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 朝起きて携帯を開くと、時刻はすでに正午を回っていた。教材の準備に思いの外手間取ってしまい、わたしとしては珍しく深夜三時過ぎに寝たのだけれど、やはりそれが良くなかったらしい。いつもと違う何かをすると、大抵それが良くないこととなってわたしの身に降りかかってくる。もっとも、今回のことについては自業自得と言えた。


 カーテンを開け、すでに真上近くまで登っている太陽の光を浴びてから、シャワーのために浴室を開けた。そこにあるトイレを見て、わたしはため息をついた。何もわからず上京し、家賃の相場や間取りや立地など、そういうものを考慮に入れず、二階の角部屋であるというだけで選んだ当時の自分がもし目の前に立っていたら、都会で過ごすということの意味を小一時間説いてみせたかもしれない。その中でも、バス・トイレ一体型のユニットバスだけは絶対に避けるのだと、わたしに向かって口を酸っぱくして言ったはずだ。ホテルは非日常だからあれが許されるのであって、日常生活では百害あって一利なしだと、ここに住んで二週間もしないうちに結論づけたくらい、わたしはこの選択を悔いていた。もう何度目になるかもわからない窮屈なシャワーを終えると、わたしはクローゼットにかけてある何枚ものワイシャツの中から適当に一つ選んで袖を通した。ネクタイも慣れたものだ。それから二着あるスーツのうち、昨日着ていない方を選んだ。塾講師を始めてから最初の半年は一つを着まわしてすぐダメにしてしまったけれど、二つに増やしてからはそれなりに長持ちするようになった。生き物に限らず、すべてのものは働かせすぎに注意しないといけないのかもしれない。


 電車で塾へ向かう前に、最寄りの生田駅の松屋でカレーを食べた。カウンター席しかないそこは、くたびれたスーツを着たおそらく営業などをしている数人の男性と、眠た気な顔をした大学生や勝気な顔をした大学生たちでわりと満員に近い。この松屋はいつきてもだいたい人がいるのだけれど、女性を見かける割合は少なかった。


 以前、塾講師仲間で先輩の宮田先生にこの件について尋ねてみたら、「男性が多すぎて入りにくいんじゃないかしら? ほら、ラーメン店とかも同じでさ、単純に異分子っぽくなるのが嫌なんじゃないかな。日本人って、人と違うことするのが嫌な人って多いじゃない? 例えば合田先生だって、女性しかいない下着コーナーへ一人踏み込むのは躊躇するでしょう? そういうことだと思うわ」と言って、笑った。「もっとも、私はそんなの関係なく牛丼を食べるし、ラーメンも食べるけどね」


 そんなことをつらつらと考えながらカレーを食べ終えると、わたしは職場へと向かった。電車は珍しく空いていて、たった三駅しかないけれど一人立つのも何か落ち着かないので隅の席へと腰掛けた。ふと、先ほど思い出していた宮田先生のことばが頭をよぎってわたしは苦笑してしまった。


 職場につくと、入り口でいつもどおり大きな声で「おはようございます」と一礼して、奥の方にあるタイムカードを押すと、校長と主任のもとへ行って同じように挨拶をした。


「今日は早いね」と工藤主任が話しかけてくる。


「寝坊してしまいまして」


「寝坊? ああそうか」工藤主任は入り口の方へ顔を向け生徒がいないことを確認したあとに、「そういえば合田先生は学生だったね。講義に間に合わなかったから出社は逆に早くなったと」と言った。おかしなもので、大学生が教えているということを本部が嫌がるのだ。アルバイトで教鞭を振るっているのだということに敏感な保護者の方が多いらしい。


