第10話


 アーマイゼが高熱を出した。城に住むせんぞくのお医者が、自分の医療箱のふたを閉じて、クモ姫につたえた。


「絶対安静にいたしますように」

「わかった」

「それでは失礼しますじゃ。はあ。きんちょうで肩がこった。やれやれ。アイスが食べたいわい」


 医者が部屋から出ていった。アーマイゼはとてもくるしそうに顔をゆがませている。クモ姫はそれを見て、窓をあけ、自分はベッドのそばに置かれたイスに座った。アーマイゼが汗を流している。それをやわらかいタオルでクモ姫が直々にぬぐってみせる。


「……」


 アーマイゼはくるしそうに浅い呼吸をくりかえす。注射は打った。なのに、まだくるしそうだ。姫様、おくすりにはお時間がかかりましてですな。うるさい。だまれ。さっさと治せ。アーマイゼがくるしそうだ。すごくすごくつらそうではないか。早くしろ。早くアーマイゼを治せ。


(アーマイゼ)


 手をにぎることしかできない。クモ姫の糸で、病は治せない。治せるのなら、とっくのとうに目の前にいる彼女の病を治しているだろう。


(バカな娘だ)


 わたくしから逃げなければ、こんなことにはならなかったのに。


(わたくしの腕の中で、大人しく笑っていればよかったのに)


 抱きしめれば、頬を赤くさせて、はにかんで、タブレットをふところから取り出して、自慢げにしゅっしゅっと指を動かして、アニメを一緒に鑑賞する。熱心に解説するアーマイゼを見ているのは嫌ではなかった。時々アニメを見る目があつすぎてイラッとしたけれど、でも、時々かならず自分を見上げてくるアーマイゼは、どこかうれしそうに笑っていた。


 アーマイゼだけだった。クモ姫の腕の中で、そんな笑みを見せる人物は。


「クモ姫様」


 声がききたい。


「姫様」


 うれしそうに笑うその声がききたい。


「いやっ!!」


 拒まれた。


(……)


 これで離婚は成立だ。よかった。よかった。これでおたがい自由になれる。クモ姫がずっとのぞんでいたことが、ようやく叶う。


(……)


 クモ姫がアーマイゼの手をにぎって離さない。汗を流せば、タオルをやさしく押しつけた。荒い呼吸をくりかえせば、やさしく体をとんとんたたいてみた。アーマイゼがくるしそうにうなった。額にキスをした。アーマイゼが手を力ませた。クモ姫がやさしくにぎりかえした。アーマイゼのまぶたが動いた。口が開いたと思えば、悲鳴をあげた。


「いやぁあああああ!!!!」

「っ」


 とつぜん、暴れ始めたアーマイゼをクモ姫がだきしめた。


「アーマイゼ」

「いやっ! いやです! やめてください!!」

「アーマイゼっ……」

「たすけて! クモ姫様!! クモひめさまぁ!!」

「っ」


 クモ姫はおびえるアーマイゼをさらに強く抱きしめ、震える背中をなで、できるかぎりのやさしい声でささやいた。


「アーマイゼ」

「……っ」

「落ちつきなさい」

「……。……クモひめ、さま……?」

「わたくし以外に、だれがいる?」

「……っ……」


 アーマイゼが必死にクモ姫にしがみついた。


「……っ、……っ……!」


 肩を震わせ、ほろほろとなみだを流す。それはクモ姫のことをこわがっている、というよりも、クモ姫の腕のなかで、まるで彼女にたすけを求めるように必死にしがみついているようだった。アーマイゼの行動にクモ姫はとても奇妙に感じ、違和感を覚えたが、今はその真意をかくにんするどころではない。


(ひどくおびえてる)


 やさしく、やさしく、この長い手が絶対に彼女が傷つけないように、とてもやさしく、クモ姫はアーマイゼをなでた。


「アーマイゼ、落ちつきなさい」

「……ひめさまっ……」

「慣れない高熱が出てパニックになっているんだ。勝手にわたくしの胸で暴れるな」

「……ごめんなさい……」

「……ああ」


 アーマイゼがクモ姫の胸で大人しくなる。鼻をすすり、なみだをしたたかせ、目の前のぬくもりにしがみつく。手の震えが止まらない。だから、その手に手を重ねて、ゆっくりと包むようににぎりしめれば、アーマイゼがためこんだ息を大きく吐いた。まだかなりだるそうだ。


