わたしにもどる
@asukaleido
序
深夜一時を回った頃だったと、思う。
父母と弟たちはこんな時間に起きてこない。気がかりなのは祖父で、一時間に一回くらいトイレへ起きてくる。とはいえトイレは居間からそれなりに離れているし、経験上祖父がトイレに起きてから居間までくることはあまりない。わたしは、「だいじょうぶ」としっかり口に出して言ってから、新聞を開いて床に敷いた。それからパジャマのズボンとトランクスを下ろして新聞の前へ半立ちになると、目の前に見えるペニスを祈るように見つめてから、手のひらで握り上下に動かした。田んぼから聞こえていたカエルの声が徐々に遠ざかり、自分の息づかいだけが周りに満ちていく。そして同時に、言いようのない気持ち良さがわたしを支配していった。わたしはその気持ち良さに悲しみを感じながら、それでも最後までやり遂げるため手の動きを加速させる。どれくらい時間が経っただろう。「うっ」という声が喉から漏れ出たあと、わたしは射精した。精通だった。精液は思いの外飛び散ってしまい、敷いた新聞を飛び越えて床の絨毯にも少しかかった。わたしは急ぎそれを拭き取ると、新聞の上に溜まっているそれを恐る恐る親指と人差し指で触った。ゼリーのようにぷるんとしたそれの感触に吐き気を覚えたけれど、我慢して手を鼻の近くまで持って行き、匂いをかぐ。いろいろな表現のある匂いであることは知っていたけれど、わたしにはそれが栗の花の匂いであると感じられた。ふと、保育園に通っていた頃、みんなで遠足に行った日のことを思い出した。新緑の中、突然むせかえるように香ったその匂いに、良幸くんが、「うわ、くっせえ!」と叫んだのだ。それにつられてみんなも合唱のように「くっせえ!」を連呼した。わたしはその時先生に手を繋がれていた。その匂いの出どころを頑張って探していたら、先生が「これはね、栗の花の匂いやよ」と言った。まだ無知だった頃。わたしは、この匂いをくさいと感じていたのだろうか。少なくとも今は、くさいとは思わなかった。そういう気持ちよりも、世間一般において定義される精液と同じ匂いのするものが出たという事実に、わたしは、ああ、やはりそうなのかという諦観を抱いていた。わたしはそのまま人差し指をそっと舐めた。生臭さと苦味が口の中に広がっていく。不思議と匂いと味には吐き気を覚えなかった。わたしはティッシュで性器を拭き取ったあと、新聞とともに音を立てないようゆっくりと丸めて、そのままゴミ箱へ突っ込んだ。それから、トランクスとズボンを上げた。気づけばカエルの声は戻っていて、居間にかかっている時計の音がカチカチと妙にうるさく響いている。わたしはしばらく放心した。インターネットで仕入れた知識と全く同じことがわたしの体に起こったのだ。つまり、わたしのペニスは至って正常に機能していて、わたしの体は男性として成熟したということだ。その事実を突きつけられるのと同時に、わたしの体が鈍く重くなっていく。完全に間違いであるはずだ。でも今は、その気持ちさえ曖昧になっている。ああ、完全に分岐してしまったのだ。これでもう、わたしの
中学二年、梅雨の終わり頃だった。
男女に違いがあると気づいて以来、わたしの身体が間違っているからわたしは男性として扱われているのだと思っていた。間違いはいつか必ず正されるはずで、そうなればわたしは正しい性別で扱われるのだと信じていた。そんな淡い考えは打ち砕かれてしまった。あの日、わたしは自身が性同一性障害であるのだと、否応がないほどに自覚した。
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