3

 九月の終わり頃、めずらしく川口からメールが来た。安くておいしい焼肉屋を見つけたから、一緒に食べないかということだった。川口のことだ。お前は人付き合いが悪いのだからたまにはゼミの仲間と交流を持てという意味なのだろう。たしかにゼミの仲間とは滅多に飲みに行かないけれど、それは塾のアルバイトを優先しているだけでわたし自身は誘われて日が空いてさえいれば飲み会を断ることはない。ひとりでいる方が好きなことは否定しないけれど、それとこれとは別の話だ。日にちはわたしの空いているところで良いということだったので、アルバイトのない日を何日かピックアップしてメールを返した。




 焼肉屋へ行く日、わたしはクローゼットの前で途方に暮れていた。わたしの家は六畳の部屋に狭いキッチン、バス・トイレ一体型のユニットバスと、一人住み典型のアパートだけれど、なぜかクローゼットだけは広かった。そのだだっ広い空間に、二着のスーツと数着のワイシャツ、色の違う二着のジャケットがかけてある。週に四日はアルバイトのためにスーツで大学へ行っているので、ジャケットは週替わりで着ていた。そして、今日は土曜日だ。昨日はアルバイトがなかったので、わたしは一着しか持っていないチノパンを何も考えずに昼頃洗濯した。バカなことをやったものだと、今日何度目かになるため息を吐く。わたしは着やすく外にも出られるという理由で、土日は基本的に上下スポーツウェアを着ている。さすがに、これを着て知人の前へ行くのはためらわれた。ファッション自体にこだわりはないけれど身なりにはそれなりに気を使っているつもりだし、何より土日にそんな格好をしているのかという目で見られるのが癪だった。とはいえ他に着るものもなく、クローゼットの裏側に付属でついていた衣装鏡に映るスポーツウェアを着た自分を散々眺めた上で、まあこれでも良いかと言い聞かせてから家を出た。


 待ち合わせ場所はアルバイト先の塾とは反対側へ四駅ほど行った、小田急線の狛江という駅だった。電車の向き先は上り方面だけれど、そんなには混んでいないようだ。わたしはそういえばと思い、前方が見えるようドアの近くに立った。このまま外の風景を見ていればすぐに多摩川があらわれるはずだ。わたしは電車が川を渡っているときにそれを車内から眺めるのが好きだった。川は広ければ広いほど良い。電車は川との隔たりが極端に少なくて、車やバスで川を渡るのとはまた違った景色が目の前に広がる。瞬間に開けた視界はそのままわたしをこことは違うどこかに運んでくれるのだと、わたしの胸を騒ぎ立てる。多摩川が近づいてくると、わたしはドアにもたれかかった。金属の冷たさが心地良い。わたしはそのまま、外の光景をぼうっと見つめた。


 狛江駅に着いて駅のホームを出ると、川口がすでに待っていた。わたしは慌てて時計を確認したけれど、待ち合わせにはまだ十分ほど時間がある。わたしはふうと息を吐いてから、川口に無言で手をあげた。川口はゼミで四人しかいない同級の男性の一人だ。なんというか、臨機応変に過ぎるきらいのある男で、真面目な時は人一倍真面目に、盛り上げる空気の時には誰よりも場を盛り上げる、そんなやつだった。


「お前、ジャージかよ……」開口一番、川口が冷たい目で言い放った。


「悪いか?」わたしは開き直って口を開いた。


「悪くは、ないが……。何か他になかったのかよ」


「スーツならあるけれど、他はちょっと着合わせが悪かったんだ。下がスポーツウェアで上がジェケットの方がないかなと思ったのだけど」


「いつも着ているチノパンは?」


「洗濯に出した」


「はあ、薄々気づいてはいたけれど、合田裕也という人間はつくづくすごいな。二種類のスーツに、一枚のチノパン、それに二着のジャケットとスポーツウェア。これだけで生活しているのか。もしかして、こんな生活を大学に入ってからずっと続けているのか?」


