第9話
わたしは、クモ姫様に拾われた。よくわからないけど、とつぜん結婚してしまった。最初こそすごくとまどったけれど、でも、最近は少しだけ楽しくなってきたの。いいえ。それ以上。
クモ姫様に会える毎日が、とても愛しくて、尊い。
アーマイゼが花に水をやりながら、ため息をついた。
(けれど、わたしは嫌われている)
しょせん、わたしはクモ姫の物あつかい。家具同然。
(それでも、ほんの少しでも、お役に立ちたい)
クモ姫はどんなことをしたら、笑ってくれるだろうか。そんなことを思っていると、ごはんを盗んでクモ姫にひどい目にあわされたキツネがやってきた。
「やや、お困りですかな? 王妃様」
「あら、キツネさん。可愛い。よしよし」
「あらやだ! くすぐったい! きゃはははは!!」
こほんこほん。
「王妃様、お悩みですか? わたくし、キツネめでよろしければお話をおうかがいしましょう」
「キツネさん、クモ姫様がよろこぶことってなんなのか、ごぞんじですか?」
キツネはこの瞬間、クモ姫に対するふくしゅうを思いついた。食べものを盗んだからってお尻ペンペンされたこと、忘れちゃいねえさ。よし、クモ姫の結婚相手は阿呆そうだ。ここはいっちょ、いたずらしてやろうってね。キツネはこほんこほんと笑った。
「そいつはね、王妃様、むこうに山が見えるでしょ。こんこん。あそこの山にはね、それはそれはうつくしくてきれいな花が咲いてます。クモ姫様はね、その花が大好きなんですよ。だから、その花をつんでプレゼントしてあげたら、クモ姫様もたいそうおよろこびになることでしょう!」
「そ、そんなおいしい話が! わたし、早速行ってきます!」
さっさと行ってしまったアーマイゼを見て、キツネがケラケラ笑った。
「へへ! ばかだな! あの山にはやばんな盗賊がいるのに! あの女、終わったな。男たちにいいように体をもてあそばれて、もうこの世にはいられません! あーれー! なんつって、首をつるにちがいねえ! こいつは見ものだ! あっははは!」
そうとは知らないアーマイゼはスキップをする気分で出かけた。きれいな花。クモ姫が好きな花なのならば、きっとそれはそれは、とてもうつくしい花に違いない。少しはよろこんでくれるかもしれない。
(あのかたが笑ってくださるのであれば)
ただそれだけの願いを胸に、アーマイゼが城下の町を超えたころ、クモ姫がアーマイゼをさがしていた。
「おい、アーマイゼはどこだ」
「さっきお庭にいらっしゃいましたわ」
「でも、さっきから見てないわね」
「たしかにそうね。どこに行ったのかしら」
「さがせ」
「「はい」」
城中の使用人たちがさがし、クモ姫も糸をたどるが見つからない。どうやら城のなかにはいないようだ。
(……)
クモ姫はメイドたちにきいた。
「実家に帰るなど言っていたか?」
「いいえ、そんなはずありませんわ」
「一体どこに……」
メイドたちが心配そうな顔でさがしまわるが、クモ姫は大体察しがついていた。
(……逃げたか)
自分があまりにもおそろしいから、だいぶ遅くなったが、このタイミングで逃げたのだろう。
(そうか。最近元気がないのは、わたくしを油断させるための演技だったということか)
言葉のとおり、油断していた。そんな素振りを見せなかったから、隙をつかれてしまったのだ。
(……わたくしを、だましたのか)
――クモ姫様。
あの笑顔は、うそだったのか。
そう思った瞬間、クモ姫の影がスルスルと伸びていく。使用人たちに悪寒が走り、全員が震えあがった。これは、なんてこと。クモ姫様が、ちょー怒っている! ああ! 早くアーマイゼ様を見つけないと! アーマイゼ様ー!
