第11話 再会

 恩人だ、とかのえは言った。


 竹平と恋人関係まで至って、半年が過ぎたある日。

 紹介したい人がいると彼女は言う。

 その人物を訪ねる途中、語られたのは、かのえの生い立ち。

 中学に上がって間もなく、彼女は二親を事故で亡くしていた。

 ドラマなどではよくある事だが、実際、体感した人間が傍にいると、どれだけ明るく話されても暗くなる。

 そうして一人残されたかのえは、御多分に漏れず、親戚に引き取られた。

 とはいえ、ドラマによくある陰惨な事情とは違い、その親戚たちはとても親切だったらしい。腫れ物を触るような扱いでもなく、そこの子どもたちと分け隔てなく、時に厳しく時に優しく接せられて……。

 しかし、だからこそというべきか、かのえの心は次第に歪んでいった。

 温かければ温かい分、これに報いたいと思い、良い子を演じ続ける。一方で、両親の死を悲しんだり、苛立ったり、駆られる激情はあっても、出せる場所が見当たらない。

 いつしか感情を抑え込むことだけ覚え、全て自分一人で解決しなければいけないと、脅迫にも似た思いが支配し始める。義務教育が終わったなら、働きにでも出ようと考えていたことさえ、善意として提示された高校進学を断り切れず。

 日に日に重荷になっていく彼らの優しさは、それゆえ無下にすることはできなかった。

 そんな時、言われた言葉がある。

 親戚の集まりで、身を寄せている家の同い年の少女が、何気なく口にした――

 ”かのえってさ、皆から信頼されてて……羨ましいな”

 少女のその言葉には、親との確執があった。彼女の事情を間近で見てきたかのえは、苦笑だけを表に貼り付ける。

 けれど……限界だった。

 感情一つ、ぼやき一つ自由に発せられない、自分のどこが羨ましいというのか。

 作り上げた上辺だけを見て、かのえの事情を知っているにも関わらず、そう言った少女が妬ましかった。彼女にしてみれば、小さい頃から知った間柄、馴染む様子を受けて、大丈夫とでも思ったのだろうが。

 察して欲しいとは言わない。

 どうせなら、そっとして欲しかった。

 羨んでなど、欲しくなかった。

 腫れ物を触る態度や、冷たい言葉を投げかけられたなら、自暴自棄にだって容易くなれただろう。

 なのに、彼らはどれも優しく、温かく。

 かのえが気持ちを剥き出せるほど、醜くもない。

 目が潰れるほど、心が引き裂かれるほど、柔らかく彼女を包む。

 ふわふわした真綿が、陰で細く縒り合わさり、かのえの首を、喉を、声を締めつけているとは思いもよらず――。

 頭痛を理由に早く床へ就く。

 喉の渇きを感じ、夜中に起きては、酔い潰れた大人たちの幸せそうな顔を見、吐き気に襲われた。好き勝手微笑ましい寝言が聞こえても、怯えにも似た震えに苛まれる。

 もがくようにその場から立ち去ろうとすれば、止める手があった。


 その先にあったのは、自由。


 それを与えたくれたのがこの人だと、紹介されたのは二十代半ばの男。

 従兄弟の嫁の兄らしい。

 早い話が血の繋がりもない相手。

 しかし、彼がいたからこそ、今のかのえがあるのだと言われ、救われたのだと微笑まれたなら、竹平は苦い思いを抱きながらも、笑うしかない。

 対する男は、恋人と竹平を紹介されて驚きながらも、祝福するような笑顔を浮かべる。

 二人が留まったのは一日。

 これにより分かったことといえば、彼が見た目通り良い人間だということだけ。

 劣等感が沸き起こらないでもないが、諸手を挙げて喜ぶ様に、つけられるケチもない。

 かのえを宜しくお願いします――そう頭を下げられては、こちらも神妙な面持ちとなってしまい、彼女から笑われて……。

 楽しかった。

 最後の、その時までは。

 海水浴するにはもう肌寒い秋空の下。

 懐かしさに浸り、思い出の海辺を歩く。

 するとかのえが、突然、顔を顰めて目を手で覆った。

 驚いて声をかける前に、男が彼女の手を止めた。

 ――掻くな。砂が入ったんだ、目に傷がつく。

 初めて聞く、地の部分を思わせる、静かな声音。

 かのえは大人しく従い、上を向き、男は頬へ手を添えて、かのえの瞳を覗き込む。

 行き場を失ったかのえの手は、男の胸へ添えられて。

 今にも口付けをしそうな距離に、互いの唇があり。

 竹平の喉が鳴った。

 何か声を――

 二人だけしかいない世界を見せつけられた気がして、開きかけた口は、唐突に離れた二人によって閉じられた。


 かのえは言う。

 男へ。

 ありがとう――と。

 男は言う。

 かのえへ。

 どう致しまして――と。


 笑い合った二人は言う。

 その後、別々に。

 独り言のように。

 竹平へ。


 御免――と。

 すまない――と。



 しゅるり、身体に巻かれた人魚の手が解かれた。

 それでも人魚とかのえの姿を受け、過去を見つめる竹平は気づかず動けず。

 唐突に現実へ引き戻されたのは、濃厚な生臭さが嗅覚を抉るように届いたため。

「~~~~!?」

 嘔気と目を刺す痛みに耐えかね、鼻を押さえて悶えたなら、続いて聴覚が水音を捉えた。止めどなく滴り続ける音源を探れば、波打ち際にいた白い女が、砂を這いずり上がる姿がある。

