ出てからはほとんど会っていなかったけれど、小学生の頃の記憶が思い出されて自然と心が躍った。家の廊下は長く、わたしのドタドタという足音が響く。


「お、裕也か。なんだお前大きくなったなー。俺の身長超えとるんやない?」


 ヒロ兄ちゃんは、わたしが知っている姿より少しだけ髪が伸びていて、メガネをしていなかった。


「ひさしぶりやね」とわたしが言った。ただ、わたしの視線はヒロ兄ちゃんよりも隣に立っている知らない女性の方へ向かっていた。


 その女性はわたしの視線に気づいたのかニコッと微笑んだ。わたしやヒロ兄ちゃんよりも二十センチくらいは身長が低く、三和土に立っているのでいっそう小さく見えた。髪型はショートでおっとりとした印象なのに、服装は七分袖の白いシャツとジーパンで、でもそれが不思議と似合っていた。


「こんにちは。弘人くんの婚約者の村川早希です。よろしくね」


「よろしく、お願いします」わたしはなんだか照れくさくなり、半ば呟くように答えた。


「あれだ、そんなわけで早希の紹介にきたんやけど、じいちゃんとばあちゃんは?」


「じいちゃんはお祭りの打ち合わせに行っとるよ。ばあちゃんは外で草むしり」


「あちゃー。タイミング悪かったかあ」とヒロ兄ちゃんは頭をかきながら言った。


 中津川市は盆地であり、夏はうだるように暑い。早川おばさんの家はわたしの家から徒歩二十分くらいのところにあって、さっき車の音がしなかったことを考えると、ヒロ兄ちゃんと村川さんはこの炎天下の中歩いて来たに違いなかった。


「あがりーよ。お母さんにカルピスか何か出してもらうわ」


 居間まで案内した後、掘りごたつに座ってもらう。それから扇風機のスイッチを入れた。村川さんはどこか都会の人という感じがして、クーラーもないわたしの家に座ってもらうことを恥ずかしく思いながら、わたしは母と祖母を呼びに行った。




「ヒロくんが結婚ねえ」と母が言った。


 祖母は村川さんをしげしげと見つめている。


「いじめられとった弘人がどえらー可愛え奥さんもらうんやなあ」


 日頃わたしにとにかく口うるさく注意してくる祖母が、ただただ優しそうな顔をして話しかけた。


「ばあちゃん、俺やってもう二十四やし、いじめられとったとか余計やて」とヒロ兄ちゃんが祖母に向かって笑いながら言った。


「それと……」ヒロ兄ちゃんはそう言ってから、村川さんの方を見た。村川さんは、うん、とうなづく。「俺、帰ってくることにしました」


「帰るって、こっちに?」母が聞き返した。


「親父の会社で、働くことにしたんです」


「東京は、もうええのかい?」


「五年、楽しみました。十分です。これからは早希を大事にしたいです」


 わたしの知らないヒロ兄ちゃんが、そこにいた。ヒロ兄ちゃんはゲームが大好きで、わたしが遊びに行った時には大抵ぼさぼさ頭で寝ぼけたような顔をしてゲームをしているのだ。わたしがお邪魔しますと行ってヒロ兄ちゃんの部屋に行くと、「裕也、今日は何したい? なんでもあるぞ」と言ってニカっと笑う。部屋はぐちゃぐちゃとしていたけれどヒロ兄ちゃんが好きなものがそこら中にあって、その一つ一つがヒロ兄ちゃんを形作っていた。そんなヒロ兄ちゃんはいなくなってしまったのだと、なんとなく分かった。それが良いことなのか悪いことなのかは、分からなかった。


 ただ、村川さんと一緒に座って話をしながら笑いあっている今のヒロ兄ちゃんは、とてもカッコよく見えた。




 わたしは、地元から三十キロほど離れたところにある私立高校へ進学した。とても大きな高校で、商業科・普通科・特別進学科・スポーツ科があり、あらゆる生徒を受け入れている。元は商業高校で、徐々に部活動へ力を入れ始めたのち、わたしが進学する数年前から難関大学の進学にも進出し始めたという、生徒を増やすためならなんでもするような学校だ。


