第12話 FOURTH = Merrow


 人魚。ローレライ。歌声で船乗りを誘惑し、水底に沈める半人半魚の異形。

 絶世の美女、又は美男子であると伝えられることが多いが、筋肉ムキムキのトリートーン(フォークの槍をもった男神である)のような例外もあるが、依頼主は幸い美女の方であった。


『わたしはめろう。めろうとよんでください』


 そう筆談する彼女は、受け取ったほかほかのタオルを頬にあてながら飢えた目をしてみせた。

 石畳を歩いてきたという彼女の素足は、痛々しいほどに傷だらけである。カラベルはソファに腰を下ろした人魚の足を洗いながら、メモを流し見る。


 ――「メロウ」。これは、名前なのだろうか。


「メロウ、か。真偽はさて置き、なぜこの事務所の場所が分かったんだ」

『あかげのかれについてきたのよ。そうじゃなきゃこんなところにたどりつけはしない』

「……これはお前の案件だな。カーベル」

「うぇえ!? 俺のせい!?」


 心外だ! という顔をしつつ、女性の素足を扱っている手前、青年はオーバーリアクションを控えた。

 手当をした足はガーゼと包帯でグルグルと巻かれているが、滲んだ血が床のタオルにぽつぽつと染みを作る。


 怪我をしている当の本人は痛みを感じたりしないのか、きつく縛られた包帯に顔を歪めることすらしなかった。


『あかげのかれは、きのうまちをはしりまわっていた。みずうみのほとりまできて、うろうろしていたし』

「湖のほとりまで行ったのか?」

「ああ、十人目の聞き取り相手がその近くに住んでて……っと、これは機密情報だったかな」

『ころしてもらいにきたんです。だれにもしらせたりしませんよ』


 そう紙面上に綴った女性は少し考えるようにして、書き足す。


『それとも、ねがいにはたいかがひつようになる? なにがわたしにはらえますか?』

「……」

「……何が、って……」


 知性があるとはいえ自身は異形である。しかし、依頼人である以上、何らかの報酬を用意すべきだろうか――問われた二人は口を噤んだ。


 異形殺しブレイカーが狩りの依頼を受ける場合、そのクライアントは人間か、もしくは人と同レベルの地位に落ち着いている異端である。


 彼らは異端であっても人の世界の常識に溶け込んで生活している為、何かを得るために必要なのはお金、あるいは重大な情報や高価な素材、等価交換が原則であると分かっている。これは暗黙の了解のようなものだ。


 しかし今回の場合、依頼人は知性ある異形ではあるが人の世俗に疎い存在である。その上、狩りの対象が本人となれば命を奪う以上の何を報酬として受け取るべきなのだろうか。


 黙ってしまった二人を珍し気に眺め、人魚は出されたミネラルウォーターを口に含む。うげぇ、という顔をした。湖の水質とは天と地の差があるからか、味が好みとかけ離れているのか。


