第19話 Drain the serum !
血が凍るように冷たく、音も温度も感じない。
この感覚には、どうも覚えがあった。六千年前、あの怪鳥と目を合わせたあの時である。記憶はおぼろげの癖に、身体に刻み付けられたものは忘れないらしい。全くもって不愉快極まりないものだ。
私は性懲りも無く強敵に隙を晒し、また石のようにされたのだろう。
――私の名前はコルヴォ。カラスのような黒髪を見て、あの馬鹿娘はそう名付けた。だが、その前にも名前があった気がする。
確か、「男の子ども」という意味の呼び名だった筈だ。少年、青年、中年、老年と、生きた時間に応じて名称が変わる仕組みだったような。
あまり、詳しくは覚えていない。
親が居たはずだ。兄弟も居たような気がする。親戚付き合いがほどほどにあって、コミュニティは狭くて誰もが家族のように関わっていた。
きっと、産まれたその日から沢山の人に苦労をかけて、心配をかけて、情をかけられて、育ったのだろう。忘れてしまったことだが、こうして回想する間に恐怖が無い事実が、それを物語っている。
――私の中には、私に心を砕いた人間たちとの記憶が残されていない。
――酷く、孤独を感じる。
――ただ死ねなかった一個人が、どうして今まで息をしているのかと。
――六千年前に置き去りにした彼らに、報いる方法はないものかと。
――ただ、それだけだ。その一心で私は死なない選択をしたのだから。
さて。思考ができるという事は、私の脳は動いている。生きている。
この
硬直を
硝煙に塗れたこの手で、一体何を守ろうと足掻いてきたのか。
思い出せ。カラス色のコルヴォ。
「あら。起きましたか、常連さん」
「…………」
黒髪を枕に縫い付け、見上げる天井は曼荼羅――ではない。見知らぬ天板だった。板状に形成された木目が浮く、現代建築らしい天井である。
声がした方に顔を向ければ、見知った顔があった。
事務所向かいにある茶葉屋の店員である。肩まである栗色の髪を左側に纏め、サイドテールになっている。
「体調はどうです? 夜な夜な飲み歩いて倒れたという風に聞きましたけど、事はそう単純ではないようですし」
「……ここは」
「貴方が知っている街ですよ」
そう言って少年の腕を取り、思いっ切りつねる女性。
コルヴォはふいの痛みに顔を歪めたが、痛みがあるという事は撃ちこんでいた血清が抜けているという証拠であり、現実であるという保証でもある。
「痛いですか?」
「……痛い」
「そうですか、痛覚はあるんですね。触感はどうですか? 味覚や嗅覚に異常は?」
「……ない、と思うが」
「分かりました。それなら、起き上がってもらって構いませんよ」
そう言われて初めて、コルヴォは寝かされていたベッドから飛び起きた。今の今まで放心していたからか、起き上がるという選択肢が浮かばなかったのである。
少年は裸足のまま半歩下がり、椅子に座ったままで紅茶を飲む女性に向き直る。片足を立てて、何時でも走り出せる体制だった。
女性はコルヴォの反応に目をぱちくりさせたが、吹き出すように笑う。
「心配しなくても、ワタシは貴方に何もしていません。強いて言えば貴方をここまで連れてきた女の子が、貴方の首に牙を突き立てていましたが」
「……!」
慌てて首に手をやると、絆創膏で簡単な止血がされている。その一挙一動が見ていて愉快なのか、女性はまた笑った。不思議と苛立ちは感じないものの、よく笑う人である。
「彼女からの伝言です。『アタシは貴方を食べていない』、『残念ながら花は刈り取られてしまった』。と」
女性はそう言って、カップを皿に戻した。
(……なるほど、私の身体から血清を引き抜いたんだな。あの娘は)
そして刈り取られた「花」が意味するのは。
(……言わんとすることは、分かった)
少年は黒髪を手櫛で整えると、左目にぽっかり空いた眼窩を前に女性が驚いていないことに気付く。
「驚かないのだな」
「……それは貴方の外見に関するお話ですか? それとも、人間離れしていること?」
「――」
「あっ、いえいえ。誤解しないで欲しいんですがワタシは一般人です。貴方たちの業界に興味も関心もありませんって」
