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「では、新歓コンパはじめまーす。かんぱーい!」


 調子の良い掛け声で始まった新田ゼミの新入生歓迎会だったけれど、わたしは居心地悪く隅の席に座って当たり障りのない会話をしながらビールを飲んでいた。新田先生の指示により、新入生は定期的に席を移動している。文学部の、しかも日本文学科なんかに入りたがる男性は本当に文学をやりたいかそこしか受からなかったかくらいしかいないのか、わたしの入った大学の学科の中でも一・二を争うくらいに男性の数が少ない。新田ゼミは近現代文学研究で、他のゼミと比べればいくらかマシだったけれど、それでも男性は三分の一ほどだ。だから居心地が悪いというわけではないけれど、わたしは女性に囲まれるのが落ち着かなかった。


「合田先輩って、なんでいつもスーツなんですか?」


 わたしの前に座った新入生の女の子が話しかけてくる。


「塾講師のバイトをしてて。ゼミは水曜日の午後でしょう? その日は直行でバイトに行かなきゃいけないから、スーツを着てる」


「なんだ、そうだったんですね。髪の毛長めですし、結構真剣にホストとかやってるのかなあって思ってました」


「よく言われるよ。言われ慣れちゃって、実際ホストも悪くないかなって思ってきてる」


「本当に?」


「それは、冗談」


 わたしが髪の毛を少し長くしているのは、わたしの身体へのせめてもの抵抗だ。それで慰むものではないけれど、短いよりはマシくらいの、そんな感覚だった。わたしは、わたしの身体を規定するものには、すでに諦観しかない。


「冗談とか言うんですね」と言って新入生の子は微笑んだ。「今日はアルバイト、お休みなんですか?」


「そうだよ。だからさ」と言って、わたしは私服のジャケットの襟を手でひらひらさせた。


 新入生の子は肩にかかるくらいの髪を茶色に染めていて、黒めのワンピースにカラータイツを履いていた。身長は女性の標準くらいだろうか。メイクはナチュラルだけれど、きちんとしているのがわかる。自身を引き立てるファッションとメイクをしっかりと噛み砕いた上で自分のものとしている感じだ。思わず見つめてしまってから、わたしは彼女の視線がわたしの方を向いていることに気づいて目をそらした。そのままわたしはビールをあおった。新入生の子は微笑みながらピッチャーをさしだしてくる。わたしはバツの悪さを感じながらも、「ありがとう」と言ってグラスを持った。


「名前、なんだっけ?」と、わたしが言った。わたしは人の名前を覚えるのが苦手だ。おそらく、彼女はゼミの一番最初の回で自己紹介をしているのだろうけれど、わたしの記憶には残っていなかった。


「柏木夏海です。夏の海で、なつみ」


「柏木さん」


「なつみでいいですよ。先輩たちはみんな名前で呼んでます」


「じゃあ、なつみさん。よろしくお願いします」


「はい、よろしくお願いします」と夏海さんがはにかみながら言った。


 夏海さんはとても人懐こく、すぐに誰とでも仲良くなれそうなくらいに、活発にしゃべっていた。わたしはどちらかといえばあまり話をしない方だし、できればひとりの方が良い。でも夏海さんは当然そんなわたしの気持ちなど知らないし、たとえ知っていたとしてもずけずけと入り込んでくるだろう。夏海さんの存在自体がそんな印象をかもしだしていた。


「塾講師はどれくらいやってるんですか?」


「一年の中頃くらいからだから、もう少しで二年になるかな」


「へえ、長いんですね」


「長くはないよ。二年じゃ、まだまだだ」


「でも、すごいと思います。私は人に教えることなんて、できない」


「そんなに大袈裟なことじゃないよ。少しだけ、そう、少しだけ導いてあげられれば、それでいいんだ。良い方向へ導くことができれば、誰でもちゃんと理解できるんだよ。でも、子供によってどのやり方が響くのかは全然違っていてね。やっぱりそこにはなんというか、経験みたいなものがいるんだよ」


「――教えることと導くことは、ちがう」と、夏海さんはしばらく考えてから言った。なにかを咀嚼しているような、ゆっくりとした言い方だった。「人を育てたくて、えっと、つまり教師になりたくて、大学に?」