 コルヴォはその様子を見て、席を立つ。


『まずいです』

「不味い、か。なら、味がついたら飲めそうか? 紅茶ならどうだろう」

『おちばならたくさん、みずうみにしずんでいました』

「なら、アイスティーを用意するとしよう」


 そう言って、少年は背後のキッチンを無視すると事務所を出る方へ歩を進めた。カラベルは慌てて袖を引っ張るが、振り返ったコルヴォの表情は険しいものである。


「何、氷がここに無いから取りに行くだけだ。レディに飲める物を用意しなければ紳士の端くれとして失格であろう」

「いやいや、お茶くみは俺がやるから! それに俺よりあんたの方が対応力あるだろう!?」

「馬鹿な事を言うな。これはお前の案件だと最初に言っただろう。

「えっ、マジで置いてくのかよ、ちょ、コルヴォお!?」


 初対面の美女(異形)と二人きりという状況に置き去りにされた青年は、伸ばした腕の行き場を失って頭を抱えた。


「えっ……と、メロウさん。彼が戻って来るまで何か面白い話でも、と思ったんだが、生憎レパートリーが無いんだ」


 気まずそうに女性の様子を伺うと、人魚はゆるゆると首を振った。白い指先が新たな文字を綴る。


『あまり、きたいはしてなかったのでしんぱいしないでください』

「うっ、何かすっげえダメージ受ける回答」

『そのようなことはもとめていません』


 きっぱりと言い切った(書ききった)人魚は怪訝そうな瞳を青年に向ける。そうして、カラベルの目を保護する透明なゴーグルに指をのばした。


「――これは、駄目だ」


 錆色の瞳が鈍い光を灯すと、女性の冷たい指先が絡めとられる。人魚は少し驚いたように緑色の瞳を細めた。

 カラベルも、険しくしてしまった顔に気付いて必死に弁明する。


「か、勘弁してほしい。……これをかけていないと、俺の目は潰れてしまう。そんな気がしてならないんだ」

『……』


 人魚はしばらく手を引かずに、カラベルの顔を見て首を振る。掌を紙の上に滑らせると、一言綴った。


『だいじょうぶ』


 と。


 青年からすれば、何が大丈夫だと言われたのか、根拠が分からない。

 それでも駄目だと首を振り続ける事で、人魚はようやく諦めがついた様だった。大方、湖の内側から除くきらめきと、アクリル製の反射光とに似たものを感じたのだろうと、勝手に解釈して飲み込んだ。


 異形や異端は、ふと思いつきで奇妙な行動をとることがある――これは、コルヴォと出会って早々に叩き込まれたイロハの一つだ。

 その中には、「迷ったら撃て」というものもあるのだが、銃撃が苦手な彼からすれば「危険を感じる前に逃げる」、という言葉の方が性に合うと常々感じているカラベルである。


 とはいえ、たった半月ほどの付き合いではあるのだが。


 思考の海に潜っていると、つい、と服を引っ張られる感覚がして、依頼者から目を放していた事に気付く。


「ああ、失礼――それじゃあ、彼が戻ってくるまでに少しお話を聞かせて貰っても?」

『かまいません。それで、うけていただけるのでしょうか』

「正直、内容を聞いてから決めさせて欲しいんだが……でも、そうだな」


 カラベルは一考する。部屋を出て行ったコルヴォが「お前の案件だ」と言った理由を予測する。


「貴女が支払うお代が、『俺が受ける』という事実で良いのなら」







 青い髪の人魚はそれから、ぽつりぽつりと説明し始めた。


 一向に戻って来る気配のない少年は恐らく、この事務所の居住スペースを仕切っている元スナイパーの使用人と、この状況にどう対応したものか苦慮しているのだろうと予想できる。


 夜が明ける前に、彼女を正真正銘の依頼主にしなければいけない。話を聞き始めたカラベルはようやく、その事に気が付いた。


(事務所を仕切っているローラさんは、異形に対して容赦がなかった)


 カラベルはつい三日前の双頭の蛇を思い出しながら、その頭を蹴りで打ち砕いた細身の少女の姿を思い出す。

 化け物を相手にする異端。それはカラベルのような人間にとっては化け物と大差ない凶暴性を秘めている。


(そして多分、人間オレだろうと容赦はしないだろうな)


 朝方、寝起きと共にかけられた言葉を思い出しながら、カラベルはメモを取ることなく目の前に腰掛ける人魚の語りを読んでいた。


『わたしは、このまちのすぐそばのみずうみにすんでいます。


『わたしはずっと、こきょうにかえりたいとなげきつづけてきましたが、そんなものがないとしったのが、ずっとまえのはなしです。


『ずっとずっと、とらわれのおりのそこで、わたしはこののどをひらくことをしませんでした。にんぎょのこえは、しんぴがこいので、ひとやものをだまして、みずのなかにつれてきてしまうことがあると、わかっていたからです。


『わたしはひとのにくをに、ちにくとするいきものです。ずっとずっと、きがをたえて、たえて、たえつづけてきました。


『このからだで、だれかをくらうわけにはいかないのです。このくちで、だれかをほおばってはいけないのです。わたしではないこのからだで、そのようなことをしてはいけない。わたしになったかのじょがあわれでしかたがないからです。


『わたしは、ずいぶんとたえました。ですから、もうなにもいらないとおもいました。


『およぎつかれて、すいめんにうきあがることがふえました。わたしをみて、わたしをみたにんげんがわたしをさらにかたれば、わたしはわたしであることをほんとうにわすれてしまうでしょう。