「今日は一日寝てなさい」

「……はい……」

「……」

「……」


 おたがいにだまる。呼吸の音だけがきこえる。アーマイゼがクモ姫の胸に顔をかくした。クモ姫がアーマイゼの頭をなでた。


 そして、きいてみた。


「アーマイゼ」

「……はい」

「あの山で、何をしていた」

「……あの」


 アーマイゼが頬をすりつけ、目を閉じた。


「花を、つみにいってました」

「……花、だと?」

「キツネさんが教えてくださったんです。……あそこには、とてもきれいな花が咲いていて、クモ姫様は、その花がとてもお好きだと。つんでさしあげたら、きっと、およろこびになるって……」


 アーマイゼがくるしそうに微笑んだ。


「あなた様が、すこしでもよろこぶ顔を、わたしが、……見たかっただけなんです」

「……」

「だから……わたしの勝手なわがままで、山へいきました。……申しわけありません……」

「……」


 クモ姫がそっと、アーマイゼの顔をのぞきこんだ。そこには、いつものアーマイゼの顔がある。とぼけ、まぬけそうな顔が。クモ姫はまたきいてみた。


「逃げた、のでは、ないのか?」

「逃げる? ……なにから、逃げるのですか……?」


 アーマイゼがぽかんとした顔をうかべたのを見て、クモ姫は気づいた。ちがう、と。話の内容からすると、キツネだ。キツネは、そうか。以前、厨房から食べものを盗んだ、あのキツネか。あいつがこの無知な女にいらない知識を吹きこんだのか。それを信じて、この女は――。


(だが、……なぜ、そんな行動を……?)