(どこだ)
クモ姫はすべての糸をたどらせた。
(わたくしをだました不届き者は、どこに消えた)
この国はクモ姫のもの。誰がどこにいるかなど、糸をたどればお手のもの。見つけるのに時間はいらない。
(ほう)
クモ姫がゆがんだ笑みを見せた。
(そこにいたか)
――アーマイゼは、顔を青くさせていた。やばんな男たちに囲まれ、パニックになっていたのだ。男たちは久しぶりの女に、唇をなめる。
「やあ、おじょうさん、こんなところに、なんの用かな?」
「ぐふふふ!」
けがらわしく笑う男たちを見て、アーマイゼがそら恐ろしくなり、後ろに一歩下がろうと足を動かしたが、ここで下がればクモ姫の笑顔が見られない気がして、アーマイゼは足を止め、ふみとどまった。
「こ、こちらに、きれいな花が咲いているとききました。それを、いただきたく……」
「ああ、きれいな花ね。あるよ。案内してあげよう。その代わり……」
男たちがにやりと笑った。
「俺たちと、『いいこと』してからな!」
男たちがアーマイゼを捕まえた。アーマイゼが悲鳴をあげ、あわてて逃げようとしたが、男の力にはとうてい敵わない。マントを脱がされ、アーマイゼがまた悲鳴をあげた。長い葉っぱの生えた地面に押したおされ、暴れると、数人に体を押さえつけられてしまった。アーマイゼが手足をバタつかせたが、男たちがいやらしく下品に笑いながら、アーマイゼの胸元の生地を破いた。アーマイゼがおそろしくておそろしくて、だれにも届かない悲痛な悲鳴をあげた。
(クモ姫様!!)
目をつむる。
(クモ姫様ぁ!!)
ぎゅっと体を力ませると、とつぜん、アーマイゼの顔に生あたたかい液体がとんできた。
「……」
なんだろう。急に、なんだか、静かになった気がする。アーマイゼが不穏な空気を感じて、そっと目を開けると、……血の気が下がった。今まで自分を好きなように押さえていた男たちは、体をばらばらに引き裂かれ、辺りは血の海となり、生き残っている者は誰一人いなかったのだ。
「……あっ……」
とつぜんの惨劇の光景がおそろしくなり、アーマイゼが腰を抜かしたまま後ろにじりじりと下がった。すると、背中に壁のようなものとぶつかった。はっとして、おどろいて、あわてて振り向くと、返り血だらけのクモ姫が、糸をぺろりとなめ、なんとも冷たい目で、自分を見下ろしていた。
「……ひめ、さま……」
その瞬間、するどい目でにらまれた。
「来い」
(あっ)
手を掴まれる。このまま帰ったら、……クモ姫が大好きだときいた花を、わたすことが出来ない。
彼女の笑顔が、見られない。
「いやっ!」
思わずアーマイゼがさけんだ拒否の言葉に、一瞬、クモ姫の目がみひらかれ――かわいた声で笑った。
「来い」
「っ」
口が糸で閉じられる。自分ではとても開けられない。乱暴に手をひっぱられて、クモ姫の糸に乗り、一瞬で城に戻ってきた。血だらけの二人に、使用人たちが腰をぬかした。
「ひえええ!」
「生理だぁあああ!!」
「だめ! 俺、ホラーだめなんだ!!」
「クモ姫様! 一体なにが!」
「アーマイゼ様! ごぶじで!」
クモ姫がぜんいんを無視してアーマイゼをひっぱった。大浴場へ入り、使用人たちが追いかけてくる中、扉にカギを閉めた。そして――いきおいよく、アーマイゼの頭を、お湯の中につっこませた。
「っ!!」
「このっ、おろか者が!!」
アーマイゼが手をバタつかせた。しかし、頭はクモ姫に押さえられ、顔を上げることが出来ない。アーマイゼがパニックになる。呼吸ができない。くるしい。くるしい。息ができない。くるしい。鼻のなかにお湯が入ってくる。アーマイゼにエラはない。なのでエラ呼吸は到底できない。アーマイゼは白目をむいて気絶しそうになると、クモ姫に髪をひっぱられ、お湯の中から乱暴に出された。久しぶりの酸素が肺に入ると、せきが止まらなくなった。
「けほっ! けほっ! げほっ!!」
「お前、わたくしから逃げられると思ったか? このクモ姫から、逃れられると思っていたのか?」
ふふっ。