「はい」とわたしは正直に答えた。


「順調に、学業とバイトが本末転倒しているね。合田先生の授業は評判も良いから、僕としては是非とも正社員になってほしいのだけれどもね」


「……考えておきます」


「ありがとう」


 いっそ就職してしまって良いかもしれない。最近は、特にそう思っている。それくらい、わたしは自分でも驚くくらいに塾講師の仕事に熱中していた。実際のところ、夏海さんの言っていたことも半分くらいは合っていて、わたしは高校時代に国語の教師だった中村美優子先生のことを恩師として今も尊敬している。自他共に認める理系で国語はからっきしだったわたしが、高校卒業の頃には国語を一番の得意科目とした上で、国語のことが大好きになっていたのだ。全くどんなマジックを使ったのかと、当時両親は大変驚いていた。なんのことはなく、受験国語なんていうのは説明文にしても小説文にしても論理的な解法に基づいて解くだけのもので、それこそその解法を理解さえすればむしろ理系の方が素質があると言っても良い代物なだけであった。とはいえ漠然と、将来こういう職業につくのも悪くないなと、高校の時は思ったのだ。実際、わたしは大学一年の始めに教職課程を取っていた。もっとも、道徳ごとや生徒の精神面の成長論など、わたしが本来やってみたかった純粋に生徒の学力を伸ばす一助となることが教師に求められる素質のほんのわずかな部分に過ぎないことを学ぶと、わたしはこれはダメだと自分の中で線引きして諦めてしまった。夏海さんに倣うと、わたしはそういうことが好きか嫌いかでいえば、嫌いだったのだと、実地を通して学んだわけだった。


 席に着くと、わたしは昨日苦戦して作成した教材にもう一度目を通し、間違いがないかをよくよく確認してから、今日の授業の人数分コピーを取った。わりかし良い出来で、これなら講義を欠席した対価になりそうだと自分を納得させてから、わたしは明日の教材の準備を始めた。




 今日は小学五年生への授業でしかも後コマの担当だったので、わたしは生徒たちの夕飯休憩に見守りがてら参加していた。わたしが教鞭をとっている塾は中学受験と高校受験の生徒がいるけれど、中学受験の方が格段に大変で、生徒は十七時頃から二十一時近くまで途中夕飯を食べつつずっと授業を受けている。それも、平日にだ。わたしが小学生だった頃は友達の家でゲームをしたり、だべったり、もしくは放課後にしばらく残って校庭で遊んだりしていた時間だ。わたしはその大事な時間を借り受けていることにそれなりの責任を感じている。半分かもしくは全てが親からの強制だったとしても、大人になったあとにあの時間も自分にとっては必要なものだったと思ってもらえたら幸いだ。


 彼ら彼女らにとっては束の間の休息時間に大人が割った入ることへ罪悪感を持ちながらも、一番緊張の緩むこの時間帯は生徒間のトラブルが一番起きやすい時間帯でもあるので、わたしは生徒と他愛ない会話をしながら授業の準備をしているのだった。


「先生は、結婚してるんですか?」


 一番前に陣取っている女の子の集団が、食べ終わったお弁当箱を片付けながら尋ねてきた。


「してないよ」


「えー意外!」一番元気な女の子が大きな声で言う。それから後ろを向いて、「せんせー、独身なんだってー!」と叫んだ。


 先生はまだは二十歳なんだよということばを飲み込む。騒がしくなってきていたので、わたしは「ほら、授業始める前にご飯食べきるんだよ。しゃべっているとご飯が進まないよ」と大きな声で注意したあと、先ほどの集団へ「彼女がいないとは言ってないけれど、これは内緒だよ」と小声で伝えた。すると嬉しそうな顔をして、その子達は人差し指を口元へ持って行き互いに内緒だよと言い合う。これで、少しは落ち着くだろう。


 我ながら子供の相手が上手くなったものだと、思う。目の前では二十数名の生徒たちがぼちぼち夕飯の後片付けをし始めていた。一人でゆっくりと食べている子、漢字テストの復習をしながら食べている子、前半にあった算数の出来について言い合っている子、本当にいろんな子がいた。安くはない月謝を保護者が払い、わたしはこの子たちの将来にいくらかの責任を持っている。わたしの授業の出来不出来によって当然生徒たちの成績が変わってくるわけだし、それによって受かる中学校が変わるのだ。そんなことを思いながら、わたしは生徒たちと向き合った。






