最終話 Ordinary day !!
『――このような状況に陥らせてしまったこと、誠に申し訳なく思います。カラベル様』
これは、記憶だ。老齢の使用人のほんの少しの回想。
『――かの男性は、あの街の人間を供物に何かをしでかそうとしていたもので。私自身を肉壁に、実験台となる以外に時間を稼げなかったのです』
石切り場へ向かう途中に、ほんの少し走った夜道で、話したこと。
『――貴方は、理性を失っていない。そうですね? 演技派である事、大変驚きました。……ええ。記憶が戻った事は確かでしょうが、それは貴方が過ごした時間を忘れたという事にはならないでしょう』
似合っていたゴーグルを踏み砕き、人が受け止めるには多すぎる情報を脳で捌いて尚、彼は意識を手放さなかった。
それは、先天的な素質なのか、それとも後天的な能力だったのか。
使用人には理解が及ばない。それよりも自らの脳を浸食していく異形の目が、何時自我を奪いにかかるのかが不安でならなかった。
『――カラベル様。貴方はあの男の元に帰って、一体何をするおつもりでしょうか』
聞かずにはいられなかった事を、石切り場に着く手前、黄色い煉瓦が敷き詰められた村で聞くことができた。
黒く煤けた外壁をなぞり、青年は振り向いて。主の破壊を口にした。
『――……失うことが怖い、ですか。何とも人間らしい動機で安心致しました。ええ、大体私も同じような動機です。そうでなければ、何年もあのような鬼畜の協力者として身を潜めはしませんよ』
青年は目を丸くして、悪役のように口を歪めた。
使用人はその表情に吊られて髭を抑える。笑ってしまいそうになる自分が居る事を知っていた。
護ると決めた者の為にどれだけの人間を死に追いやっても。使用人の心は不動のまま――ただ一人、忠誠を誓った相手にのみ尽くす精神。
人の心としてはまがまがしく、化け物の心にしては美しく。
『――貴方なら恐らく、私が理性無き異形になる前に殺す事ができるでしょう。頼めますか?』
そう聞いた使用人こそ、正しく狂っていて。
それに無言で頷いた彼は、ただ優しいだけの青年だった。
鳥の声と、猫の声。
石畳の上を、今日も子どもが駆けていく。
真昼の事務所内。外の喧噪とは打って変わって、ソファには黒髪の少年が腰を落ち着けていた。
背後に控えているシャツ姿の老齢の男性は、白髪交じりのオールバックを崩すことなく雑務をこなす。
陶器から注がれるお湯に開いた茶葉。滲み出る赤い宝石のような輝きは、少年が新しく茶葉屋で購入したそれである。
「例の件ですが、オンスが使用していた研究室はどちらも焼却処分になるそうです。本日早朝に本部の配送車が湖の方にいらっしゃいましたから」
「……そうか。確かに、生かし続けるのも地獄のようなものだからな。これでいいんだろうな」
「どうぞ」
「ありがとう」
淹れて貰った紅茶を口に運んだ少年は、その香りに頬を緩める。
この数日間。街の住民の石化解除に伴い、滞ってしまったライフラインや経済のあれこれを誤魔化す為に働きづめだったのだ――コルヴォは同じく働きまくっていた筈の使用人に目を向ける。
使用人――エドアルドヴィチはすました顔で、コップのスペアを磨いていた。
「いかがしましたか? コルヴォ殿。ミルクか砂糖の気分でしたか?」
「いや、紅茶は素晴らしい。私が気になったのはそういう事ではなく……その、働きづめのような気がしてな。疲れないか? 七日は寝ていないだろう?」
「ほほ。お嬢様に連れられて食事は摂っていますから。この身体になってから喉もそうですが、腰痛と疲れ目まで改善したのですよ?」
キロリ、と。事務所の主である吸血鬼と同じ色の瞳を向ける使用人。異端化に失敗したコルヴォとは違って、エドアルドヴィチは吸血鬼との相性が悪くなかったらしい。
「そ、そうか……それは便利な身体だな……」
社畜が社畜味を増しただけと言わんばかりの視線だった。
適合しなかった成りそこないには分からない感覚だったが、傷の再生力が上がるという点はコルヴォも実感しているので、健康体にはなるのかもしれない。
……そう。再生の能力が働いたのか、エドアルドヴィチの左目は元に戻っていた。抉られたり別の目玉を押し付けられたりと目まぐるしかったと本人は笑っていうが、片方が義眼のコルヴォにはその様子が用意に想像できる為にいい気分はしなかった。
「そう言えば、我らが上司は何処に行ったんだ? 昨夜の狩りの後から見かけないが」
「ああ、今日は『お昼寝の日』だそうで……正午を過ぎるまで起床しないと宣言していらっしゃいました」
「普段から日中寝ているのは何処の誰だ……」
「まあまあ。代わりに私が起きていますので」
「……ちょっと待て。そもそも吸血鬼に睡眠は要らないのか?」
「さあ。気分の問題では?」
「気分」
上の階で寝ている吸血鬼と百年近い付き合いがあるコルヴォに衝撃の事実が明かされたところで、耳に届いたのはどたばたとフローリングを走り回る足音だ。眉間に皺を寄せながら、相手が事務所までやってくるのを辛抱強く待機する。
――っばぁあん!!
