二、現象

 沖縄旅行から帰ってきてから昌一は夜中金縛りにあうようになった。

 ひどく苦しく、うなされて、目を覚ますと、何故か両腕を頭の上に伸ばして「バンザイ」している。そのかっこうのまま体がびくとも動かず、気が焦り、ひどく不安になって、息が詰まってパニックに陥りそうになる。目は開く。暗い部屋を見渡し、その暗がりの中に何かいるような気がするのだが、暗がりは暗がりでしかない。息が苦しく、このままでは本当に気がどうにかなってしまいそうで、

 ああ、お願いです、助けてください、

 と必死になって頼むと、やがて金縛りは解け、昌一はほっとして、痺れた腕を布団の中に戻し、疲れ切って眠りに落ちていくのだ。

 そうして朝、目を覚ますと服と布団がまるで水を被ったようにぐっしょり濡れているのだった。


 そんな夜を過ごしてひと月ほど経った頃だ。

 昌一は製パン工場に勤めている。

 朝から夕方までと、夜から朝方までの時間帯を一週間ごとにローテーションしている。夜勤務で昼間寝ているときは金縛りにあわない。アパートの周りが騒がしいのが幸いしているのかもしれない。

 その日は夜間の仕事で、夕方五時を過ぎてアパートを出た。昌一は通勤にスクーターを使っていたが、この日は雨が強く、面倒だがバスと電車で行くことにした。まずバスで駅に出て、駅から電車で三駅乗るのだ。

 駅に着いたのがちょうど六時頃。電車に乗ると、珍しくすいていて座席に座ったが、その後で乗り換えの客がどっと乗ってきた。電車が発車し、昌一は前に立った若い妊婦に

「どうぞ」

 と席を譲ろうとしたが、

「いえ。ありがとうございます。でも立ってる方が楽なので」

 と笑顔で断られてしまった。そう言われると昌一も立つわけにいかず、なんとなく居心地悪い思いをしながら座っていた。

 ところが、斜め向かいの座席で、ひどく態度の悪い客が座っていた。

 頭を金色に染めた、派手なかっこうをした、ちょうど昌一と同い年くらいの男で、混雑しているにも関わらず脚を組んでふんぞり返って二人分の席を占領し、耳に掛けたヘッドホンからジャカジャカとうるさい音楽をかなりの音量で外に漏らしていた。

 今電車に乗っているのはほとんど帰宅途中のサラリーマンや学生だろうが、中にはお年寄りも混じっている。

 いい年した若者がなんのつもりでこういう態度をとっているのだろうと思う。悪ぶってかっこつけている、ひどく底の浅い最低のクズ野郎にしか見えない。

 昌一はたまたま出来た人垣の隙間からそいつを白い目でじっと睨み付けた。

 ジャカジャカ音楽に首を振っていた男が、昌一の視線に気付き、しばらく睨んだ後、チッと舌打ちして立ち上がると、

「おら、どけよ」

 と乗客を押しのけ昌一の前まで来た。そいつが妊婦の肩を突き飛ばすようにしたので昌一はますますカッとした。

 男は音楽を鳴らしたまま大声で、

「おい、なんだてめえ? なんか文句あんのか、おらあ?」

 と凄んだ。男は背だけは高い。しかし昌一は毎日工場で重い小麦袋を運んでいるので腕っ節には自信があった。来るなら来い、手を出したら奥歯を半分吹き飛ばしてやる、と思いながら怖い目で睨み返し、言い返した。が、その口から出た言葉は昌一自身思いがけないものだった。