「なつみさんは、痛いところ突いてくるなあ」と言ってわたしは苦笑いを浮かべた。「そんなに高尚な気持ちを持って、ぼくは大学にきたわけじゃないよ」


 実際、わたしはそんな大層な志なんて全く抱いていない。塾講師は単に実入りが良いから続けているだけだ。大金が必要になった時に、充分な蓄えがないといけないから。ただ、なんとなくこの理由を夏海さんに伝えるのは気が引けてしまった。夏海さんを失望させたくないのか、わたしが失望されたくないのか、どちらが理由なのかはわからなかった。わたしは代わりに、もうひとつの理由を伝えることにした。


「ぼくはね、故郷が大好きなんだ」


「故郷」


「そう。岐阜の中津川市というところなんだけどね、まあ、当時はそんなに田舎だなんて思っていなかったけれど、今から見ればあれはド田舎かな。ぼくの生まれたところは保育園から中学校まで、同級生の顔ぶれが全く変わらずに十二年間ずっといっしょなんだ。言ってしまえば、同級生五十五人が全員幼馴染なわけさ」


「中学に入る時、他校と混ざったりしない」


「うん」


「学区が変わらないんですね」


「そうだね。変わらないのが当たり前のような世界だった」


 箱庭のような場所で、ぬくぬくと育つ。たまに接する外の世界は非日常で、それはそれで楽しかったけれど、わたしはどうにも慣れ親しんでいく故郷での生活が好きだった。わたしはここで成長し、就職し、結婚し、子供を作り、やがては実家を建て替えたりしながら一生を過ごしていくのだと、漠然と思っていたのだ。でも、それがいつの間にか怖くなっていた。それはわたしの体のことも多分に関係していたけれども、それ以外の何かも、含まれていたはずだ。有り体な形で言ってしまえば、わたしは好きだから離れたくなってしまったのだと思う。あるいは、大なり小なり変われど全体としてはそのままの形であり続ける故郷に、緩やかな死を重ねたのか。むしろ変わることを恐れたのか。今でもあの頃の気持ちをことばであらわすことは難しい。とにかく、わたしはそうして高校は地元から離れたところを選び、そのまま大学入学とともに上京した。


 酔いに任せて、わたしは自分の身体のことは伏せつつも、だいたいこのようなことをひたすらに夏海さんへ語った。一通り話しきったあとでしまったなあと思ったけれど、後の祭りだった。


「ごめん、柄にもなく、しゃべりすぎてしまった」


「柄にもないかどうかは、わからないですが」と、夏海さんは自分の手を開いたり握ったりしながら言った。「合田先輩は、塾講師のお仕事、好きか嫌いかでいえば、好きですか?」


「好きか嫌いかでいえば、好きだよ」


「故郷も、好きか嫌いかでいえば、好き?」と、夏海さんはわたしの目を見て言った。


「うん、好きだ」


「なら、いいじゃないですか」


 夏海さんはそのまま目の前にあった焼き鳥にかぶりついた。その食べ方があまりに美味しそうに見えたので、わたしも同じものを口にする。期待とは裏腹に、どこにでもある居酒屋のどこにでもある焼き鳥の味がした。


「好きなら、それが一番です。私はそう思います」夏海さんは念を押すように言った。わたしには、それが自分に言い聞かせているように見えた。


「なつみん、移動だよー」と新入生の誰かが言った。


「あ、先輩、ちょっと手、見せてもらっていいですか?」


 立ち上がる前に、何かを思い出したように夏海さんがそう言った。わたしが手を差し出すと、そのまま手を掴まれ、爪をまじまじと見られた。


「やっぱり。先輩、爪きれいですね」


 夏海さんはそう言ったきり、席を立ち上がって少し先に座っていた同級の川口の元に座った。わたしは彼女に触られた手に視線を落とした。そこまで男らしいとは思っていない、自分の手。爪も女爪だし、ごつごつしてもいない。それでも、一瞬重なった夏海さんの手はやはり女の子らしい手で、爪に塗られた淡いピンクのマニキュアがわたしの頭から離れなかった。

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