第2話 妻ともっと真剣に交際し直したい男、宇賀神光一

「は……? 何だ……これ……?」


 気付くと俺は寝床で仰向けになっていた。右手に握った携帯の決定ボタンを押し込んでいる。

 寝床と言っても東京のマンションのベッドではなく栃木の実家の畳部屋に敷いた布団だし、携帯と言ってもスマホではなく二つ折りのガラケーだ。


 どういうことだ……? 俺は今自宅のリビングにいたはず。綾恵と距離を空けてソファに座り――あいつが離婚届にサインするのを下唇を噛みながら眺めているところだった。


「――――っ」


 懐かしい電子音にびくりとさせられてしまう。ELTの『また あした』のサビが手の中のガラケーから五秒ほど流れてきた。

 見覚えのある傷、ELTの武道館ライブグッズのストラップ。とっくに捨てていたはずの高校時代の携帯電話がメールの受信を伝えている。


「おいおいおい……」


 まさかと思いながら、電池カバーを外してみれば、案の定カバーの裏側には若き日の俺が若き日の綾恵と制服姿で写るプリクラが貼ってある。

 そして気付く。布団がどうとか、携帯がどうとか以前に、自分自身の肌の滑らかさが、関節の柔らかさが、十代の頃のそれになっていることに。

 おい、これ……。

 恐る恐る携帯で今日の日付を確認する。


「2008年……4月……8日……」


 ――あの日だ……あの日だ、あの日だあの日だあの日だ……!


 過去に戻ってる。タイムリープっていうんだよな、こういうの。十二年前の、高校二年の俺に戻っている――そんなこと以上に、タイムリープという超常現象それ自体に驚くより先に、その日付に目を奪われる。

 時計が指し示しているのは、七時十五分。いや、確認せずとも分かっていた。自分の性器が朝特有の現象を見せていたから。しかも高校時代の勢いで。そして更に言えば。これだけ元気ってことはまだ今日は射精してないってことだ。

 何度も射精してしまった、あのターニングポイントの前なんだ。


「間に合う……」


 間に合う、間に合う――間に合う!


 身体が震えてくる。悲観や動揺で、ではない。歓喜と高揚で、だ。

 ここ数年、叶うわけないと分かっていながらずっとずっと願っていたことが、叶ってしまった。この日に戻ってどうしてもやり直したいことが俺にはある。


 今から三時間後、俺は幼なじみの綾恵あやえ――未来の妻と初めてのセックスをする。

 雰囲気に流されるまま、「練習」なんて言い訳を盾にしてあいつを抱いてしまう。

 それからはもう性欲に任せてやりたい放題だ。毎日毎日あいつの部屋でこの部屋でセックス三昧。いやマジで高校時代の思い出が七割セックスで覆い尽くされちまうぐらいだ。


 結局、それから何となくいつの間にか恋人同士になって、九年間ダラダラと交際を続けた後、「そろそろ……」という理由にもならないような理由でどちらからともなく婚約をし、夫婦となってしまった。

 そんですぐに破局だ。

 つい十数分前、いや「十二年後」だったか。十二年後の今日、俺達の夫婦関係は終了してしまう。


 幼い頃からずっと一緒にいた俺達がなぜこの数年で仲違いをしてしまったのか、あいつの俺に対する態度が変わってしまったのか、ずっと考えていた。俺に悪いところがあるのなら直そうともした。でも無駄だった。あいつが俺に示す嫌悪感を消すことはできなかった。


 当たり前だ。そもそも付き合い始めから俺は間違っていたんだから。あいつを傷付け続けてきたんだから。

 都合のいいセフレみたいに扱って、告白もせずプロポーズもせず、なぁなぁで入籍して――一度もあいつに「好き」だと伝えたことすらない。

 こんなにも好きなのに。あいつを、綾恵を愛しているのに。


 当時は気付かなかった、あいつの大切さを。当時は気付かなかった、あいつが俺を大切に思ってくれていることを。

 十二年前の俺は、綾恵もただ性欲を発散したいがために俺を都合よく使っているだけだと思い込んでいた。自分達はWin-Winの関係なんだと信じ込んでいた。いや、そう自分に言い聞かせて、罪の意識から逃げていただけだ。自分の醜悪さを、一方的にあいつから搾取しているだけだという事実を、直視できなかっただけだ。