「お前はどれだけぼくを観察しているんだ? 衣類の枚数まで知ってるなんて気持ち悪いな」


「俺は人間観察が趣味なんだ。あれだけ同じ服装なら、気にもなる」


「人間観察なんて、お前も相当変わっていると思うけどね」とわたしは川口へ言い返した。「ちなみに、一年の初めの頃は普通に大学生活を送っていたよ。それに、寝間着もある。あの頃はもう少しだけボトムスを多く持っていたし、トップスもそれなりにあったけれど、必要なくなったから捨てたんだよ。使わないものをしまい込んでいたってしょうがないだろ?」


「わかった。わかったから。あとの二人は先に行ってるから、ほら、肉食べに行くぞ」


 川口はわざとらしく手のひらを上に向け両手を広げながら言った。


 焼く肉屋へ向かう途中、わたしは川口に残り二人が誰かと尋ねた。てっきり同級かと思っていたのだけれど、川口からは柏木夏海さんと櫻井風香さんという後輩だと言われて驚いてしまった。


「なつみさん?」とわたしは反射的に声を出した。


「珍しいな。合田が人の名前を覚えているなんて。それも名前の方を」


「なんとなく、新歓の時の印象が強かったんだ。ほら、好きという気持ちにもいろんなものがあると思わないか?」


「いきなりだな。まあそりゃ、ありきたりな表現だけれど憎いほど好きと犬が好きとは違う感情だと思うよ」


「でも、好きには違いない」


「ああ、好きには違いない」


「なら、それが一番なんだとさ。なんか、その時ぼくは少しだけ気持ちが楽になったような、そんな気がしたんだ。お前に言ってもわからないだろうけど」


「そうだな。俺はそれを理解できるほどお前のことを知らないな」


「やけにストレートにものを言うね」


「今日はそれを知るための会だからな」


「ああ、やっぱりそうなのか」


「そうメールに書かなかったか?」


「まわりくどくはあったけれど、そんなようなことが書かれていた気がする」


「ストレートに書いたんじゃあ、断られると思ってね」と川口が白状するように言った。


「そうとも限らないじゃないか」


「だから、それを知るための会なんだよ」


 わたしはぐうの音も出なかった。断ることがないのは本当のことだけれど、わたしがそういう人間だということを知らないから、知る機会を作るためにああだこうだと理由をつけて誘う。それは理にかなっていると思った。ただひとつ分からなかったのは、川口が今になってどうしてここまでしてわたしを知ろうとしているかということだったけれど、まあそんなことは飲み会の間に分かるだろうと思って聞くのをやめた。




 焼肉屋は狛江駅から数分歩いたところにあって、一見そうとはわからないような外見をしていた。まわりには他の飲食店もなく、わたしだったらおそらく最初の一歩さえ踏み出せないのだろうなと、なんとなく感じた。ただ、中は思ったよりも小綺麗で、客もそれなりに入って賑わっていた。大学から少し離れているからか、もしくは土日だからか、客層も家族の外食から年上っぽい男性たちの集まりまでいろいろだった。


「おまたせ」と川口がいうのでわたしも倣う。


 夏海さんはブラウンでシックなワンピースを着ていて、櫻井風香さんは黒い大きめのパーカーを着ていた。わたしと川口はちょうど女性たちと対面になるような形で座った。わたしは櫻井さんのパーカーを見るなり、そうかパーカーという手があったかと思った。これなら休日に急な用事が入っても、川口のようなやつに呆れられることはない。スポーツウェアを使い古したら、今度はパーカーを買おうと決心した。下がスウェットなら今と着心地もそう変わらないはずだ。


 正面に夏海さんが座っていたので、わたしは久しぶりと言った。


「ゼミではいつも会ってますけどね」と夏海さんは笑いながら言った。


「そうは言っても話していないから、久しぶりで良いかなって。それと……」わたしは櫻井さんの方を向いて頭を下げた。「ごめん、今日、名前を知った。櫻井風香さんだよね。よろしく。ぼくは三年の合田裕也です」