 クモ姫はなんとも不思議だった。だって、みんなにおそれられているクモ姫のよろこぶ顔を見たいがために、山までいくものなど、今まで、だれもいなかったから。


「アーマイゼ」


 だから、クモ姫はきいてみた。


「なぜ、わたくしのよろこんだ顔など、見たいと思ったんだ?」

「それは、姫様が……」


 アーマイゼの言葉がつまった。


「なんだ? わたくしが、なんだ?」

「……」

「言え」

「……すみません。姫様。これは、わたしの勝手な『エゴ』でございます」


 ただの、わたしのきもちの押しつけです。


「……姫様は、わたしのことがお嫌いでしょう?」

「……嫌いだと? わたくしが? お前を?」

「うふふ。……おとぼけた真似なんて、よしてください。わたし……わかっておりました。クモ姫様が、わたしのことを好いていないこと」


 よく物あつかいしてきたから。


「……」


 クモ姫がすこしだけ顔をしかめてだまった。


「わたしは……たしかに、家具同然の、小さな存在です。姫様の眼中にも入ることはない、とても、小さな女です」


 でもあなた様を知ってしまった。

 あなた様といろんなことをすごした。


「すこしでも……好いて、いただきたかったんです」


 アーマイゼがクモ姫の手を持ちあげ、みずからの頬にふれさせた。なんてあたたかい手なのだろう。アーマイゼは目をつむる。


 あなた様にあこがれております。

 あなた様を心から尊敬しております。

 クモ姫様みたいにかっこいい女になりたい。

 どうしたら好かれるかしら。

 どうしたらよろこんでくださるかしら。

 この想いはとどかない。


「わたしは……」


 とどけるためには言葉を使うことだと、母から学んだ。アーマイゼは目を開け、しっかりと、ぼやける視界にうつるクモ姫をまっすぐに見つめた。


「お慕い申しているのです。クモ姫様」


 その言葉をきいた瞬間、その目を見た瞬間、クモ姫の世界がくずれた。

 闇夜のなかにひとつのとんでもないかがやきを放つ太陽。その太陽にふれる自分の手。黒いひとみが見つめてくる。


 とつぜん、クモ姫の心臓が大きく高鳴った。そして、こう思った。なんてことだろう。アーマイゼから、愛のプロポーズをされてしまった。


「ちなみに、『お慕いしてます』って、『好きです』って意味だけじゃなくて、あこがれてる人に、『おれ、あんたにちょーあこがれてるっす!』って言う時にも使うのよ」

「へーえ」


 使用人たちが廊下で世間話をした。

 一方、アーマイゼは思った。だまって出ていくのはたしかに良くなかった。危険な目にあうかもしれない可能性を考えてなかった。とんでもない迷惑をかけてしまった。


「……ですが……こんなことに、なってしまって……ご迷惑を……おかけしてしまって……」

「……」

「ご心配を……おかけしました。……本当に……ごめんなさい……」


 痛々しいアーマイゼを見て、クモ姫の指が動いた。外をのんきに歩いていたキツネが、とつぜん糸に巻きつかれてしまった。


「いだだだだ! なんだ!? 見えない糸にからまれて……なにぃ!? 糸だと!? あだだだだ!! ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!!」


 糸がお尻ペンペンしてくる。


「ひいいいい! ゆるしてぇえええ!!」

「花なんぞいらん」


 クモ姫がアーマイゼだけを見つめた。


「お前がいれば、それでいい」

「……姫様……」

「……アーマイゼ」

「……はい」

「わたくしは、お前を嫌いではない」

「……え?」

「お前はどうだ?」


 クモ姫がしんけんな目で、アーマイゼを見つめる。


「お前はどうなんだ?」


 クモ姫が震える息を吐き、吸って、きいた。


「わたくしを、どう思ってるんだ。むずかしい言葉を使わず、かんけつに簡単に、キツネでもわかるように答えなさい」

「……えっと……」


 アーマイゼが答えた。


「心より……尊敬しております……」

「ちがう」

「えっ」

「アーマイゼ、わたくしは尊敬なんて言葉を使えと言っているのではない。感情をきいている」

「……感情……?」


 アーマイゼが目をそらし、考えようとしたところで、クモ姫がその顔をのぞきこんできた。そのとたん、アーマイゼはとてもはずかしくなってしまった。どうしてだろう。クモ姫様の顔は、もう見慣れているというのに。そんなにしんけんなまなざしで見られたら、胸が、どきどきしてきてしまう。


「人が人に思う感情は、好きか嫌いか、それだけだ。わたくしが、好きか? 嫌いか?」

「す、好きか、嫌いか、ですか……?」


 その言葉を言った瞬間、アーマイゼの胸が大きく高鳴った。クモ姫を、好きか嫌いかなんて、そんなの、好きに決まっている。心からあこがれている姫様。だけど、――好きの中に、ちがう感情がまざっていることに、今初めてアーマイゼは気づいてしまった。