「いや……先日身内に裏切られたばかりだからか気が立っていてな」
「そっ、そうですか。……
紅茶は葉や根を乾燥させたものを発酵させて完成する。植物に含まれる成分が人体に及ぼす影響を理解していれば、それは最早薬に等しい。
あらゆる効能を持つ薬草を調合されたものは、名をかえ色を変え――紅茶に姿を変え――民の生活を後押しする。
「貴女は薬屋――魔女の末裔か」
「……貴方がそう思うのなら、きっとそうなのでしょうね?」
「待て、私に殺気を向けるな。人間の相手は人間がするものだろう」
「……はぁ、まあ。貴方たちの言う異形や神秘に、魔女が含まれていないというのは複雑な気持ちですが……」
敵意を引っ込めた茶葉屋の女性――魔女は、栗色のサイドテールに指を絡めた。人より綺麗に磨かれた爪には、透明なコートが塗られている。
「どうしますか。このままこの店でくつろいでいくのであれば、邪魔は致しませんが?」
「……そうだ。街はどうなっている」
「固まったままですよ。流通も人の波も、生態系も等しく」
「……!」
魔女は言うが、落ち着き払って紅茶を喉に流し込む。
「ああ、慌てないで。あくまでも生き物が止まっているというだけですから。状況が改善されずとも、ワタシは暫くここに留まるつもりですし」
「そういう問題ではない」
「ええ。貴方たちの問題であって、ワタシの問題ではありませんね」
にっこりと笑みを返され、何も言い返せずに黙り込むコルヴォ。
それもその筈。この街が機能を停止した理由は、彼が連れ帰った青年カラベルを巡る因果によるものだ。少年には問題を街に引きこんだ責任がある。
「責めているつもりはないんですよ。ただ、ワタシとしても常連さんとお話ができなくなるのは困ります。解決して頂けますね?」
「ああ。この――」
「命に代えても? ふふ。それは貴方の都合でしょう。いけませんよ、独りよがりな約束をしては」
魔女は焼き菓子を頬張り、少年に差し出す。紅茶の茶葉を練り込んだ香ばしいクッキーだった。魔女はそれを受け取った少年に妖しく微笑む。
「全てが片付いたら貴方自身の足で、ここの紅茶缶を買いに来てください。それが、貴方をこの店から送り出す条件です」
茶葉屋を出てみれば街の様子は閑散としたものだった。日が昇っているにもかかわらず、人の往来や話し声は聞こえない。
鳥の声も虫の気配も無い。時折路地を吹き抜けていく風に湖が波打つ音だけが足に響いている様な気すらしてくる。
茶葉屋の魔女によれば、街に異変が起きてから半日しか経っていないという。それはつまり、カラス頭の少年がエドアルドヴィチに石化させられてから大した時間が経っていないということだ。
(しかし、私の石化が解けているにもかかわらず街の住民が解放されていない理由は――やはり、朝が来てしまったからだろうか)
物言わぬ像と化した住民たちを横目に、少年はある場所を目指す。
コルヴォをあの店に預けた少女の行先は、魔女の口から聞いていた。
「起きたぞ。ローラ――いや、ロードライト」
「…………」
黒いフード付きパーカーを目深に被り、白いワンピースの裾がその下に揺れて振り返る。晒された足元は酷いやけどをしたかのように水ぶくれがいくつもできていた。
銀の踵がついた白いシューズが、血にまみれた赤い靴と化している。
ロードライトの名に相応しい、ザクロのような紅色だった。
「コルヴォ」
日の光を避けるように、顔を上げる少女。美しかった金髪の先は焦げ、キューティクルは見る影もない。目の下には深い隈があった。
「ごめんよ……カーベル君、引き留められなかった」
「私がエドアルドヴィチをどうにかできていれば、よかったんだが」
「コルヴォだけの責任じゃないさ――……アタシたち二人の落ち度だ」
暫く黙り込んでいた二人だが、音の無い街がさらに静かになる一方でどうにも落ち着きようがない。
何よりも、ここで顔を俯けている時間こそが無駄なのだ。
異形に堕ちた
ただ、それよりも少年は少女の足元が気になったらしい。まずは、少女が日焼けをしない影がある場所に、移動することにした。
