第4話 曰くつきの抱擁
「……なるほどね」
泉の反応を受け、納得した風体のワーズは「どっこらしょ」と立ち上がった。
その際、頭に触れた尻尾をむぎゅっと掴む。
「ぎにゃっ!!?」
途端、猫の姿が小さくなり、逆さ吊り状態でワーズに捕らえられてしまった。
「わわっ、猫?!」
支えを失い、後ろへ倒れかけた泉の身体は、伸ばされた黒い腕の中に納まる。
「さすが、泉嬢。猫が自分の一部を提供するだけあるねぇ」
「は? 提供?」
左手をワーズの胸に添え、顔を上げればへらりと笑う赤い口。
「ん? そういや、泉嬢にはまだ教えてなかったっけ? んーと、不思議なこと、なかった? 前居た場所じゃできないことができた、とか。特に、左手関係」
「左手……そういえば…………キフさん、よく殴りました」
「おや、それは素晴らしいね。どうせあの変態、君の身体、無駄にベタベタ触ったんでしょ。自業自得だよ。人間以外で済ませときゃイイってのに」
賛同したものか迷う提案は聞かなかったことにし、
「……ええと、あとは…………」
探し当て、過ぎる苦い思い。
茫然としたシウォンが、炎の中の泉を見て言っていた。
人間が扱えば一瞬にして消し炭にしてしまう代物――と。
「……鬼火の……炎を、操って…………左手に、握り締めて……」
今、ぎゅっと握り締めるのは、黒いコート。
珠玉の痛みはなく、ただ掌中、布の感触だけが伝わる。
泣いても良いと言ってくれた人の、冷ややかな体温がある。
ツェンが触れた手も同じ冷たさを持っていた。
巡る感情に目を閉じ、重い額を胸に預けた。
「泉嬢?」
戸惑う声に大きく息を吐き出し、顔を上げる。
立ち止まっても、自分はまだ歩けると証明するように。
流されるまま、生を選択したと思われないように。
あの時、ワーズが何を言わずとも、泉は彼の後を追っただろう。
迷う素振りはあれど、泉の選択には元より、死は存在しないのだから。
仮に在ったなら……奇人街で目覚めるより前、とっくの昔に選択している。
絶望なんて、探さなくてもその辺にゴロゴロ転がっているモノだから。
そんな思いでワーズを見た泉。
覚悟を決めたこげ茶の瞳と交わし、混沌がふんわり笑んだ。
――と思ったのも束の間。
「あだっ!?」
「みゃっ!?」
即頭部に衝撃を受け、猫の声がこれに続く。
ワーズの腕に支えられているため、倒れることはなかったが、視界に星が舞った。
何なんだと右を向けば、逆さ吊りの猫が両前足で自分の頭を抱えている姿。
迷惑そうな色が金の目に宿っていた。
どうやら、猫の頭をぶつけられたらしい。
強襲にワーズを睨みつける泉。
「ほらほら、泉嬢、猫の左前足、白いトコあるでしょ?」
そこへ全くトーンの変わらない、へらりとした声が被さり、示された箇所を見て眼が丸くなった。ワーズの言う通り、ふりこの如く揺れる猫の左前足には白い肌がある。が、それ自体は幽鬼と出くわした後に確認済みだったため、泉の驚きには繋がらない。
繋がったのは、別の事象。
「……まさか、提供って」
思い当たったことに青褪めた、矢先。
「うにゃっ!!」
「ふげっ!」
いい加減放せという鳴き声を上げ、ぶつけられた反動を用い、猫がワーズの顔面を襲った。仰け反った拍子で尻尾が解放され、華麗に着地を決める猫。
対するワーズは、顔を擦りさすり。
「やれやれ。相変わらず暴力的なんだから。……んー、でも、この程度で済むのは、泉嬢がいるから、かな?」
「へ?…………ああっ!」
にこりと微笑まれ、現状を顧みた泉は無駄に焦った。
何せ、身体の所在地は先程からワーズの腕の中。しかも気づけば腰に回されていた腕は、肘で背を支え、銃を持った手で器用に肩を抱いているという密着度の高さ。
一気に熱くなる顔は、青褪めた事実をすっかり忘れてしまい、加え、
「わ、ワーズさん!?」
「んー……?」
もう一方の腕を腰に回され、完全に抱き締められる形となっては、ぐるぐる目が回る。傷ついた右腕は回避されていると察したなら、労わりを感じて更に身体が火照った。鼻腔を擽る安堵を招く香りが意識されれば、疲弊しきった泉の心身に抗う術はない。
「ん……この腐れ根性のニオイは…………ラオか?……あのジジイ、ボクのモノに気安く触れやがって」
低く唸る声に合わせ、抱き締める力が増した。
けれどそれは、決して息苦しさを招くものではなく、どこまでも泉を優しく包んでいく。
(ううう……ワーズさん、息が、唇が、み、耳に当たりそうです――いえっ、当たってます!)