『だから、あなたをみつけたとき、まるでしにがみさまのようにみえたのです。あなたならわたしをおわらせてくれるんじゃないかと。おわらせてくれるんだと、おもいました。


『りくにあがればこえをうばわれる。けれど、わたしがわたしをかくじつにおわらせるためにひつようなことなら、しかたがないと。


 連続した綴りは、そこで途絶えた。

 人魚の表情に変化はなく、ただ伝えるべきことを伝えたに過ぎないとでもいう様な、冷たい瞳だけが青年に向けられている。


 知性を持った異形ゆえの悩み。苦しみ。

 途中、綴りがめちゃくちゃになって読めない部分があったが――カラベルは顔を上げる。


「……死にたい理由は理解できたけど、じゃあ、心残りってなんだ?」

『ねつが、ほしい』

「熱?」

『しぬまえでいい。ねつが、ほしい』


 熱。カラベルは魚釣りを趣味にしていたから知っているが、魚の皮膚は熱に弱い場合がある筈だ。

 人間でも、重度の火傷を負った場合に皮膚感覚が麻痺して、熱を求めるような症状がでることがあるが、人魚の場合はどうなのだろうか。


 それとも人型になっている間だけは、そのような縛りから抜け出せるという事なのだろうか?


 ――カラベルは、思わず女性から目を放してしまった。


 思案するその首筋に、音も無く冷たい指が滑る。

 気付いた時には俯けていた頭を上げることもできず、決して小さくはない胸の柔らかさが顔面に押し付けられた。


 相手が人間であれば幸福度MAXだろうが、生憎それは人魚の肌触りである。

 怪我をしていたはずの素足から包帯とガーゼがほどけて散らばり、床に赤い花が咲く。

 冷や汗が吹き出し身体が硬直する。

 自分で結んだ結び目が皺一つ無く伸ばされている。

 青白い足に怪我の気配はない。


 ぐい、と強制的に顔を上げさせられた青年は、いつの間にか自分に覆いかぶさって主導権を握った、無垢そうで純粋そうで、しかしつい先ほどまで「人間を食べる生き物」であると白状していた、明らかに自分よりも力がある人魚という声なき異形を――文字通りの怪物として認識していた。


「……っ、ひ」

『……』


 ふわり、と。事務所に来た時と同じように笑って――それを最後に、青年の視界が暗くなる。






 漆黒。闇。身体の自由が効かない――周囲が重い。空気が、無い?






「――ば、がぼぼばぼばばばあああああああああ!?」


 一瞬。一瞬の事だった。

 青年の周囲から事務所が消え失せ、漆黒の水中で覚醒するまでの時間は! 耳も鼻も、逆流する水圧に耐えられず拷問のように苦痛がくりかえされる! 右を見ても闇、左を見ても闇! 流水が眼球を摩耗する!


 苦しい、苦しい苦しい苦しい苦しい!


(なんだこれなんだこれなんだこれなんだこれ――溺れ、おぼれ!?)


 息をしようにも呼吸はできず、違和感を探そうにもここは水中だ。


(何かがおかしい、何かを忘れている、俺は、俺は、俺は俺は俺はっ!)


 どうして専門家でもないカラベルが担当する異形殺しブレイカーの案件があるだろうか? そもそも、聞き込みを称して外出してから、本当に事務所へ帰ったのか? 辿り着く前に、一番最後に向かったのは何処だった?


 聞き取りをした人数だけは確かだ。車に引きずり込まれそうになった記憶だけはある。じゃあ、その後は? 無事に事務所まで帰れたのか?


 そんな変人に聞き込みをしたとき、青年は例の湖の岸辺に――いたのではなかったか。


 じゃあ今見ていたのは夢!? あの女性は存在すらしない幻!?

 混乱する頭ではまとまる思考もまとめられず、空気の代わりに水を飲み込んでは無言で喘ぐだけである。


 腐った落ち葉と藻の味。感じる暇も無く叩き込まれる風味に噎せようにも、噎せる事に必要な空気は与えられない。


 天と地も分からない。空も湖底も認識できない。

 肺に満ちた水の分、身体がずしりと重い――。


「がぼっ……!」


 最後の息が零れた。


『……』


 暗闇に紛れ、光のない湖の底。意識を手放した青年のすぐ隣に、青い髪の女性がいる。

 声を失い、足を失い、全身の鱗はボロボロに剥がれ落ち、桃色の肉が露わとなりながら血をまき散らして。これから死に逝く人魚が居る。


 ……からべる。だいじょうぶ。あなたになら、わけてあげられる。


 切り裂かれた喉で、血の味が広がった唇で、青年の口が塞がれた。






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