「はい。よろしくおねがいします。二年の櫻井風香です。いつもスーツの合田先輩、ですよね」


「やっぱり、そのイメージかあ」


「たぶん、二年は全員、そう感じていると思いますよ。三年なのにスーツを着ていて、しかも就活用じゃなくて、あげくにもはや社会人のように着こなしている謎の先輩だって」


「謎の先輩、か」


 わたしの生活が大学よりも塾の講師を中心に回っていることは否定できないし、大学生活にそれほどの思い入れがないことも自覚している。だからかは分からないけれど、わたしは今日この時わたしを囲んでいる三人が、妙に眩しく見えていた。わたしにとっては半ば非日常であるこの飲み会も、この三人にとっては当たり前のもので、今日はたまたまそういうところにわたしが混ざっている。そう思うと、わたし自身が異物のように見えてきてしまう。ちょうどその時さきほど頼んでいたビールが運ばれてきた。


「では、謎の先輩、合田裕也を知ろうの会、はじめまーす」と川口が言った。「かんぱーい」


「かんぱい」とわたしも応じてジョッキを互いに打ち付けた。


 ジョッキを半分くらいまであけたところで机におくと、夏海さんと櫻井さんはもう空にしていた。川口は元来お酒に弱いので、今日も少し口をつけただけだ。あのビールはおそらく、川口がもう一口二口飲んだらあとはわたしの胃の中へと消えていくのだろう。


「なつみさんと櫻井さんは、お酒が強いの?」


「私はそんなことないけれど、ふうかは強いですよ。ざるという表現よりたぶん、うわばみという表現が似合うくらいに。お酒が一気に消えていくけれど、ふうか自体はけろっとしたものです」


「その言い方はひどくないかな? 私としては気持ちよく酔える人が羨ましいよ。少しは気持ちが高揚するけれど、あとはいくら飲んでもそこまでどまり。そういうのも、つらいの」と、櫻井さんはムスッとした顔で夏海さんを小突きながら言う。それからわたしの方を向いた。「それでいうと、合田先輩はどうなんですか?」


「ぼくは微妙だなあ。生ビールでいえば中ジョッキ四杯が限界くらいなんだけど、そこまで顔色が一切変わらないんだよ。だから飲めると思われて飲まされるんだけど、実際は許容量を超えてしまったらあとはアルコールが抜けきるまで永遠に吐き続ける。その間の記憶が残っているものだからタチが悪い」


「ああ、あれはひどかった」と川口が同意した。


 二年の始め、入ったゼミの男性が四人しかいなかったこともあって川口の部屋で飲み会をした。わたしはそれまで自分がどれくらい飲めるのか全く知らなくて、やらかしてしまったのだ。結局あの時は次の日の夕方頃までお酒が残っていて、わたしは始めて間もなかった塾のアルバイトを私用で休んだ。体調不良と伝えたけれど、騙しているような気がして気持ちがずうんと沈んだのを覚えている。それからも風邪とかインフルエンザとかで何回か欠勤したのに、あの時の欠勤が一番わたしの心の中に残っていた。初めての欠勤だったからかもしれないし、自分の不注意が招いた結果だったからかもしれないし、そのあたりは自分の中で判然としていないけれど、それ以降わたしはお酒を飲むということに抵抗を覚えるようになったのはたしかだった。そのあたりのことは伏せながらも、わたしはことの顛末を話した。


「今でこそ笑い話だけれどな。人はここまで苦しむものなんだということが、なんかこう、初めて切実なものとして俺の中に刻み込まれたんだ。実を言うと、お前をおいて講義へ出かけたのも後悔してたんだよ。帰ったら取り返しのつかないことになってるんじゃないかと気が気じゃなかった」と川口が付け足した。


「それは、初耳だ」


「そりゃそうさ、言ってなかったからな。笑い話になった今だから言える話だ」と言って川口はわざとらしく大きな声で笑った。


「まあ、苦しかったのは確かだけれど、ぼくは別にお酒が嫌いじゃないし、むしろ好きだよ」と言って、わたしは残りのビールを飲み干した。


 それを見ていた女性二人は互いに笑いあった。


「合田先輩も、人間らしいところがあったんですね。良かった」と夏海さんが言った。「いつもスーツだし、ゼミは黙々と受けるだけで、たまに川口先輩とかと談笑している時以外は発表とかそういう時しか声を聞かないし、ああこの人は私たちとは違う世界を歩いているんだなって、そう、思ってました」