「!」

 べったりと身体に纏わりつく髪も気にせず、一心不乱に同じ顔が、同じように砂を掻く様子は、酷く不気味だった。

 ただでさえおぞましい情景は、その身体が完全に陸に上がるなり、別のおぞましさへと変貌を遂げる。

 まず、白い髪がずるりと頭から離れてゆく。

 次いで鱗が拉げ、これを突き破るようにして足が現れた。

 そのまま、不安定な格好で立ち上がった人魚は歌い始める。

 最初は綺麗な旋律。

 やがては干からびた雑音。

 産声のような不協和音は、空を仰ぐ人魚の皮膚を下へ向かわせる。

 ぷつっと青い目の中央が剥け現れる、充血した黄色の目玉。

 歌と重力で裂けた唇は、薄皮一枚で、ゼリー状の肉を紅のように差す。

 出来の悪いピエロが生まれる過程は、竹平の悲鳴を凍らせた。

「それじゃあ、お願いね」

 かのえが――かのえの中にいるという人魚が笑めば、生まれた道化は頷きつつ、似たような笑みを浮かべて、赤く黒い空間へと入っていく。

 通り過ぎる途中、全員が全員、竹平を一瞥しつつ。

 徐々に数が減っていけば、強烈なニオイがその分薄まる。

 最終的に残ったのは、かのえと数匹の道化の姿。

 幾分マシでも、生臭さは変わらない。

 鼻と口を覆ったまま、竹平は言った。

「い、一体、どうしたって言うんだ?」

 返答は期待していなかった。

 しかし、かのえの笑みを携えた彼女は、悪戯っぽく答える。

「ちょっと、ね。後顧の憂いを断ちにっていうのかしら? ”私たち”の中に不審な動きをする者がいるのよ。ほら、言ったじゃない? 陸の知識を持つ者と意識を共有すると、良くない面が出てくるって。さっきだって、シンが庇ってくれなきゃ、この首、切り落とされるところだったじゃない? その後すぐ、”私たち”と繋がりを取り戻したんだけど、理由が分からないの」

 同意を得るように彼女が道化を見やれば、全員が口をひん曲げ頷いた。

「「「ええ。繋がりにも限度があるから。だから残りの全員で行ったの。”私たち”が連れて行く選択をしたあの子、殺されたら困るもの。止めるにしても、輪郭を持った相手は手強いし」」」

「……じゃあ、なんでソイツらはここに残ってんだよ」

 道化を顎で示した問いは、彼女に向けて。

 会話が成立しようとも、竹平に道化たちへ直接尋ねる気力はない。

 けれど答えを返したのは、全員。

「「「「言ったでしょう? 良くない面が出てくるって。だからかのえも見張らなきゃいけないのよ。ねぇ?」」」」

 そうして互いに微笑み合う。

 見事なまでにズレのない会話。

 趣味の悪い一人芝居を見ているような恐怖があった。

 この様子に気づいた彼女が、くすくす笑う。

「あら、シン、すっごく怖がっているのね? 可哀相」

「「「本当、可哀相」」」

 同じ笑いが伝染し、ふと、思い立ったような顔が全員に浮かんだ。

「「「「ああ、そうね。このままだと怖い気持ちが想い出を凌駕してしまうかもしれないわ。それはそれで良いけれど、やっぱり、ねえ?」」」」

 自分たちしか分からない内容を、頷き合う。

 かのえの姿だけが近づけば、竹平は身体を強張らせた。

 砂に座る竹平の前で跪き、そっと、手を伸べ、頬を撫ぜる。

 中身は違うのに、動作がかのえと酷似していて、竹平の胸が締めつけられた。

 苦笑が、彼女の顔に浮かぶ。

「ねえ、怯えないで頂戴? 最初から、怖がらせる気はなかったのよ? それに、あの子が来るまで、まだ掛かりそうなんですもの。…………会わせてあげるわ、約束通り」

「だ、誰に?」

 引きつった喉で応じれば、夜の海を思わせる、黒い瞳が閉じられた。

「もちろん、かのえよ。全部話すって、約束したでしょう?……でも、逃げられないことだけは、覚えておいてね」

 瞼が震える。

 次に、開けられた瞳。

 変わらない、黒に映る自分の姿。

 ――けれど。

「竹平君」

 呼ばわる甘い音色は、困った顔をしながらもからかいに満ちていて。

「かのえ…………」

 違えようのない彼女の名を竹平は口にした。

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