「不心得者め! 貴様それでも日本男児か!?」


 ひどくドスの利いた声で言って、昌一自身何を言ってるんだとびっくりした。周りの乗客たちもギョッとして固まってしまった。しかし男は音楽で聞こえなかったらしい。

「なんだって?バア〜カ」

 へらへら笑って挑発するように言った。

 昌一の心に、カアッと、激烈な怒りがわき上がった。

 鬼のように目を怒らせて立ち上がり、男は

「やるのかこらあ〜?」

 と歯を剥き出して顎をしゃくらせ、昌一は拳をぎゅうっと握りしめた。自分から先に手を出しては拙いと自制する気持ちもあるのだが……

 昌一を睨んでいた男が急に変な顔をした。

「あん? なんだ?」

 ガシャガシャうるさい音楽に耳を澄ますようにして、

「……………………………

 うわ、

 うわわわわわああっ、」

 顔を真っ青にして慌てて耳からヘッドホンを外すと、ポケットの携帯音楽プレーヤーごと床に投げ捨て、音の大きくなったうるさい音楽をじいっと見つめ、やおら足で踏みつけ、二度三度、ひどく怯えた様子で踏みつけ、踏みにじり、音楽の途絶えた機械を、「ブルッ」と恐ろしそうに震えて見つめ、ちょうど次の駅に到着すると、ハッとしたように大急ぎで下りていった。

 乗客の出入りがあり、昌一は近くに流れてきたおじいさんに

「どうぞ」

 と席を譲り、吊革に掴まり、不思議そうに壊れた携帯音楽プレーヤーを見下ろした。

 あの男は、何を聞いたのだろう?

 ……………………




 工場での仕事が終わった。

 着替えをして、門の所に立ったのがちょうど五時。

 雨はまだぽつりぽつりと細かいのが降ってくるが傘を差すほどではない。代わりに重たくじめっとした空気を纏いながら、仕方なく昌一は歩き出した。駅までまた二十分以上歩かなくてはならない。車を持たない身にはたいへん不便な場所だ。

 日の出にはまだまだ時間があり、空は真っ暗だ。

 昌一は大きくカーブする大通りをショートカットして住宅街に入っていった。昼間なら遠慮する狭い私道をお邪魔し、庭の中や寝静まった真っ暗な窓を覗いていく。

 昌一も出来たら昼の時間帯に固定した仕事がしたいと思うのだが、給料のことを思うとそれは難しい。昌一は現在契約社員の身だ。正社員になれれば腹をくくってこっちの方に引っ越し先を捜す気にもなるのだが。

 静まり返ったまともな生活者たちの住みかでため息をつき、騒がしくも温かな寝床の我が家を思って歩むスピードを上げた。頑張れば一つ前の電車に乗れるかも知れない。逃せば、三十分駅で待たなければならない。

 濡れた路面を歩き、真っ黒な陰の中で水たまりに足を突っ込んでしまって「わっ」と慌てて横に飛び退いた。

「あーあ、ついてねえなあ」

 濡れた靴下を気持ち悪く思いながら歩き続けた。

 足音が聞こえた。

 昌一は立ち止まり、耳を澄ませた。

 足音は複数だが、それがきれいに揃って行進してくる。

 ダンッ、ダンッ、ダンッ、ダンッ、ダンッ、ダンッ、

 と。

 硬い靴底が揃ってアスファルトを打ち鳴らし、整然と、

 あちらの角を、今………。

 昌一は彼らが現れる前に早足で先の角を曲がって、気配を気取られぬように静かに急いで歩いた。

 ダンッ、ダンッ、ダンッ、…………………

 足音は遠ざかっていって、なお耳を澄ましていると、

 …………………ダンッ、ダンッ、ダンッ、ダンッ、

 再び近くへ迫ってきた。

 昌一はまた角へ逃げ込むと、今度は一目散に走り出した。

 ダンッ、ダンッ、ダンッ、ダンッ、ダンッ、ダンッ、

 走っても走っても、足音は昌一と平行に行進してくる。

 昌一はあっちの角、こっちの角と曲がりながら必死に走り続け、途中フェンスに傘を引っかけて、そのまま放り出して走り、いつまでも付いてくる足音に、

 何故だ!?

 と非難するように思った。

 どうして自分に付いてきたんだ?

 祟るんなら、ほら、そう、たばこをポイ捨てしていたおっさんがいたじゃないか? ああいう奴に祟ればいいじゃないか? どうして俺なんだ? 俺はなんにも悪いことなんてしてないじゃないか!?