 夏海さんは、どこか安心したようなそんな気配をわたしに伝えながら語った。


「新歓の時の合田先輩は私が酔っている間に見たまぼろしなんじゃないかなって、半分くらい本気で思っていた時もあったんですよ」


「あの時は、酔っていたんだ」


 そう、確かに、あの時は酔っていた。ただ、あの時の饒舌さには酔い以外の何かもあったのだと、そう、思っていた。まだ二回しか真面目に話していないのだけれど、わたしはたしかに彼女に対して好意のようなものを抱いているのだと、夏海さんを目の前にして実感する。


 わたしは自身の性自認については確固としたものがあるけれど、性対象については自信がなかった。ただ、今まで恋心を抱いてきたのは全員女性だった。誰とも付き合うというところまではいかなかったけれど、その時その時、わたしは彼女たちに惹かれていたと、そう思っている。美しさに見惚れたこともあったし、近くへ寄った時に感じた女性特有のほんのりとした匂いにドキドキしたことも覚えている。だから漠然と、わたしの性対象は女性だと思っているけれど、わたしのこの気持ちを揺らすのは自分以外の男性という存在の不確かさだった。わたしは彼らに同質的なものを抱いたことは一回もない。だから、今のわたしは男性という役割を演じていると言った方が近いかもしれない。ただ、役者がそうであるように役の本質を突き詰めていっても、完全にそれとなりきれるわけではないのだ。役者はどこかから醸し出されるその人自身の表現も相まって評価されるものだと、わたしは勝手に考えていた。つまるところ、わたしは男性を演じ続けるうちに、女性に対して抱く感情を自身に勝手に定義づけていったのではないかという疑念を消し去れないでいるのだ。


「酔ったときに表れる人となりも、その人を構成しているひとつの要素だって、私は思いますよ」と夏海さんが言った。


「そういうものかな」


「そういうものだと、思います」


 笑いながらビールを飲む夏海さんは、そのまま櫻井さんと川口へ「そうですよね」と念を押すように言った。わたしは人に認められるということに慣れていなくて、落ち着かない気持ちになってしまう。こそばゆいような、不安になるような、不思議な感覚だった。


「そういえば」と川口が言った。「合田はな、一年の時からそんなに周りと絡むやつじゃなかったんだよ。基礎ゼミから一緒だから、俺と合田は腐れ縁みたいなもんなんだけどさ。こいつ、周りに壁を作っていて、休み時間もいつもひとりで本とか読んでるんだ」


「前から言ってるけどな、川口。そんなやつこの大学には男女かまわずたくさんいるだろう? ぼくだけが他と浮いていたみたいな言い方はやめてくれ」


「いや、お前は特殊だったよ。だいたいそういうやつは壁があるみたいに見えるだけで、実際にはそんなもん存在しないんだ。ただ不器用なだけか、元来ひとりの方が好きかのどっちかなんだ」


「ぼくは後者のほうだよ」


「いいや違うな。お前はな、自分で壁を作っておいて、そいつが存在しているって思いっきり主張してくるわりには、誰かが近づくとその壁をあっさりと取っ払ってしまうんだ。でも離れたらまた壁を作る。それを繰り返していたのさ。いや、繰り返していると言った方が正しいか。俺は合田が随分とあやうく見えてね。だからこういう会を開かせてもらったんだ」


「ずいぶんな言いようだな」とわたしは反論した。


「でも確かにそういうところがあるかもしれません」と櫻井さんが川口に同意する。「合田先輩、新歓のときに私と話をしたこと、覚えてないでしょう? 今実際お話をしていて、それはそれですごく楽しいですし、合田先輩も楽しんでるんだって、そう思うんですけど、多分合田先輩はそこで終わりでそのあとを作ろうって感じがないんだと思うんですよね」


 櫻井さんはそう言ったあと、申し訳なさそうな顔で、「とても失礼なことを言っているなあってわかってるんですが、すみません、どうしても今言わなくっちゃいけないなって思ったんです」と続けた。


「櫻井さんがあやまることじゃないよ」とわたしは言った。むしろあやまるべきはわたしの方だ。


 正直、そうだろうなとは思っていた。新歓の時は新入生が順番に回ってきていたのだから、櫻井さんとわたしはそこで話をしているはずだ。でもわたしの中には、その記憶が片隅にだって残っていなかった。