「おはようなんだね二人共!! ――では! 満を持して今日の夜にでも新人異端エドアルドヴィチの
「それは構わんがエドアルドヴィチを少しは休ませろ鬼上司」
夕方からハイテンションの金髪少女――ローラは、結えた髪を指で弄びながら、柄入りのワンピースを翻した。
「あっ、おっはようカラス君! そっちこそちゃんと寝てるかい?」
「眠れているように見えるか?」
「うん!」
「そう見えるならお前の目は節穴だな」
「酷いなぁ!?」
少年少女の掛け合いにエドアルドヴィチは「うむうむ」と満足げに頷いて、本来の業務に戻る。コルヴォは残された難題に頭を悩ませることになったが――ローラは事務所内をキョロキョロと見回して首を傾げた。
異形を素手で殺すデストロイヤーだと思わなければ、可愛いのだが。
「あれ、彼は何処に行ったのかな?」
「彼なら昼食を済ませた後、釣りがしたいと湖へ行きましたよ」
「湖に? 懲りないっていうか……鋼のメンタルぅ」
「確かに。あいつはこの事務所の中で唯一、人間だった筈なんだがな」
つい先日起きた科学者オンスの暴走は記憶に新しい。巻き込まれたエドアルドヴィチでさえ、あまりいい思い出はないと言っているのに。
使用人がコップを磨く音が、静かに響く――。
少年は徐に顔を上げた。
「それは別として、私一人で小娘の相手をするのは心許無い。巻き込む為にも呼び戻すとするか!」
「そうだね! エドの復活祝だから人手も欲しいし!」
「お二人共、仮にも病み上がりの相手です。お手柔らかに」
「言いつつ止めないのは貴方らしいな、エドアルドヴィチ」
コルヴォは呟いて、スマートフォンの液晶に指を滑らせた。
結局は。今日を生き延びたところで明日が来ることに変わりない。
桟橋に胡坐をかいて、安物の釣り糸を湖面に垂らしている。
眼鏡をかけた青年は、以前と全く違う世界の中で息をしていた。
雨のように与えられる嫌というほどの情報に耳を塞ぐ生活が良かったのか、情報が入ってこない変わりに比較的静かな生活を送ることができる今が良いのか。彼自身にも分かっていない。
竿先は振れない。以前は糸を伝って魚の動きまで手に取るように分かったものだが、そういう超人染みた事はできなくなっていた。
欠伸をする。
その喉に、目元に、目立った傷痕はない――痕形も無い。
(……理屈は知らないが、どうやら生きのこってしまったらしい)
自分が助かったことを理解した時。青年が抱いた感想はそれだった。
とはいえ、目が覚めた際にローラが飛びついてきたのには大層驚いたのだが。
(……首、斬られた筈……だよな?)