「何か良いことあったの?」と隣に座っていた宮田先生が尋ねてきた。


「はい?」


「何か良いことがあったの? って、聞いたの」


「突然ですね」


「合田先生にしてはめずらしく、ぼうっとしていたから」


 言われてから初めて、テストの採点が途中で止まっていたのに気がついた。


「それで、良いことだと?」


「あら? 逆だったの?」と間髪入れずに宮田先生が言った。心なしか目がワクワクしているように見える。


 わたしは、わざと大きくため息をついてから、生徒に結婚していると思われていたんですと告げた。


「合田先生、何歳だっけ?」と、半ば笑いながら宮田先生が言った。


「二十歳です」


「田舎なら、高校を出て就職して二年経って、そろそろ結婚って頃合いよ」


「ここは都会です」


「それくらい知ってるわ。まあとにかく、高校生ならまだしも小学生や大半の中学生から見たら、大人なんてみんな同じなのよ。気にするだけ無駄。安心しなさい。私から見たら合田先生は十分若いわ」


 宮田先生は、確か三十二歳だったはずだ。たしかに、十二年後のわたしがどうなっているかなんて想像もできない。宮田先生は正社員で、とても教えることが上手な国語の講師で、わたしはそんな先生のことを尊敬しているし、教えてもらうことも多い。わたしがまだ研修だった頃に見学させてもらったのも宮田先生の授業で、高校時代の国語の恩師とはまた違った切り口の説明文の解法にとても関心したのを覚えている。ただ、何かと達観しているというか大人風を吹かせてくるようなところは、苦手だった。


「宮田先生って、結婚されてましたよね」


「してるわ。ほら」と宮田先生は左手の薬指を見せながら言った。


「結婚って、どんな感覚なんでしょう?」


「感覚って、また難しいことを……。そうねえ、うーん、たとえば部屋で互いに違うことをしていて、ふとした瞬間にくだらないことを言い合って、それを笑い合えるような、そんな感覚?」


「それが、幸せ」


「そうね。私は、そういうのが幸せって思うかな」と、宮田先生は照れたように言った。


「そういえば、お子さんは?」


「あら? 言ってなかったっけ?」と言いながら、宮田先生は携帯の待ち受け画面を見せてくれた。画面の中では、小学低学年くらいの女の子がにんまりと笑っていた。


 たぶん、この笑顔の先には宮田先生がいるのだろう。そしてその後ろか横あたりに旦那さんがいるのかもしれなかった。


「かわいいですか?」


「それこそ、目に入れても痛くないほどに」


「……いいですね」


「こんな職業だから帰りも遅いし、娘にはかわいそうなことをしているかなって思うときもあるけれど、そこは和樹さん――夫も手助けしてくれて、なんとかやっているわ」


 めずらしく、宮田先生がふんわりとして見えた。羨ましいなと思った。




 帰り道、空を見上げると、満月からは少し欠けた月が浮かんでいた。立ち待ち月くらいだろうか。都会だから星はそこまで見えないし、地上の明かりに照らされた雲が妙に輪郭濃く浮き上がる中で、月だけはただそこにあった。


 わたしはそんな夜空を眺めながら、家族を持つということについて考えていた。誰か適当な女性と恋愛をして、そのうち同棲を始めて、そして結婚する。互いに仕事をしているかもしれないし、もしくは妻の方は専業主婦かもしれない。そのうち子供が生まれる。男の子かもしれないし、女の子かもしれない。どちらにしても、その子供はわたしという父を見ながら育つのだ。誇れる父でありたいと思う。ここまでなんとかやってこれたのだから、わたしは希(こいねが)ったあの幸せを手に入れることも、可能なはずだ。


 ただ、どうしても、こういうことを考えるときはいつも最後に、もしわたしが本来の性別の身体で生まれてきていたらと考えてしまう。昔に比べて、世間はいくらか寛容になっているはずだ。性別適合手術というものがあることも、その後に法律上の性別を変更できることも、わたしは知っていた。でもそれは、わたしから生殖機能を奪うことになる。わたしが求める普通の幸せを自分から壊すことは、どうしてもできない。まだ、それを諦めたくなかった。わたしは、子供が欲しい。それはもう、わたしの奥深くに根ざす本能のようなものになっていた。

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