アドリアーノの奇妙な夜

ねこねる

アドリアーノの奇妙な夜

 たくさんの小さな光の粒がざあっと舞い上がっていくのを見て、男は右手に持っていたスプーンを落とした。スプーンはシャンと鈴のような音を響かせて地面を跳ねる。そのままぐにゅぐにゅと動きまわり銀色のコオロギへと姿を変えた。

 コオロギは燕尾服を着てきっちりと蝶ネクタイを締めている。にさん親指と人差し指でつまむように触覚を撫でると、腫れぼったい目で男を見て「こんばんは」と声をかけた。

 男は面食らって後ずさろうとするが、何かやわらかいものに足をとられ尻餅をついてしまう。足もとを見るとそこには派手な縞模様の猫がニンマリと笑って寝そべっていた。

「しゃべるコオロギに……笑う猫…?」

 男は驚きと恐怖と少しの好奇心を交えて声を出した。猫はニマニマと笑ったまま不満を口にする。

「レディにぶつかっておいて、謝罪もなしかしら?」

「あ、え……すまない。猫のお嬢さん。失礼をしてしまった。怪我はないかい」

 生まれつき女性に優しく接するよう教えられ育てられてきた男は、恐怖に怯えながらもとっさにすらすらと労りの言葉を吐き、猫の元へ右手を差し出した。猫はまたニタリと笑うと差し出された男の右手からするすると滑るように肩に上がった。猫はでっぷりとした見た目に反して煙のように軽かった。

「大丈夫よ。それと、あたしはお嬢さんじゃないわ。お兄さんよ」

「えっ」

「うふふ、ジョークよジョーク。キャットジョーク」

「ええと……どっちがだい?」

「どっちもそうだし、どっちも違うとも言えるわ。あなたの想像したとおりでかまわないわよ」

「ちょいとおふたりさん」

 意味深な猫の発言に頭を抱えようとしたとき、コオロギがぴょんと顔の前まで跳ねて遮るように言葉を発した。近くで見ると意外と大きく普通のコオロギの10倍くらいのサイズはある。この場の空気に慣れ始めていた男だったが、また少し恐怖心を蘇らせた。しかしそんな内心に反してコオロギはとても優しく、男に負けず劣らずの紳士のようだった。

「こんな森の中で座り込んでいては病気にでもなってしまいます。それにここいらは野鳥も多く、我々虫にとっては居所の悪い場所なのです。この先に私のご主人様の館がある。今宵は泊まっていくといいですよ」

 コオロギのご主人様とは何なのだろうか。同じコオロギだろうか。このコオロギより大きかったら……想像して男はブルリと身を震わせた。とてもではないがこんな不思議な状況でその館が安全だとは思えなかった。

「いや、遠慮しておくよ。早く家に帰らないと……その、それこそ妻の虫の居所が悪くなる、ははは……」

「あらたくましいのね。こんな暗い時間にあなたひとりでこの森を抜けられるの?」

 言われて、男はようやく周りを見渡した。そこは鬱蒼とした森の中。それも全て見たこともない形の植物ばかりである。そこかしこに小さな青い光の粒がふわふわと漂っており、暗くはあるがはっきりと物が見える程度には輝いていた。

 そして、そんな森に1本、人ふたりが並んで楽々歩けるほどの幅の道が通っていた。男たちはそんな道のど真ん中にいたのだった。

 状況を把握すると男はふと疑問に思う。

「1本道じゃないか。いくら夜とはいえ道も見えているし、こんなの猫にだってひとりで帰ることができるだろう?」

「それはどうかしら。試してみたらいいんじゃない」

 また不気味にニタリと笑うと、猫は煙になってふわりと消えていった。

「チェシャ殿のおっしゃる通りです。今宵は危険ですよ。ぜひ我が主人の館へ……」

「チェシャ? ああ、あの猫さんかい」

「ええそうです。ささ、お立ちくださいませ。ご案内しますから」

 男は立ち上がるとお尻の土を払おうと軽くはたいた。道は少し舗装されているような感じがしていたが、軽い砂どころではなく、その感触はたくさんの枯れ葉や小枝を落としたかのような大雑把なかんじがした。やはりここは何かが変だ。あの猫の不気味な笑い方といい、1本道とはいえまっすぐ帰ることができるような気は確かにしなかった。男は考える。自分の常識を信じるべきか、目の前の小さな紳士を信じるべきか。