 

 高校生の頃のあいつは俺のことが好きだった。


 俺の最低さを垣間見てその恋心が冷めても、俺を見捨てないでいてくれた。俺が綾恵に真剣に向き合うようになるまでずっと待っていてくれた。

 俺はその期待を裏切った。表面的にいくら取り繕ったって意味なんてなかった。初めて身体を重ね合わせたその日から、綾恵との関係は土台から崩れ始めていたんだ。綾恵という柱が一人でずっと支えてくれたから何とか十二年間ももっただけで、壊滅するのは時間の問題だったんだ。


 やり直したい。


 あの日――今日――クラスメイトの紗代さよさんに告白しようか悩んでいた俺に、綾恵は「告白練習」を提案してくれる。

 それを断って、俺は綾恵に真っ正面から愛の告白をするんだ。ストレートな言葉で俺の思いを伝えるんだ。

 ビビる必要なんてない。卑怯かもしんねーけど、高校生のあいつが俺のことを好きだってことを、俺は知ってるんだ。絶対に受け入れてもらえるんだから一秒だって躊躇する理由はない。


 そんで今度こそ真剣に付き合って、毎日好きな気持ちをちゃんと伝えて、ずっと好きでいてもらえるような男になって、一度たりとも傷付けることなく、今度こそ綾恵に幸せになってもらうんだ! 俺のことを幸せにしようとしてくれる綾恵の気持ちに応えるんだ!





 十年ぶり以上に入った母校の景色とか懐かしすぎる匂いとか、そんなノスタルジーは吹っ飛ばして、俺は綾恵を探して校内を駆け回った。


 確かこの日は教室の前の廊下で綾恵から話しかけられて、学校を抜け出してしまったんだ。今回はゲン担ぎの意味も込めて俺の方から話しかけたい。今度の人生は綾恵に対して能動的にアタックしていくと決めたのだ。


 と、考えていたその時。天使のような後ろ姿が目に飛び込んできた。

 キョロキョロと辺りを見回す度に揺れる艶やかな長い黒髪。振りまかれる青りんごのような爽やかな匂い。何だこの美女。天女? あ、俺の嫁だ。

 引き込まれるように女神に駆け寄って、深呼吸してその香り成分をしっかり補給してから、


「綾恵」

「……光一」


 やばっ。かわっ。


 セーラー服姿の綾恵が目を丸くして俺を見上げていた。かわいい。透き通るような肌。きれい。整った小さな顔。えんじぇる。

 というかアレだな。当たり前だけど十二年後の綾恵と同じ見た目だな。そりゃ肌の質感とかは多少異なるんだろうけど、十七歳でも二十九歳でも綾恵は綾恵だ。

 十七歳の綾恵を素直に綺麗だと認められなかったのは十七歳の俺がアホだったからで、二十九歳の綾恵を素直に可愛いと思えなかったのは、二十九歳の俺がバカだったからだ。綾恵は生まれた時から死ぬまでずっと外見も中身も世界一素敵な人なんだ。

 だから――、


「光一、あのさっ、メールでも言った通り、自信持って真っ正面から告っちゃってオーケーだから。絶対付き合えるから。何なら結婚まで行っちゃえば? なんて、えへへ」

「綾恵、何だそのにへらとしたアホみたいな笑みは。めっちゃ可愛いぞ」


 俺は綾恵の両肩を掴み、


「か、可愛い……?」

「ああ、可愛いし世界一綺麗だぞ、お前は。今までずっと近くにいすぎてお前の魅力に気付けなかったんだ。ホント愚鈍な男で申し訳ない。でも今日からは変わる。決めたんだ俺は」

「何言ってんのあんたっ、きもっ」

「キモくていいから聞いてくれ。俺はお前が好きだ」

「なっ――」


 その大きな両目を真っ直ぐ捉えて、思いの丈を解き放つ。


「綾恵、好きだ! 付き合ってくれ! 結婚を前提に俺の彼女になってくれ!」


 言った。言ったぞ……! これで俺と綾恵の未来は変わるはず。さぁ、二人で添い遂げようじゃないか!