「人の名前を覚えるのが、昔から苦手なんだ。案外、川口の言うことが根本にあるからなのかもしれないなあ」


 わたしは、ふと夏海さんの方を見た。


「なつみさんも、同じように思う?」


 うーんと手を組みながら、「そうですねえ」としばらく考え込んだあと、川口の方を向いた。


「誰も彼も全員そうならあやういかもしれませんが。でも、一人や二人例外がいれば案外大丈夫なんじゃないかなって。それは家族なのかもしれませんし、なんだったら川口先輩かもしれませんが」


「ははっ、違いない」と言って川口が笑う。「俺はズケズケと踏み込んでいくからな。そして案外居心地よくてそこでとどまって出てこなくなってしまうかもしれない」


 川口の一言で、暗くなっていた場が明るくなった気がした。自分で暗くして、自分で盛り上げる。つくづくペテン師のようなやつだなあと、わたしは思った。


「川口のことは、友達以上親友未満くらいには思ってるよ。少なくとも、大学を卒業しても交流を続けたいなあって思うくらいには」


「微妙な位置だな」


「ぼくにはもったいないくらいの男だよ」


「違いない」と川口はわたしの肩を抱きながら言った。


 わたしはその行為に嫌な気持ちを抱きながらも、男同士ならこういうこともするかと自分を納得させた。


 それからしばらく他愛ない話で盛り上がった。川口は最近はまっているという麻雀の話をし、櫻井さんは演劇部でいっしょの彼氏との仲がうまく言っていないという愚痴を吐露し、夏海さんは最近美術館へ通っているという話をした。そしてわたしは、塾で生徒に結婚していると思われていた話をした。どの話もとても興味深くて楽しく、同時に、やはりわたしだけはここで浮いているんじゃないかという確信めいた気持ちに苛まれる。でも、わたしはそれについては無視することを決め込んだ。


「そういえば」と、わたしは夏海さんの方を向いて言った。「新歓の時、ぼくの故郷の話をしたと思うんだけど」


「はい」


「なつみさんの故郷は、どういうところなの?」


「私、ですか?」


「うん」


「北海道の、札幌です。都会であることだけが取り柄の寂しいところです」


 夏海さんにしては珍しく、トゲのある言い方だった。わたしは黙って、ビールを傾けた。


「あらかじめ言っておきますが、今の私はそれなりに楽しんでやっています」


 夏海さんはそう言いながら微笑んだ。


「中学生の頃、父が家を出て行ったんです。ある日、朝当たり前のように行ってきますと言って会社へ行って、それきり帰ってきませんでした。随分あとで母から聞いたんですが、どうやら外に女をつくって燃え上がっちゃったらしく、まあつまり、駆け落ちですね。それから母は、半分くらい家庭を放棄するようになって。だから私、札幌というだだっぴろくて嫌に寒いところでずっと、ひとりだったんです。もちろん、学校には友達もいましたし、母も完全に私を見てなかったかっていうとそんなことはなかったんですよ? でも間違いなく、私はあの頃、ひとりでした。もっとも、今も一人暮らしですけどね。どこにでもあるようなお話です。どこにでもあるようなお話がわたしのところにたまたまやってきた、それだけのことなんです」


 夏海さんは、悲観するでもなくただ淡々と、そのことについて語った。何回も話してきたのだろう。川口と櫻井さんの顔を見ている限り、この二人もすでに知っていそうだった。「どこにでもある」と割り切るためにどれくらいの時間がかかったのだろう。あるいは実際はまだ割り切れていないのかもしれない。でも、こうやって話すくらいには自分のなかで噛み砕けていて、それを納得させることができているのだ思った。夏海さんは強いなと思った。


「つまり、今は、ひとりじゃない?」とわたしは言った。


「なんだろう。もしかしたら、そういう気持ちも全部、札幌に置いてこれたのかもしれないですね。ふうかもそうだけれど、気のおけない親友もできましたし、たぶん、ひとりじゃないです。でもやっぱり、私は故郷のことが、好きか嫌いかでいえば、嫌いです」


 わたしは、夏海さんに故郷の話をしたことを悔い、それから新歓の時に自分の故郷の話をしたことを悔いた。最後に、この話に心を痛めたわたし自身にそんな資格はないのだと言い聞かせた。