「まいったな……。わかった。ええと……」

「クリケットと申します。お気軽にお呼びください」

「よろしく。僕はアドリアーノ。僕を君のご主人様にも紹介してくれるかい?」

「お任せください。さ、足もとは暗いですのでお気をつけてついてきてください」


 アドリアーノの目の前には色とりどりの料理が並べられていた。普通よりも少し貧しい暮らしをしていたアドリアーノにはどれも見ているだけでほっぺが落ちそうなほどのご馳走に見えた。

「好きなだけ食べてくださってかまいませんのよ」

 そう言ってテーブルの向こう側の女性は微笑んだ。そう、この女性こそクリケットのご主人様であるアウロラだった。アウロラはそれはそれは美しく若い女性で、豪勢なこの料理でさえ少し霞んで見えるほどであった。アドリアーノは天にも昇る心地でまずはスープに手をつけた。

「ンッ! これは……! あ、ああ、すみません。はしたない声をあげてしまいました……その、何と言っていいか、今まで食べたことのない味で……」

「ふふ、かまいませんわ。何も気にしないで召し上がってくださいな」

 育ちの違いのせいなのか、アドリアーノにはあまりおいしいと思える食事ではなかった。スープは少しざらついていて、苦味と酸味が強いようだった。これが通の味なのだろうか。

「おいしい?」

「うわっ」

 急に耳元で声がして首を向けると、いつの間にかニンマリと笑うチェシャがアドリアーノの肩に乗っていた。

「失礼、食事中なんでね。猫はその……降りてくれないかい?」

「うーん、そうしたいのだけど爪が引っかかったわ。まあいいじゃない。あたし軽いでしょ?」

 そう言って一段とゆったりと体を預ける猫を見て、確かに気にしなければ分からないほどの重さしかないし、どうやら毛も飛んではいないようなのでアドリアーノは諦めて食事を続けることにした。

 アウロラはそんなふたりのやりとりを微笑ましそうに見つめていた。


 他の料理もアドリアーノの口には合わなかったが、その後もアウロラと他愛のない会話をしながらの食事は続いた。アドリアーノにとって新鮮で刺激的なことも多く、まさに夢のような時間だった。いい心地でうっとりと幸福な時間に酔いしれていると、アドリアーノの視界はぐるぐると回りはじめた。すぐに天と地も分からなくなり、危ないと思う間もなく椅子から転げ落ちる。アウロラが慌てて駆け寄ってくる気配を感じるが、アドリアーノの意識は深い混沌の中へと沈み込むように落ちていった——


「う……」

 鳥のさえずりで目を覚ます。顔を上げると、そこはさっきの館と内観はよく似ているが、同じものだとは到底思えないような廃墟と化した建物の中だった。倒れた椅子に手をかけて立ち上がろうと力を込めると、椅子はあっけなく崩れるように壊れてしまった。首を傾げながらなんとか自力で体を起こすと、アウロラが座っていた椅子の上には黄ばんでいながらも綺麗な形をした白骨死体が座っていた。小さく悲鳴をあげて後ずさろうとして、先ほど壊した椅子の破片で転びそうになる。慌ててテーブルの端を掴んで支えにしたのはいいものの、テーブルの上を見てアドリアーノはまた愕然とする。そこに並んでいたのは何十年、何百年とあったのか分からないようなボロボロの食器だった。男が飲んでいたスープ皿と同じ位置にあった皿には、腐ったのか長い年月と自然が作り上げたのか分からない、泥水のような何かが入っていた。反射的に嫌な想像をしてしまい、お腹からこみ上げてくる気持ち悪さに再びうずくまる。胃が空っぽになるまで戻した後、アドリアーノは少し冷静になり家に帰らなければと思い立ち、ふらふらと館を後にした。