「ふはは、……はは、……あっはは、はは、あはははははははは!!! はぁーはっはっはっはっはっ!! 残念だったな! この、バカが!!」
「っっ!」
再びお湯のなかに頭を入れられ、アーマイゼの呼吸がままならなくなる。手と足をバタつかせ、いっしょうけんめい抵抗するが、クモ姫に頭を押さえられ、息をすることも適わない。本当にくるしくなれば――気絶さえしてしまえば、楽になれるのに、その一歩手前でクモ姫がわかっているかのように、お湯の中から頭を上げさせた。そのとおり。クモ姫は何でもおみとおし。だって彼女はクモ姫。糸でなんでも解決してきたお姫様。拷問だって、お手のもの。アーマイゼの顔がびしょぬれになった。それは鼻水なのか、なみだなのか、よだれなのか、はたまたただのお湯なのか、見分けがつかないほどぬれている。それを見て、クモ姫がまたさらにあざ笑った。
「きたない顔だな。アーマイゼ。元の貧乏人に戻ったようだ。いや、出会ったころよりも、まったくひどい顔だ。みにくくゆがんで、けがらわしい」
「ひ、め、さ、ま……」
「だまれ!! 裏切り者が、わたくしの名を呼ぶな!」
「っ」
再び顔がお湯の中に埋まる。息ができない。ただ、クモ姫の叫び声だけはきこえた。
「どこに行く気だった! わたくしから逃げるなんて、絶対に許さん! 貴様だけは、何があっても逃してたまるか!! 逃げるのならば、地のそこまで追いかけて、くるしめて、こわがらせて、わたくしの手で、殺してくれるわ!!」
アーマイゼの頭がお湯から出た、と思えば、地べたに投げられた。アーマイゼが激しくせきこむと、クモ姫の長い指が広がり、アーマイゼの小さな首を掴んだ。そして、両手でしっかりと握ってしめつける。その目は、にくしみに燃えている。ぎゅっと、アーマイゼの首がきつくしめつけられ、また呼吸が出来なくなる。クモ姫がおこっている。それはきっと、面倒ごとを増やしてしまったら、おこってしまったんだと、アーマイゼはうすい意識のなかで思った。
もう、クモ姫とはいられない。
こんなに嫌われてしまった。
かなしい。かなしい。かなしい。
つらい。つらい。つらい。
いたい。
――けれど――アーマイゼは――どうしてもふれたくて――震える手を、必死に伸ばし――クモ姫の頬に、そっとふれた。
「ひめ、さま……」
あなたに、殺されるなら、本望です。
「ひめさ……ま……」
アーマイゼが一筋のなみだを流し、脱力し、ぱたりと、その手を地面に落とした。それを見た瞬間、……はっと我に返ったクモ姫が目をみひらき、手をこわばらせ、あわてて手を離せば、肺に空気が入り、アーマイゼが大きくせきこんだ。呼吸ができる。なのに、とてもくるしい。そして次の瞬間には、意識を失った。アーマイゼの頭が、真っ白になったのだ。
それを、気絶したのだとわかった瞬間、クモ姫の体からも、力がぬけた。
「……」
クモ姫は、静かに呼吸をし、手をゆっくりと差し出し、おそるおそるアーマイゼの頬にふれてみた。……あたたかい。死んではいない。これは、そう。……気絶をしているだけ。
「……」
クモ姫が指をすべらせ、アーマイゼの頬をなで、頭をなで――無言のまま――やさしく、抱きしめた。
アーマイゼの呼吸を感じる。
アーマイゼの心臓は動いている。
「……」
こうなることを望んでいた。クモ姫は何度もこのアーマイゼに嫌がらせをしようと、さまざまなことをくわだてた。そして、とうとうアーマイゼから城を出ていってくれた。逃げた。よかったじゃないか。それなのに、この手で追いかけて、そして、小さくてほそい首をぎゅっとにぎりしめて、そしたら、アーマイゼは、
どうして、あんな、かなしそうな目で、わたくしを見てきたのだろうか。
(……)
理解できないクモ姫は、何も言わず、ただ、血だらけの姿で、ぬれた手で、ぼろぼろのアーマイゼを抱きしめつづける。
なんとも不気味な赤が、地面に広がっていた。
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