 わたしは頭が良かった。中学時代は五教科オール五で、苦手な国語もテスト以外の部分を頑張り成績としては五を維持できていた。岐阜県は私立高校よりも公立高校の方が難関大学の進学率が高く、よって偏差値が高い。わたしは模試の成績と内申点でいえば県内の進学校にも合格できたと思う。ではなぜ私立高校へ進学したかというと、特別進学科の最上位コースが少人数制のクラスを採用していたことにあった。わたしは中学三年生の頃から、今の姿のまま他者と接し、名前を覚えられ、合田裕也という男性の人となりを覚えられていくことが苦痛になっていた。全校で生徒が千五百人以上いるという、とても大きな高校ではあったけれど、その大半は同じ高校に通っているだけの存在で、わたしのことを気にとめる人などいない。当然、わたしもすれ違う生徒たちのことを覚えていない。それは単に世界の単位が高校という内側に狭まっただけのことで、見知らぬ他人はわたしを認知などしないのだ。立地もちょうど良かった。中津川市から電車を乗り継がないと通うことはできず、そこまでして外の高校へと出る中学の友達は少ない。ほぼ全員が、市内の普通高校・商業高校・工業高校へと進学していく。この頃にはもう、わたしは好きな地元に居続けることが怖くなっていた。中学校へ行って、くだらないことで笑い合い、土日は部活動のあとに友達と遊ぶ。釣りが流行っていて、早朝に起きてはブラックバスを釣りに自転車で出かける。釣れたら嬉しいけれど、釣れなくても友達とこのあいだ買ったロールプレイングゲームをどちらがやり込んでいるかひたすら話す。わたしの学年は他の学年と比べても群を抜いて仲が良く、男女の垣根もなくてただただ毎日が楽しかった。もちろん、楽しくないことだってあった。わたしは運動がからっきしダメで、体育の時間が来るたびに憂鬱になったし、十二月の上旬に行われるマラソン大会は、近づけば近づくほどに早く終わって欲しいと願ったりしていた。でもそれら全てをひっくるめた上で、わたしはこの土地に馴染んでいたし、保育園から中学校まで変わらずに続いていた日常が大好きだった。得てして離れてから気づくことの多いその感情に、わたしは中学後半の頃にはすでに支配されつつあった。そして、その気持ちは徐々に、この大好きな土地はわたしをダメにしてしまうのだという感情へと変わっていった。それは、暖かい日差しが差し込む窓際で、いつまでもぬくぬくとしていたいような、そういう感覚に似ていた。


 高校二年――二〇〇三年の夏、〈性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律〉が制定された。二十歳になった上で性別適合手術まで終われば、わたしは身体的にも法律的にも女性へもどることができる。女性ホルモン療法と性別適合手術への渇望は、この頃にはもうすでにわたしの内から留めることのできない衝動のようなものにまで成長していた。制服や髪型といった学校が押し付ける男子生徒のアイコンを我慢するのも限界に達しそうだったけれど、他方そのすべてから解放されるためにカミングアウトする選択肢は、不思議とわたしの中にはなかった。わたしは弱く、たまにインターネットの中やテレビで特集されるような、わたしのような存在のカミングアウト体験談はまったく現実味のあるものとして感じられなかった。わたしの容姿はこれ以上ないくらいに男らしいと思っていたし、そもそも家族や学校が受け入れるはずがないと確信していたのだ。


 それでも、せめてこれ以上の男性化だけは防ぎたかった。わたしはすがるような気持ちを込めて、少し前に見つけていた個人輸入の代行サイトからプレマリンという女性ホルモンの錠剤を購入した。父母に知られないよう、宅配の時間は平日の午後を希望する。父母はともに働いており、平日であれば家には祖母と弟しかいない。もっとも、そういうことを気にする人が多いのか品名を指定することができたので、わたしはパソコンのパーツ名を指定していた。最悪七限まである日に届いてわたしよりも母の方が先に帰宅していても問題はないはずだ。