「えー……」

「え」


 え、何だその反応。頬を赤くしてくれているところは予想通りだが、口を歪にひん曲げて、変人を見るような目で見つめてくるのはなぜだ。かわいい。


「いや……いやいやいや。え? いやいや。あんたさぁ、光一。つい一時間前に『蜂巣はちすさんに告白する』ってメール送ってきたよね? 何でわたしに告ってんの?」


 あ。そういやそうだった……。俺がタイムリープしてきた瞬間にボタン押して送信してたメールがそれだったんだよな……。

 綾恵からの『告白練習させたげる』みたいな返信は十二年前に既に見てるから、いちいちチェックしねーで学校まで突っ走ってきちまったけど。

 まぁ確かに綾恵からしたら、さっきまで別の人を好きとか言ってた人間から告られるとか意味わかんねーよな。


「すまん。確かに俺は紗代さんのこと好きだった。でもそれは勘違いだったんだ。俺にとって本当に大切な人は誰なのか今更になって気付いたんだ。好きだ綾恵。付き合ってくれ」

「なっ、あ、あんた何回好きとか付き合ってくれとか……あーはいはいはい、そっか、なるほど、分かったっ! どうせあんたエロいことが目的なんでしょ!? 十七歳の有り余った性欲を幼なじみにぶつけるために適当な言葉で口説こうとしてんでしょ!?」

「……そう、思われても仕方ねーよな、俺みたいな奴は……でも違うんだ。俺は結婚するまでセックスも口づけもしない。ちゃんと順番は守りたい。俺の本当の気持ちを綾恵に信じてもらうためにもイノセントなラヴを貫いてみせる」

「イ、イノセント……? ラヴ……? いや何げに口づけってのもキモいけど……。てかやっぱ嘘じゃん絶対! 体の半分精液で出来てるあんたにそんなことできるわけないじゃん! 射精することしか考えてないくせに!」

「大丈夫だ、自分で処理するから」

「そういう問題じゃない!」

「そっか、そうだよな。確かに問題は他にもある。結婚してから身体の相性が悪いことが判明したらどうするんだ、って思うよな。でも安心しろ。『身体の相性』なんてものは存在しないんだ。いや、多少はあるのかもしれない。でも重要な要素ではない。大切なのはお互いのからだと心の状態を気遣えるかどうかなんだよ。セックスはマスターベーションじゃない。究極のコミュニケーションなんだ。コミュニケーションなら俺達はずっとしてきただろう?」

「今まさに出来てないから、円滑なコミュニケーション! お願いだからやめてその気持ち悪い感じ!」


 てかまぁ俺達のセックスの相性が悪くないことは知ってるからな、俺。やっぱ二回目って強いわ。情報持ってるって圧倒的有利だわ。何てったって、高二のお前が俺のことを好きだっていうことを知ってるんだからな、俺は。

 だから、ガンガンいくぜ。


「それに、最悪俺とのセックスで満足できなかったとしたら、他の人間とセックスしたっていい」

「は……?」

「気持ちだけ俺に向いていてくれれば、俺のことを愛していてくれれば、それでいいんだ。身体だけの関係なら浮気じゃない。本音を言えば辛いけど……でも仕方ない。君は君の幸福を最優先するべきなんだから。結婚するまでだって、俺とセックスをしない以上、性欲を発散したいことだってあるだろう。そんな時は俺以外の人間とセックスして構わない」

「怖い怖い怖いっ! え? 怖い怖い怖い怖いっ! 一番怖い! 嫉妬深い男よりもむしろこっちの方が怖い! キモいという感情が駆逐されるレベルの恐怖!」

「ただ、その相手は一度僕に面接させてほしいんだ。なに、君の人間関係に干渉するというわけじゃないさ。ただ、君を傷付けかねない人間を近づけるわけにはいかないからね」

「せめて一人称と三人称は元に戻して!」


 マイハニーが息を荒らげているので口調を戻すことにした。


「まぁそういうわけだ。とにかくお前がいねーとダメなんだよ、俺は……。大好きなんだ。付き合ってくれないか……?」

「……別に……一緒には、いてあげるってば……。でも付き合ったりする必要はないでしょ……結婚とかしたって絶対上手くいくわけないから。わたしら今の関係が一番いいんだよ。ずっと今まで通りでいいじゃん」

「よくない! だって俺はお前が好きだから! 綾恵と結婚したいから!」


 あれ? ていうか何だこれ? 何で綾恵はオーケーしてくれないんだ。俺が知ってる高二の綾恵ならすんなり首を縦に振ってくれるはずだったんじゃないのか……? それすらも俺の思い上がりだったっていうのか?