青年は首筋を触りながら、ぼんやりと思考する。
落ちた筈である。床に叩き付けられた
なのに。目が覚めれば変わり映えない部屋の中にいて。加えて自分の身体にあった怪我や傷は何処にも見当たらなかった。
褐色の肌、顔立ち、声、仕草――うなじの後ろに腕を組む癖も抜けない。だが、それが周りに悪影響を及ぼすことも、もうない。
全身サイボーグだった彼の身体は、人間と同じ組織で構成された全く新しい肉体に差し変わっていた。
お世話になっていた例の病院に行けば、二度見三度見を繰り返されながらレントゲン写真をめちゃくちゃ撮られたし――あの過去は偽りじゃなかったのだろうが、今の現状も幻や夢の類ではないのだろう。
青年からすれば、全ての記憶が夢のように
(……そういやあ、あのメモ。あいつが書いたものとしても、「ねつをわける」って。結局なんのことだったんだろうか)
あの現場で、たった一つ残った臓器から全身を再生した青年――長い赤毛を切り落としたカラベルはそう思考を巡らせながら、湖面に浮きが沈む瞬間を目撃した。
「――っしゃあ!! 気配を消して待ったかいがあったってもんだぜ!! 今日の晩飯ぃい!!」
生きていることが不思議なぐらい、不確かな世界に生きている。
確かに彼は人魚の
本人もその時が来るまで気付く事は無いだろう。鈍感は、精神的に良い影響を及ぼす場合もある。
「軽っ!? これはバレたか……!?」
竿を持ち上げ、一気に糸を巻き上げる!!
ばしゃあ――ぴちぴちぴちぴち。
「……」
釣れたのは、掌サイズの青い魚。とてもじゃあないが、狙っている大物とはサイズが違い過ぎた。
しぶしぶ針を外してリリースする。小物は大きくなるまで釣らないのがマイルール。青い宝石のような鱗を煌めかせ、魚は湖へ潜っていった。
――ふと。
その、変哲ない半透明の軌跡が青年の目に留まった。
優雅でも何でもない一匹の魚のヒレが遠ざかるのを追いかけて、不意に、湖面へと手を伸ばしそうになる。
「っとと、危ない危ない」
青年は気を取り直し、広げていた釣り道具を片付け始めた。成果はないが暇つぶしにはなったのだろう。そうして、鳴り始めた通信機に指を滑らせた。
黒い硝子の画面に相槌を打ち、それからバケツを持ち上げる。
それから――びちびちと音がして、取り落とした。
バケツの中には魚が入っていた。
青い鱗の魚。リリースした筈のそれである。
「?」
青年はもう一度、魚を両手で捕まえて湖に離す。魚は湖へ潜っていく。
しかしバケツを覗きこめば、そこにまた魚が入っているのだった。
「……」
青年はバケツから一度魚を退かし、今度は湖の上澄みを掬った。桟橋に上げれば、やはり同じ魚影。青い鱗の魚は悠々とバケツの中を泳いでみせた。
「……おいおい、自分も連れていけってか?」
問うたところで、魚が返答をする訳も無い。
青年は赤い髪をがしがしと掻きまわし、諦めたのかバケツを手に取って石畳の道へ踏み入る。足取りは軽かった。
面倒ごとを持ち帰ろうとしている自信はあるが、ここまで来たら一生迷惑をかけまくろうと開き直る所存である。
鳴り響いた着信音に手をかけ、通信機越しに耳慣れた皮肉を聞き流す。
青年は湖を振り返ることなく笑みを零す。
「なあコルヴォ。実は、面白い魚が釣れたんだ。興味あるか?」
祈りも懺悔もしつくして。この腕には持ち切れないのに抱えようとして。
人間らしく人間のように、人間じゃないやつらは生きていく。
彼らはきっと。己の生を全うするので十分、忙しい。
神秘は何故この世界にはみ出して来るのだろう。
怪物と呼ばれ、化け物と扱われ、生まれ出でたとしても生存競争を止む無くされるこちら側に、なぜ彼らははみ出して来るのだろうか。
理由は簡単。こちら側の誰かが覚えているから、である。
御伽話の中に、童歌の中に、鎮魂歌の一節に、本の中に、神話の中に、風習の中に。根をはり、実をつけ、種を植え、伝えられる存在。
彼らがそれそのものとして此方に出現することはほぼ無い。――人の思い出の欠けた部分と、人の想像力の両方に影響されて生まれてくる。
人が想像できる範囲の災害を引き起こす彼らは、故に人の想像を逸脱することは無い。少年を襲った災難も、青年カラベルが住んでいた村を飲み込んだ植物も、すべからずその類だった。
人の記憶が触媒となり、世界の裏側から引き摺り出されたそれらこそ、
黄色い煉瓦の廃村には、小さな墓が作られた。
それは、土を山にして木の板を刺しただけの簡易な墓だったが。
備えられている花束と酒瓶を一月ごとに取り換える者たちがいることは――あまり、知られていない。
Fin.
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