 購入した女性ホルモン剤は、三週間後の十一月上旬に届いた。その三週間の間、わたしは父母に嘘をつくのだという罪悪感と、ついに購入したのだという高揚感の間で揺れていた。勉強は手がつかず、帰宅するとノートパソコンを部屋に持ち込んでブラウザを立ち上げて(高校入学の祝いに客間がリフォームされわたしの部屋になった)、女性ホルモン療法の体験談を読み漁る。中学の頃から穴が開くほど読んでいたサイトに加えて最近になって書かれ始めたところまで、とにかく探してひたすらに読み込んだ。今は焦りよりも、わたしも早くこのようになるのだという待ち遠しさの方が大きかった。


 幸いにして六限で終了した日、いつものように自宅の玄関を開けると、上がり口に小包が置いてあった。宛名が合田裕也となっているのを確認すると、すぐに二階のわたしの部屋まで向かう。無造作に小包を開け中身を確認する。日本の薬とは違い何も書かれていないシートに、楕円形の茶色い錠剤が整然と並んでいた。それはどことなく駄菓子屋に並んでいるチョコのように見えた。これを飲むことにより、わたしの胸は少しふくよかになるはずだし、男性器の機能は低下するはずだ。飲み続ければ、それは不可逆的な変化となる。髭はなくならないけれど、体つきは女性のそれへと徐々にもどっていく。家族に裸を見せる機会なんてそうそうないし、あと二年すれば大学進学を機に東京へ出る予定だ。東京へ行きさえすれば、この変われない、変わることが許されない土地から抜け出してわたしは自分を取りもどすことができる。そう、信じていた。


 その日、わたしは夢を見た。とても暖かい光の中で、わたしは横になっていた。地面も暖かく、辺りには何もない。ただ、視界の先の方に壁があり、それが果てし無くどこまでも続いていて、空にも達しているようだった。色は判然としない。というより、わたしは色というものを意識していなかった。体を見ると、そこには乳房があった。わたしはそれを当たり前のように見つめたあと、手を陰部へと持っていく。ざらざらとした陰毛がわたしの手のひらにあたる。それだけだった。それからしばらくして、わたしは突然浮遊感に襲われた。地面が抜けたわけではないけれど、他方わたしの体はどこまでも落ちていくようだった。体を動かそうとしても動かない。落ちながら、わたしの体は透けて見えなくなっていく。漠然と、ああわたしは拒絶されたのだと思った瞬間に、目が覚めた。




 一ヶ月が経ち、わたしの体は少しだけれど着実に変化していた。乳首が立ち、シャツと擦れると痛い。まだ大きさは感じられなかったけれど、ともするとシャツだけだと目を引くようになっていて、今が十二月であることに安堵する。体力もこころなしか落ちたようで、階段を登ると息切れするようになった。そして一番嬉しかったこととして、性欲が少なくなっていた。身体が男性である以上避けては通れない道だったし、性対象については漠然と女性であると思っていたこともあって、性欲はマスターベーションをすることで処理していたけれど、処理するたびに憂鬱な気持ちになっていた。男性器はわたしの身体の中で一番嫌悪されるべき存在であったし、精液を見るたびにそれが正常に機能していることに対する悲しさがわたしの中で溢れ出して来て止まらなかった。定期的に繰り返されるこの葛藤が軽減されるのは良いことに違いなかった。