物言わぬ住民が座るカフェテリアの一席に、少年と少女は対面して腰掛ける。日の光から外れた少女の足元は、瞬く間に傷一つない柔肌へと再生していった。あれだけボコボコにされていた割には、健在の様である。
その艶々した卵肌にぺちりと喝を入れ。少女は調子を取り戻す。
「――よし! それじゃあ、状況を整理しようと思うよ。カラス君」
「ああ、まずは私から話そうか?」
「よろしくなんだよ」
白いワンピースの下、少女の細い足が組まれた。
「この街の住民を襲ったのはエドアルドヴィチ。間違いない」
「うん」
「彼の様子を見てどう思った。諜報に回す前から変化はあったか?」
「いいや。アタシが見る限りは心拍の乱れもなかった。なのに、帰って来てからは拍数がおかしい……ただあれは、不適合者の心音だ」
「ああ。それは私も確認した。相当の負荷が身体にかかっていることだろう」
「カラス君はあの様子を見て、どれぐらい保つと思う?」
「あの一瞬の戦闘で罅が入る程度であれば、三日後には理性が爆ぜるだろうな」
「そっか。完全に混ざる前には狩ってあげたいね」
可能なら、理性がある内に。
少女のその言葉に苦笑する少年。あえて自我がある内に仕留めようと算段を立てる辺り、この上司は異形のこととなると本当に容赦がない。
「……カーベル君は瀕死のアタシを庇って交渉したようなんだよ。アタシが目を覚ました時にはもう、アタシたちが知っている彼では無かったように思うけれど」
「地獄耳か」
「うん。ただ、彼の場合異端にすらなっていなかったから、今はその段階なのかもしれない。時間が経てば経つほど、引き戻せる確率は低くなる」
「……可能性程度に考えるべきか」
「そうだね。彼の過去を何一つ知らないアタシが言うのもなんだけど、もしかしたら因果応報、なのかもしれないし」
ローラは首をふり、優雅に肘をつく。
「そうだ、異形化と言えばカラス君。君、後でストック分の『血清』、大人しくアタシに渡して欲しいんだけど」
「……」
「幾らなんでも使い過ぎだよ。タグ付けしたらレッドゾーンだ。そこのところ、きちんと管理してくれると助かるんだけど」
「無理だろうな。エドアルドヴィチを相手にするとなれば、人間の反射神経ではとても追いつけたものではない」
「そう。だから、エドはアタシが引き受けるよ。カラス君」
少女の言葉に少年は眉間の皺を深くする。数刻の沈黙の後、その選択こそが最善だと認めたのか、コルヴォは溜め息をついた。
「無理をするなよ」
「しないよ。後始末をするだけさ――君こそ、育てた花の管理はしっかりとしてね?」
「言われずともそうするつもりだ。尤も、今カーベルとエドアルドヴィチが何処にいるかすら、分かっていないのが現実なんだが」
コルヴォは言って、胸元から皮張りの手帳を取り出す。
人魚がこれを少年に託した意味。それはまだ分からないままだが。
――そこでふと、コルヴォの脳裏に何かが引っかかった。
「そういえば、エドアルドヴィチは『
「……
「いずれにせよ、カーベルが収集していた金のコインとOzが無関係ということは無いだろう。裏面に刻まれていた文字の読みも
「駄洒落かな?」
「洒落であることは確かだろうよ」
コルヴォは言って、義眼が入っていない左目を半分見開いた。
「……」
「……どうしたの? カラス君」
「そうか。言葉遊びだ。待てよ、確かカーベルが調べた中に」
コルヴォは、必死に記憶を探る。
つい最近のできごとだ。カラベルが聞き取り調査中に誰かに襲われて――そもそも、例の十人目の聞き取り相手は、なんという名前だっただろうか。
黒髪をがしがしと掻きまわし、脳内で引き出しをひっくり返しまくったコルヴォは爪に血が滲んだ頃になってようやく、違和感を覚えた理由を導き出した。
「――オンス」
「あっ」
オンス。それは、カラベルが会った十人目の聞き取り相手の名。
そして、世界的に有名な童話「オズの魔法使い」の作中に登場する魔法使いオズ――その名前の元になったとされる言葉である。
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