 そして、自覚したとたん、アーマイゼの世界はほうかいし、新しい世界が見えた。

 目の前にはクモ姫がいる。

 いつも凛としていてかっこいいあこがれのお姫様。毒どくしい紫の髪の毛がうつくしく、彼女のするどい目で見られたら、また胸が激しく運動を始めてしまう。


 好きか、嫌いか。


「わ、わたし」


 その言葉を出してしまえば、全てがくずれてしまう気がして。


「アーマイゼ」

「そんなに、見ないで。……はずかしい、です……」

「なぜはずかしい? 夫婦ではないか」


 そうだ。わたしと彼女は夫婦である。

 そうだ。わたくしとお前は夫婦である。


 アーマイゼの顔が赤くそまった。

 クモ姫の心臓は、激しい運動会を開催している。


「クモ姫様……」

「アーマイゼ、言え。好きか、嫌いか」

「わ、わたしは……」


 アーマイゼがその気もないのに、なぜかうるんでしまった目をクモ姫に向けた。そして、弱々しく、固く、言葉が出る。


「わたし……っ」


 胸が高鳴る。


「わたしはっ……」


 もう、夫婦であるのに、夫婦であることを理解していなかった。この人と、夫婦であったことが、こんなにもうれしいことだったなんて。


「すき」


 アーマイゼが小さく言った。


「好きです」


 顔を赤くそめて、


「クモ姫様」


 心臓が動いて、


「だ、だい……」


 目を閉じて、叫ぶように言った。


「大好きですっっ……!!」


 ――瞬間、クモ姫は思った――この女、わたくしの嫁にしよう――あ、もう嫁にしてたんだ。

 そうだ。こいつは、わたくしの正妻だった。


「……ふむ」


 真っ赤な顔で目をつむらせ、体を震わす彼女を、また、ふたたび、やさしくやさしく自分の胸に埋める。


「大好きか」

「……」

「そうだな。そこまで言われたら仕方がない。わたくしはお前の妻。わたくしは別にもともとお前のことを嫌いではなかったが、お前がそこまでわたくしに夢中なのであれば、大好きなのであれば、いやいや、仕方ない。一方的な愛ほどさびしいものはない。仕方がない。本当に致し方ないが、特別にわたくしはお前のことを好きになってやってもいいだろう」

「……ほ、本当ですか……?」


 なみだ目のまま顔を上げて、クモ姫を見つめてくるアーマイゼがかがやいて見えた瞬間、クモ姫の手が、子どもには言えない大人なことがしたくなって、くわっと広がったが、まだその時ではないと叫んだ理性のおかげで、クモ姫はなんとかこらえ、アーマイゼの背中をやさしくなでた。


「クモ姫様、ほんとうに、わたしを、好きになってくださるのですか……?」

「ああ。そこまで求愛されたら仕方がないからな」

「……うれしいです」


 アーマイゼがうつむいてはにかむ。


「おそばに置いていただけるだけでも、わたし、とてもうれしいんです。なのに、好きにもなっていただけるなんて……」


 アーマイゼが心から思った。


「感謝感激雨あられ。貧乏人のわたしに、こんな幸せが来るとは思いませんでした。あなた様の愛をうけとれるなんて、なんてわたしは贅沢者なのでしょう」

「そのとおりだ。大切にしろ」


 ……とたんに、クモ姫は、はっ! として思った。さっきよりもアーマイゼがだるそうではないか。ちゃんと寝かせてやらないと。


 だから、やさしくベッドに押したおした。


「ほら、わかったら眠りなさい」

「あっ……」


 前髪をどかせて、やさしく額をなでる。


「まだあつい」

「も、申し訳ございません。クモ姫様」

「なぜ、あやまる?」

「だって、あなた様に病気が移ってしまいます。なのに、わたしったら、求めすぎて、あなた様にふれてしまいました」


 小さな手がクモ姫から離れた。


「おゆるしを……」


 しかし、ふたたびその手をやさしくにぎられる。


「あっ」

「わたくしがお前ごときの病に負けると思っているのか」

「姫様……」

「少し寝なさい。薬が効かなくなってしまう」


 額にやさしく唇をあてれば、アーマイゼがきゅっとシーツをにぎりしめた。


「……クモひめさま……」

「寝なさい」

「……はい……」


 こわくはない。だって、そばにクモ姫がいる。手をにぎりしめてみれば、ああ、なんてうつくしい手なのかしら。こんな手ににぎってもらえるなんて、わたしはなんて贅沢者なのかしら。感謝感激雨あられ。神様、今だけ求めてしまうことをおゆるしください。こんなに甘い時間は、初めてなのです。


「……クモひめ、さま……」


 アーマイゼがゆっくりとまぶたを下ろす。クモ姫はやさしく、やさしく、アーマイゼをなでた。


「おやすみ。アーマイゼ」


 キスをする。


「……すまなかった」


 ささやく。


「これからは、大切にする」


 そして、眠った彼女に言う。


「愛してやる。アーマイゼ。わたくしのたった一人の妻」


 またクモ姫がアーマイゼにキスをするころ、お尻が赤くなったキツネがめらめらと復讐に燃えていた。猿にまちがわれてしまった。ちくしょう。クモ姫め、絶対に許さないからな! ああ、それにしてもお腹すいた。お魚食べたいな。


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