 その週の土曜日に、サキ姉ちゃんが訪ねてきた。ヒロ兄ちゃんが中津川市に帰ってきてからもう三年が経つ。しばらくは村川さんと呼んでいたけれど、「私ももうすぐ結婚だし、そしたら早川早希になるんだから、ユウくんも私みたいに、名前でね?」と言われ、それからはサキ姉ちゃんと呼ぶようになっていた。サキ姉ちゃんとは、読む本やマンガなどの趣味が不思議なくらいに同じで、話しているとヒロ兄ちゃんとはまた違っていて楽しい。なんというか、話し上手なのだ。聞き手に回る時と話し手に回る時のタイミングが絶妙で、ついつい話し込んでしまうことも多い。年がそこまで離れていないこともあって、わたしは自身のことについてオブラートに包んだ上でそれと分からぬよう細心の注意を払いながら相談することもあった。


 祖父母の部屋でしばらく話し込んだあと、サキ姉ちゃんは居間へやってきた。「やあユウくん。久しぶり」と言うと、サキ姉ちゃんは机を挟んでわたしの正面に座る。たしかに、こうして面と向かったのは夏以来かもしれない。数ヶ月ぶりのサキ姉ちゃんは、なんとなく大人びて見えた。足取りがゆっくりしていたこともあったけれど、何より服装がいつものユニセックスではなく、すらっとしたワンピースだったのが大きかった。


「ユウくんはさ、好きな人、いる?」とサキ姉ちゃんが唐突に言った。


「また突然やね」と言ってわたしは笑う。「おおかた感傷に浸りたくなるようなマンガかなんか読んだんやら?」


「うーん、どっちかって言うと、自慢?」


 サキ姉ちゃんは「こっちきーよ」と手招きした。近頃は東濃弁もすっかり板に付いてきている。以前、「ここで生きてここで死ぬんやって決めた私の決意みたいなもんやよ」と言っていたのを思い出す。わたしが近くに寄ると、サキ姉ちゃんはよっこらしょと言ってこたつから出て、お腹をさすった。線の細いサキ姉ちゃんにしては不釣り合いなほどに膨らんだお腹が、そこにあった。


「今、四ヶ月やよ」とサキ姉ちゃんが言った。


 わたしは驚いた。青天の霹靂というやつだった。わたしより背が低く、華奢でおっとりとしているサキ姉ちゃんが親になるということを、およそ想像すらしていなかった。


「だから、自慢」と念を押すようにサキ姉ちゃんが言う。


「ええと、その、なんて言うか、びっくりしたわ」


「やっぱり?」


「うん」


「驚かしたくて黙ってたわけじゃないんやけどね」サキ姉ちゃんはクスッと笑った。「私、体が弱いんよ。やもんで、安定するまで黙っとけってヒロくんがね。子供できるまで、三年もかかっちゃったし。もっと言うとね、子供ができるかも分からなかったの。ヒロくんはそれを知った上で結婚してくれたんやけどね」


 お腹をさすりながら話すサキ姉ちゃんに、帰ってくると言った時のヒロ兄ちゃんが重なる。


「そこに、おるんやよね?」


「もちろん」


「なんか、不思議な感じ」


「不思議って?」


「人が、人をつくるのが。うーん、ちょっと違うかもしれん。うまく言葉にできん」


 サキ姉ちゃんはそうねえと言って考え込むように自分のお腹を見つめる。今、この場所には三人の命があるのだと思うと、わたしはやっぱり、不思議な感じがした。


「私もね、まさか私に子供ができるなんて思っとらんかったよ。私の体のことは別にして、親になるってことが全然想像できんかった。友達が結婚して、携帯に赤ちゃんの写真とかが送られてくるんやけど、私は結構本気で友達のこと祝福してたの。幸せそうやなあって。でもやっぱり全然自分のことにはならんくて。もちろん、会って話もするんやけどね、確かに友達は友達からお母さんになっとるし、子供を立派に育てとるのよ。そういうの見るたび、私なんかがこんな風になれるわけない、なっちゃいけないんやって思った。私は子供やから、そんな資格はないってそう思っとった」