「辛気臭い話ばかりになってしまってごめん」とわたしは三人に対して謝った。


「辛気臭い話ってのは、大概相手の土俵にドンと踏み込むから生じるんだ。だから、この会の趣旨として間違っていないよ」と川口が言った。


 それからしばらく飲んで、わたしたちは解散した。


 帰り道、行きとは違ってわたしは夏海さんと一緒になった。川口と櫻井さんは狛江よりも新宿寄りに住んでいて、駅で別れることになったのだ。休日の深夜に酔った体でホームに立つのは何か不思議な感じがする。狛江という場所自体がそうなのか人影もまばらで、わたしと夏海さんは通過する急行と快速急行を二本見送った。飲みの席では向かいに座っていたので自然と視界に入っていた夏海さんの顔は今は横にあって、そうなると表情というものを窺い知れない。先ほどよくないことを聞いてしまった手前、夏海さんが今何を考えているのかを知りたいのに、顔さえ見えないことがわたしを不安にさせる。どうにも気になって横を向いた時、ふと、夏海さんの手が目に映った。淡いピンクのマニキュアに、わたしは新歓のときのことを思い出した。


「なつみさん」


「はい」


「新歓でなつみさんが席を立つ時にぼくの爪のこと、きれいだって、言ってたよね」


「……覚えてたんですか」と夏海さんは恥ずかしそうに言った。


「今、思い出したから、ごめん、正確には忘れていたんだ」


「ふふっ、素直ですね」


「……こういうことについては、素直でいたいんだ」


「こういうこと?」


「ぼくのまわりの人たちのことについて、とか」


 夏海さんはもう少しだけ何か言いたそうだっただけれど、すみません、脱線しちゃいましたねと言って爪の話を続けた。


「多分、合田先輩は覚えていないと思うんですけれど、ゼミの最初の日、インタビュー形式の自己紹介があったじゃないですか。互いに互いのことをインタビューしあって、それを発表することで自己紹介がわりにするあれです」


「ああ、そうか」


「はい、あの時の相手が、私です。対面でインタビューしあってたんですけど、その時になぜか先輩の爪が印象に残ったんです。あらかじめ言っておきますが、私は別に爪フェチというわけじゃないですよ。ただ、なんとなく、合田先輩の爪のことが頭から離れなくて」


 だから新歓でわたしの席にきた時、ああこの人は爪の人だと思ったらしかった。わたしは思わず笑ってしまった。あの時、話のとっかかりはスーツだったはずなのに、この女性は頭の中ではわたしのことを爪の人だと思っていたのだ。そして爪から数珠つなぎとなって新歓の時の夏海さんとの会話が明確にわたしの頭の中に引き出されていった。


「あの、先輩」


「うん?」


「その、ですね……」


 夏海さんにしては珍しく言い淀む。それから間を置いて、「実は今日の飲み会、私が川口先輩に開いてくれないかってお願いしたんです」と言った。


「なつみさんが?」


「はい」


 ああなるほどと、思った。川口があそこまでわたしにしてくれたのは、つまり川口の意志ではなかったのだ。わたしはこのことについて安堵の感情を抱いた。川口との関係性は、やはりこれくらいがちょうど良いのだと思った。


「私は先輩の壁の例外になれませんか?」と夏海さんが言った。わたしは、そのことばを頭の中で何回か反芻したあと、「たぶん、新歓の時からもう、川口のいう壁の例外だったと思うよ。なつみさんはあのとき確かにそういうものを一切気にせず踏み込んで来て、ぼくはそこに壁があるということに気づいてさえいなかったんだ」と言った。夏海さんははにかんだあと、「ありがとうございます」と言った。


 電車を降り、閉まるドアの内側にいる夏海さんに手を振って、わたしはひとり家まで歩いた。途中、何度も何度も、これで良かったの? という自分の声が頭のなかに降って湧いた。わたしはそれを必死になって振り払う。まだ正直どれくらいの気持ちなのかは分からないけれど、わたしは夏海さんに好きという気持ちを抱いているのは確かだ。今はそれをしっかりと育んでいこう、そう、思った。少なくとも、その先にわたしが望むひとつの幸せが待っているということは、確かなものだと感じられた。

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