瞬間、再燃する赤らみは、泉の髪に頬を寄せるワーズが知る由もない。
焦る耳朶は違う声を捉えた。
「ぐっ……い、ずみ…………」
(げっ、シウォンさん!? こんな時に!?)
まだ炎燃え盛る路なればこそ、抱き締められても目撃者はいないと思っていた泉。
それが間近に目撃する輩がいると知り、慌て――かけ。
(あ、でも、シウォンさんなら、前にも似たような場面見られてるし、人に言いふらしたりしないはず)
なんとなく、黒コートしか映らない視界の中で安心した。
だがしかし、シウォンの方はそうでもなかったらしい。
「っ!? な、どういうことだ、泉! 何故、ワーズと共に!!?」
悲痛とも取れる叫びを聞き、ぎょっとした泉は顔だけシウォンへ向けた。
愕然とした表情の中、確かな怒りと痛みを携えた緑の双眸に射抜かれ、竦んだ手が黒いコートを握り締める。
するとますますシウォンの顔が歪み、熱病に浮かされた瞳が喘ぐように、壁から身を起こそうとする。
「違う、だろう? そんなはずはない……お前は俺を好きだと――っ!?」
説得する歪んだ笑みが浮かべば、死角から飛び込む影。すぱんっと小気味良い音を立てて、シウォンの顔が思いっきり打ちつけられた。
これにより、漆喰の壁に亀裂を生んだのは、紛れもない猫。
「にー」
甲高い鳴き声を上げ、牽制するようにシウォンの方を向いて座るネコ背は、邪魔をするなと物語る。
「猫…………やり過ぎじゃない? 相手は怪我人なのに」
ぽつりと呟いた視線の先には、再度気絶したシウォンの姿があった。
尻尾を大きく宙で振った猫は、そんな泉を呆れたように見返り。
「みー」
甘いね、と訴える。
「泉嬢ってさ、人間の尺度で人狼、計ってない? そんなんじゃ、付け入る隙を与えるだけだよ? もう少し、自分が安全じゃないってコト、自覚した方がイイんじゃない?」
「うっ……あ、安全じゃないって…………」
またも視界を黒コートで埋めては、赤くなる顔が止められない。首の名残は未だあり、状況的にはあの時と変わらないはずなのに、離れる気になれない自分は確かに危ない。
これを疲労のせいで動けないだけだと思い込めば、ぐっと肩を押されて身体が離された。
半分、残念に思う自分を無視し、もう半分のほっとした思いを味わう。
「ワーズさん?」
どういうつもりだったのかと、いぶかしむ心の裏で妙な期待をちょっぴり抱けば、
「んー、泉嬢、お腹空いたでしょ? 走り回ったお陰か、痩せて服もすっかすかだし。これならたくさん食べれるね」
「んなっ」
(これってそういうこと!?)
色気より食い気というワーズらしい、抱き締められた理由に対し、泉はしばし、言葉を失った。
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