 いやそんなわけねーんだ、だって実際お前は俺と結婚してくれてるんだから!


「――っ、そ、そんなに熱く言われちゃうとわたしの中でいろいろ揺らいできちゃうんだけど……いやいやダメダメっ! てかたぶんそれ一瞬の気の迷いだから! あんたずっと蜂巣さん蜂巣さん言ってたはずでしょ! 蜂巣さんと付き合いなよ! 彼女、一見恋愛とか興味なさそうだけど、今みたいにあんたの方から迫れば絶対落とせるから!」

「そんなこと言わないでくれよ! 紗代さんのことなんてもう俺の頭には――」


「あら、私がどうかしたのかしら?」


 お淑やかな声音に振り向く。黒いミディアムヘアの女生徒が凛とした佇まいで儚げに微笑んでいる。

 十二年前、高二の俺が恋い焦がれたその人、


「あ、紗代さん、おはよう。なぁ綾恵、ちゃんと聞いてくれって! 照れてんのか!? いや、そうか……! 好きだとか愛してるだとか平凡な言葉じゃ伝わらないんだな俺の愛が! 何かもっと情熱的な言葉を探さねーと……!」

「蜂巣さん! この変態を止めて!」

「フフ、今日も仲が良いのね、二人とも。こんな公衆の面前で睦み合えるなんて羨ましいわ」


 言われて気付くが、いつの間にか俺達の周りは野次馬の生徒達で溢れ返っていた。まぁ教室の前で愛の告白しまくってたらこうなるのも当然か。


「ほら、紗代さんだってこう言ってるだろ? 羨ましいってよ」

「バカ、皮肉言われてんでしょ。ごめんね、蜂巣さん、勉強の邪魔だったよね」

「あら、皮肉なんて言っていないわよ? 心から憧れるわ。だから、私も真似させてもらうわね。好きよ、光一君。いや、光一……こー君、うん、今日からこー君って呼ぶわね。好きよ、こー君。私とお付き合いしましょう?」

「「は……?」」


 紗代さんが両手で俺の両手を握り、うっとりとした目で見上げてくる。

 な、何言ってんだこの人……何でいきなり俺に告白してきてんだ……? こんな過去は存在しなかった、っていうか、何か変だぞ紗代さん? こんなキャラじゃなかったよな? 高校に入ってからの紗代さんは常に周りを寄せ付けないようなオーラを発しているクールな人だったはずだ。


「な、何言ってるの蜂巣さん……いや別に光一と付き合うのはいいんだけど、何でいきなり……」

「綾恵さん……綾ちゃん、だと捻りがないわね……そう、ヤエ……ヤエっち、いいわね、これからはヤエっちと呼ぶわ。ヤエっちも、こー君のことが好きなのよね。私達、恋のライバルね。ドロドロの駆け引きなんてせず、女子同士の友情を育みながら高校生らしく爽やかに競い合いましょうね。これって青春よね!」


「あ、いた! 何やってんですか、紗代! あなたは教室で勉強してなきゃダメじゃないですか!?」


 なぜかテンションを上げている紗代さんに向かって、息を切らしながら前髪長めの男子生徒が駆け寄ってくる。

 俺達の中学からの同級生、生田目なばためめいだ。

 ポカンとする俺と綾恵を放って、必死の形相で紗代さんをなだめようとしている。


「あら、めい。学校の廊下を全力疾走なんて素晴らしい青春ね! 私もやりたいわ! さぁ、こー君もヤエっちも一緒に青春ロードを駆け抜けましょう!」

「駆け抜けなくていいですから! オレ達なんか放っておいて、あなたは一人で黙々と勉学に励んでください! 昨日までそうだったはずでしょう!? いつも通りの行動を取ってください!」

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