 館を出るとそこは、気絶する前に見た幻想的な森とはまるで違う、荒れに荒れた山の中だった。道と呼べるような立派なものはなかったが、なんとか歩けそうなだけの獣道が1本続いている。方角も何も分からないアドリアーノはとりあえずその獣道を辿ってみることにした。しばらくすると、足もとに光る何かが見えた。屈んで葉っぱをよけると、それはクリケットに姿を変えたはずの自前のスプーンだった。スプーンがここにあるということは、落としたときに姿を変えたように見えたのは幻覚だったのだろうか。

「いや、そもそもクリケットも、館も、そしてアウロラも……全て幻だったのではないか」

 少しでも気が紛れないかと考えを声に出してみる。しかし、当然それに応えてくれるものは何もなかった。

「そうだ、チェシャは……うわあっ」

 チェシャが乗っていたはずの肩を見ると、そこにあったのはゴキブリの死骸だった……。思わず手で払うがゴキブリは肩から落ちることはなく、しっかりと張り付いていた。よく見てみると足のトゲのような部分がアドリアーノの服にガッチリと引っかかっている。

「くそっ……」

 最悪の気分だったがなんとか手でゴキブリを引き離して山の中に捨てる。アドリアーノは確信していた。自分は幻覚を見ていたのだと。あの風景や出来事とは似ても似つかない不快な現実であるが、奇妙なほど一致する部分も多かったからだ。そしてスプーンを拾うと、ここに来るまでのことも少し思い出していた。ここであの舞い上がる光を見る直前、自分は老齢の母の実家で夕食を振る舞ってもらっていたのだ。母のことが気にかかり、アドリアーノは走って獣道を進んだ。


 幸いにも1本道を行くだけで山を抜けることができた。すぐ目の前には母の実家。古いが比較的大きな家で、山の反対側の裏には畑もある。アドリアーノは立ち止まることなく家の玄関を開けてリビングへと向かう。あの森の館の5分の1ほどのテーブルの上は、昨夜アドリアーノと母が食事をしていたときのままだった。庭の畑から採ってきたという芋で作った母お手製のシチューはまだふたりのお皿に残っている。リビングに、母はいない。呼びかけながら他の部屋も見て回るが、どこにも母の姿はない。キッチンには奇妙な色の生ゴミが捨ててあり、非常に芳しい良い香りが漂っていた。


 アドリアーノは畑に向かった。母がひとりで世話をしているからかあまり手入れが行き届いておらず、雑草でほとんどの野菜は駄目になっていた。そして、雑草の中に紛れて、一際目を引く派手な色の芋がたくさん実っていることに気づく。どうやらキッチンにあったのはこの芋の皮のようだ。ということはあのシチューはこの芋を使って作られたものだったのだろうか。あまりにも毒々しい色をした芋にアドリアーノはまた胃がむかむかするのを感じて顔をしかめた。芋を手にとってにおいを嗅いでみると、なんともいえない魅力的な香りがして数瞬うっとりと目を瞑ってしまう。ハッとして目を開けると一瞬だけあの幻想的な風景が見えて、すぐに荒れた畑に戻った。この芋が幻覚を魅せていたのか。母も、一緒にこれを食べてしまった……。


 その後アドリアーノはすぐに通報し大々的な捜索を始めるが、懸命な努力も虚しく、母が見つかることはなかった。

 アドリアーノは悔しさで母の畑を焼き払うことにした。奇妙な色をした煙は、風に煽られ、遠く遠くどこまでも広がっていった。

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