 めちゃくちゃに住宅街を駆け回った昌一は、いつの間にか大通りに飛び出し、横断し、歩道を走りながら、振り向くと、

 ダンッ、ダンッ、ダンッ、

 兵隊が二列縦隊で行進してくるのが見えた。

 昌一は前を向いてひたすら走り、息が切れて、隠れる場所を探した。

 道は川に合流し、やがて大きな川に合流した。合流地点に水量を調整する堰(せき)があり、息の切れた昌一はそのコンクリートの塔の陰に逃げ込んだ。

 背中に湿った石の冷気を感じながらハアハアと息をつき、そうっと道を覗き見ると、

 ダンッ、ダンッ、ダンッ、ダンッ、ダンッ、

 兵隊の行進はすぐそこまで迫ってきていた。

 昌一は硬く目を閉じ、

 頼む、頼む、来ないでくれ、見逃してくれ、お願いだ、

 と祈り続けた。

 頼む、頼む、見逃してくれ………………

 そうっと目を開け、振り返ると、

 すぐ目の前で兵隊が整列し、じっと昌一を見つめていた。

 昌一は腰が抜けそうになりながら後ずさり、ドン、と、背中を手すりにぶつけた。昌一は後ろを見た。手すりの下には黒い水がドオドオと音を立てている。

 左手にはコンクリートの塔、右手は川の土手が続いているが、昌一はなんとなくそっちの方角が怖かった。土手の下の川原を見るのが恐かった。そこに何か恐ろしい物が累々と続いているような気がするのだ。

 昌一は泣きそうになりながら正面を見た。

 真っ白な顔をした兵隊がじっと昌一を見ている。

 すごく厳しい顔で、何か強固な一つの意志を感じる。

 彼らはその意志を、昌一にも持てと迫っているようだ。

 昌一は足が震えて、逃げ出したくて堪らなかった。

 どうして? なんで?、とまた思う。

 どうして俺ばっかりが。

 じっと昌一を見つめていた先頭の兵士が、しびれを切らしたように抱えていた銃剣の先を昌一に突き出した。

 さあ、覚悟を決めろ!、と。

 昌一は鋭い刃先を見て、

「ば…………、バンザーーイっ!」

 と叫んで両手を高々と上げた。

「ばっ、ばんざーい!」

 大声を上げて、どおっと熱い涙が噴きだしてきた。

 昌一は足元の地面がふっと無くなり、背中に冷たい風が当たるのを感じ、落ちている、と感じた。

 どっ、と、冷たい感触に包まれ、金縛りの朝にぐっしょり濡れた布団を思い出した。

 記憶は更に遡る。

 バンザイのかっこうで金縛りになった体で、昌一は、どうしようもなく悲愴な思いでいた。

 ぎりぎりまで追いつめられ、焦燥が諦めになり、

 ええい!と思い切って、

 昌一の脳裏に浮かぶのは沖縄旅行で訪れた、海に突き立った断崖絶壁だ。

 暗く荒々しい波の打ち寄せる海。

 重い水の圧迫感と、息苦しさと、自分の体内からどんどん抜け出ていく生命力。

 なんでだっ!?

 という悔しい、悲愴な思い。

 何故自分たちだけがいつまでも苦しい思いを続けなければならない!?…………………

 暗い感情が荒れ狂い、

「ばんざあい!」

 と大声で叫んで両腕を高く上げる。

 …………………………………。

 そっと目を開けると、

 犬を連れた中年の婦人が気味悪そうに向こうの歩道からこちらを見ていた。

 昌一は呆気にとられて、辺りを見渡し、兵隊がいないのを見ると、

「た、……助か……ったあーー……………」

 上げていた腕を下ろし、へなへなとしゃがみ込んだ。

 昌一はぼろぼろと涙を流していた。それはいつまでも止まらず、犬を連れた婦人はそそくさと行ってしまった。

 昌一は自分に涙を流させている感情が自分の物ではないように感じながら、それでもその感情を閉め出そうという気にはならず、立ち上がって歩き出しても、涙を流し続けた。

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