高校時代の同級生4人が一斉にタイムリープしたのに全員自分だけがタイムリープしたと思い込んで各々いろいろ企んじゃう話

アーブ・ナイガン(訳 能見杉太)

第1話 夫と親友のままでいたかった女、宇賀神綾恵

「は……? なに……これ……?」


 気が付くとわたしはベッドに横たわっていた。ベッドと言っても、東京のマンションの、去年から夫と別々になったシングルベッドではない。栃木の実家の自室にある古びたベッドだ。


 いや、おかしい。このベッドは、消したい思い出とともに、去年大型ゴミとして処分したはずだ。

 いやいやいやいや、違う違う、そんなことよりももっとおかしなことがあるでしょ。わたしは自宅のリビングにいたはずなんだ。夫と距離を空けてソファに座り――手の震えをごまかしながら離婚届にサインをするところだった。


「――――っ」


 懐かしい電子音にびくりとさせられてしまう。ELTの『恋文』のサビが五秒ほど流れてきた。

 振り返ってみると、枕元にはワインレッドの携帯――折り畳み式のガラケーがピカピカと点滅していた。これは、十年以上前、わたしが高校時代に使っていた携帯電話だ。見覚えのある傷、ELTの武道館ライブグッズのストラップ。


 いやでも……そんなわけない。ベッドと同様、こんなものはとっくに捨ててしまったはずだ。


「ハハ……」


 まさかと思いながら、電池カバーを外してみれば、案の定カバーの裏側には若き日のわたしと夫が制服姿で写るプリクラが貼ってある。

 そして気付く。ベッドがどうとか、携帯がどうとか以前に、わたし自身の肌の張りが艶が、十代の頃のそれになっているということに。

 恐る恐る携帯を開く。パカッという音と感触が懐かしい。この五感への刺激の生々しさは夢や妄想の類のものじゃない。


「2008年……4月……8日……」


 ――あの日だ……あの日だ、あの日だあの日だあの日だ……!


 過去に戻ってる。タイムリープってやつだ。十二年前の、高校二年のわたしに戻っている――そんなこと以上に、タイムリープという超常現象それ自体に驚くよりも先に、その日付に目を奪われる。

 カーテンを開ける。爽やかな朝の日差しに思わず目を細める。時計を見る。針が指し示しているのは、七時十五分。いや、確認せずとも分かっていた。自分の身体に、下腹部に――何の痛みもないのだから。まだ、あのターニングポイントの前なんだ。


「間に合う……」


 間に合う、間に合う――間に合う!


 身体が震えてくる。悲観や動揺で、ではない。歓喜と高揚で、だ。

 ここ数年、叶うわけないと分かっていながらずっとずっと願っていたことが、叶ってしまった。この日に戻ってどうしてもやり直したいことが、わたしにはある。


 今から三時間後、わたしは幼なじみの光一こういち――未来の夫とこのベッドで初めてのセックスをする。

 付き合ってもいないのに、わたしが誘って連れ込んで、「練習」という口実を提示して、身体を重ね合わせた。

 あいつはわたしのことなんて好きではなかった。他に好きな子がいた。だからわたしは、既成事実を作り出したかったのだ。

 思惑通り、思春期のあいつは手軽にセックスできるわたしに夢中になったし、そんなことをしている罪悪感から、結局憧れのクラスメイト蜂巣はちす紗代さよさんには告白しなかった。本当に全部わたしの計画通り。


 でもそこから先の計算なんて何もなかった。ただただわたしは光一を誰かに取られるのが嫌なだけだったから。


 結局、それから何となくいつの間にか恋人同士になって、九年間ダラダラと交際を続けた後、「そろそろ……」という理由にもならないような理由でどちらからともなく婚約をし、夫婦となってしまった。


 破局までは早かった。


 つい十数分前、いや「十二年後」だったか。十二年後の今日、わたし達の夫婦関係は終了してしまう。子どものいないわたし達が――というよりも、あんなにも拗れてしまったわたし達が――再び会うことは、もうほとんどなくなってしまうはずだ。


 物心つく前からずっと一緒にいたはずなのに。人生最高の親友だったはずなのに。


 わたし達は別に異性として相性が良かったわけじゃなかったのだ。そもそもあいつはわたしのことを好きでも何でもなかった。それなのに勘違いして自惚れて、思春期の性欲と嫉妬に任せて、男女の関係になってしまった。


 やり直したい。


 あの日――今日――蜂巣さんに告白しようか悩んでいた光一を引き留めたりせず、むしろ背中を押して、二人を付き合わせるんだ。そうすれば、わたしと光一は一生男女の関係になることもなく、一生最高の親友でいられるはず。

 たった一度のセックスのために、世界一大切な人との関係を終わらせるなんて御免だ。


 光一と男女の関係にならない――わたしはこのタイムリープを利用して、この目的を絶対に果たしてやる。


 先ほどこの携帯を鳴らした受信メールを開く。

 光一から……そうだ、確か……、


『紗代さんへの告白のセリフ考えたから放課後までに添削してくれ』

 そして一行空けて、クサくて長ったらしい謎ポエムが書き連ねられている。


 そうだそうだ、細かいとこまで思い出してきた。確かに十二年前――1回目の今日も、これと同じメールをこんな時間にもらったはず。

 そしてわたしはそれに『今のあんたじゃ無理だから、告白の練習させたげる』みたいな返信をしたんだ。そんで学校を抜け出して、「もし告白が上手くいっても、童貞のあんたじゃセックスが下手でどうせすぐフラれる」的な言葉でセックスまで持ち込んだ。