「サキ姉ちゃんは、立派な大人やよ」わたしはたまらずに言った。


「ほうやね。でもそれで言ったらユウくんやって、立派な大人やよ。大人はみんな、立派な大人で、子供なの。ほんでね、大人が自分の中の子供とバイバイするときが、子供ができた時なの。お腹にいるってわかった時、今まで感じとった自分への否定みたいのが全部綺麗さっぱりなくなって、次の瞬間には、ああ私はこの子のために生まれてきたんやなって、なった。ううん、ちょっと違うかな。なくなったわけやなくて、そういう気持ちは確かに自分の中にあるんやけど、優先順位がすっごい下の方になっとった。そんなことよりこの子を無事に産んで育てるのが大事やって、なったの」


 サキ姉ちゃんが自分から一方的に話を続けるのは初めてだったこともあって、わたしはとにかく圧倒されていた。わたしの前にいる早川早希という人は、母親で、大人で、大人というのは子供の前で強がるものなのだという、奇妙な納得感がわたしの中に満ちていく。直感として、今のサキ姉ちゃんはこれ以上ないほどに充足しており、その充足しているという事実を誰彼構わずに伝えたいんだなと、そう、思った。


「お腹に顔を当てても、いい?」とわたしが言った。


「まだ、なんもわからんよ」


「うん」


 サキ姉ちゃんはさすっていた手をどけて、「どうぞ」と言った。わたしは恐る恐るお腹へと耳を近づける。


「ね、何も聞こえないら?」


 たしかに、赤ちゃんがここに存在するのだというのは音ではわからなかった。でも、サキ姉ちゃんの温かみと呼吸音を間近に感じた。眠たくなってしまうようなそんな温かみだった。わたしは顔を離して、サキ姉ちゃんのお腹をしっかりと見た。音は聞こえなくても、動いているのが見えなくても、そこにはたしかに一つの命が存在しているのだと、この時初めて生の感覚としてわたしの奥深くに刻み込まれた。


「名前は決めとるの?」


「まだ性別もわからんもんで、決めとらんよ。そうそう、そう言えば」と言ってサキ姉ちゃんはクスッと笑う。


「ユウくん、この子に何て呼ばれたい? ユウおじさん?」


「おじさんは、いややわ」わたしは反射的に言った。


「ユウ兄ちゃん? ユウくん?」


 わたしはしばらく考えたあと、「ユウちゃんがいいな」と言った。サキ姉ちゃんは「ユウちゃん」と一度口ずさんだあと、「覚えとく」と言った。


 それから、サキ姉ちゃんはわたしのことをユウちゃんと呼ぶようになった。


 サキ姉ちゃんは未来に生きていて、今わたしが向かっている先にそういうものはないんだと、漠然と感じた。あのお腹の子が生まれて、サキ姉ちゃんが抱っこをし、その姿をヒロ兄ちゃんが微笑みながら見ているという光景を想像した。それは世界を見渡せたとしたら今瞬間にもどこかで繰り返されている光景で、なんてことはないありふれた光景で、幸せな光景なのだと思った。もちろん、そういう気持ちだけでは生きていけないだろう。むしろ全体としては辛いことの方が多いかもしれない。でも、あとで思い返してみたら、ああ幸せだったんだなあと思う、そういう生き方なのだ。


 わたしは、自分の未来をサキ姉ちゃんのそれに重ねてみた。その未来を重ね合わせるためにわたしがすべきことは清々しいほどに明快だった。わたしは一ヶ月前に買った女性ホルモン剤を確かな決心を込めて、ゴミ箱へ放り込む。それが正しいことだったかどうかは、未来のわたしが証明してくれるはずだ。わたしの基底に存在している確固たる意志をいつまで無視し続けることができるかは、定かではない。でも、もし一生を騙し通すことができたのなら、サキ姉ちゃんのような世の中にありふれた、けれども慈しみに満ちたあの一瞬をわたしのものとして享受できるのかもしれない。わたしは、この甘い林檎のような誘惑に抗うことができなかった。

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