 ここが、この返信が、一つ目の分岐点だったのかもしれない。このメールがわたし達の未来を大きく変えるんだ。


『そんな回りくどいキモポエムいらないから、ストレートに「好きだ。付き合ってくれ」って言え。大丈夫。あの子もあんたのこと好きだから』


 微かな逡巡を振り切って、送信ボタンを押す。うん、これでいい。


 蜂巣さんはクールでサバサバとした子だから分かりにくいけど、実はあの子も光一のことを悪くは思っていない。当時からわたしはそう怪しんではいたけれど、その勘が当たっていたことを、結婚式の二次会で本人から聞かされる。

 高校時代は勉強一筋で彼氏を作る暇なんてなかったけど、光一のことは気になっていたようだ。わたし達夫婦を羨ましいとも言っていた。

 今も彼女は学業に夢中なはずだけど、光一の側から熱烈に告白されて、あとはわたしからも猛プッシュしてあげれば可能性は充分あると思う。


 うん、いける。二人を付き合わせて、わたしと光一は一生幼なじみのまま。それでわたしもあいつも幸せになれる。二度目の人生は絶対に失敗なんてしない。


 そうすればきっと、このベッドも処分しないで済む。





 懐かしすぎる……。

 十年ぶり以上に入った母校の景色と匂いのせいで、強烈なノスタルジーに襲われてしまう。


 自分がタイムリープしていることに気付いて、目的を果たすための決意を固めてから一時間。驚きの連続だった。しかもそれは、自分自身に対する驚きだ。

 シミひとつない肌といい、大した手入れもしていないはずなのにサラサラな長い黒髪といい、高校生の頃の自分はこんなにも輝いていたのか。セーラー服が似合いすぎである。これでは、あいつがわたしとのセックスに溺れてしまうのも当然ではないか。

 そしてここまで二十分間歩いてきたにもかかわらず、全く疲れていない。いや、二十九歳の身体でも数十分程度動いたところで全く疲れていないつもりだったのだが、それは思い違いだった。本当に疲労が溜まっていない感覚というものを思い出した。タイムリープしなければ一生忘れたままだっただろう。


 さて、そんなことよりも光一を探し出さなければ。

 確かこの日は教室に入る前にこの廊下でわたしがあいつに話しかけて、勢いのまま学校から連れ出してしまったのだ。


綾恵あやえ


 わたしを呼ぶ低い声に振り返る。世界一聞き慣れたその声の持ち主は、


「……光一」


 ――若っ。


 学ラン姿の短髪の青年がわたしを見下ろしていた。小麦色の肌、彫りの深い顔、均整のとれた引き締まった肉体……何だこの高身長イケメン。あ、わたしの夫だ。

 いやいやいやいや違う違う違う。夫にしちゃダメなんだった。

 いやーでも若い頃のこいつこんなに格好良かったのか……小さい時からずっと一緒にいたせいで当時は認識できてなかったんだな……今の方が客観的に見られているのかもしれない。

 こんな男子に抱かれるとかヤバいな高校生のわたし、こんな男と結婚したのにもう一年以上抱かれてないとかヤバいなわたし。いやだから抱かれないでいいんだった。抱かれちゃダメなんだった。


「光一、あのさっ、メールでも言った通り、自信持って真っ正面から告っちゃってオーケーだから。絶対付き合えるから。何なら結婚まで行っちゃえば? なんて、えへへ」


 あの子将来キャリア官僚だよ、一生安泰だよ。あ、でもあんたとの恋に溺れたせいでそんな未来まで変わっちゃうかも。でもそこまでの責任は持てない。わたしとあんたの関係のためには多少の犠牲には目をつぶるしかない。まぁあんたはわたしとのセックスに溺れててもそこそこの大学に行ってそこそこ稼げるようになったわけだし大丈夫っしょ――なんて考えながら精一杯の作り笑いを浮かべていると、


「綾恵、何だそのにへらとしたアホみたいな笑みは。めっちゃ可愛いぞ」


 光一に正面から両肩を掴まれ、キッパリと言われてしまう。

 あーはいはい、この感じやっぱり光一だわ。まぁそうだよね、だって光一だもん。十二年後だろうが十二年前だろうが光一は光一だもん。このナチュラルにわたしをバカにしてくる感じ――って、え。


「か、可愛い……?」

「ああ、可愛いし世界一綺麗だぞ、綾恵は。今までずっと近くにいすぎてお前の魅力に気付けなかったんだ。ホント愚鈍な男で申し訳ない。でも今日からは変わる。決めたんだ俺は」


 な、なっ……なにを言って……っ、可愛いだとか綺麗だとか二十九年間一緒にいて一度も言われたことないんだけど!? どうせなら初めてのセックスの時とかに言ってもらいたかったんだけど!? てかもう今回の人生では言われちゃダメなんだけど!?


「何言ってんのあんたっ、きもっ」

「キモくていいから聞いてくれ。俺はお前が好きだ」

「なっ――」


 何なのっ!? 何が起こってるの一体!? わたしが知ってる過去と違う!!

 光一はこんな真っ赤な顔して情熱的な目で真っ直ぐわたしを見つめながらこんな言葉吐いたりしないっ! こいつは初体験の時も婚約の時も――とにかくわたしとの大事な節目をなぁなぁで済ますような奴なんだ!

 セックスもたくさんしたし結婚までしたのに、こいつはわたしに一生「付き合ってくれ」とは言えない奴なんだ!


「綾恵、好きだ! 付き合ってくれ! 結婚を前提に俺の彼女になってくれ!」

「えー……」


 宇賀神うがじん綾恵あやえ(29歳)(バツイチ寸前)、男子高校生の夫から人生初のプロポーズを受ける。えー……。

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