第8話 赤い部屋
しばし沈黙――のち。
力を入れれば軽い音を立てて壊れる、脆かった左の肘かけ。
自由を喜ぶ暇もなく、立て続けに拘束を壊していく泉。
「っ!」
さすがに傷ついた右手を動かす時は眉を顰めた。が、本当に大人しく待った場合、待ち受けている未来を想像すれば軽いもの。
ガラクタになった椅子を放り、ただでさえ軋む床へ細心の注意を払って歩く。
空腹、走った疲労と、それに伴う眠気で身体は重い。
しかし、これを差っ引いても、ここから去らなければならない理由がある。
ツェンのこともそうだが、噛み合わない会話の合間、竹平のことが頭にちらついていた。
自分が鬼火であるツェンに攫われたのなら、気を失う前に見たあの炎は彼のもので間違いない。最悪の事態は考えたくないが、竹平が炎から脱出できていたとしても、人魚が待ち受けているのだ。楽観するには難しいだろう。
ふと、目に入るかんざし。
ツェンの話を聞く限りでは、シウォンの言っていた人魚避けはあり得そうな話ではあるが、実際に効いた憶えはない。
それでも一応、拾ってはおく。
自分の懐に入れるのではなく、シウォンへ返すために。
一度は迷惑料代わりに売ってしまえと思った品だが、あの時とは状況が違う。
シウォンに対する感情の変化があっては、粗雑に扱うことなぞできなかった。
貴重な品と知っては尚のこと。
ツェンが消えた木枠を背に、左の扉を開ける。
辛うじて差し込む光にぼんやり浮かぶ、短い廊下。扉を背にして左は行き止まり、右は玄関と思しき陰影が見える。真上の天窓にはステンドグラスがはめ込まれ、赤を基調とするためか、ちょっとしたホラーハウスの様相。古びた感じにプラスされた赤い色合いが泉の喉を鳴らした。ボロボロの壁紙から手が出現しても、驚きとは別に、至極当然のような気さえする。
現実と空想の恐怖により、泉は意を決して進むのみ。
竹平の下へ向かったとて、泉にできることは今もってない。だが、ツェンの勘違いを利用して、人魚を退けるくらいは出来るかもしれない。いや、上手く立ち回れたなら、竹平を人魚から救える可能性だってあるはずだ。
人の想いを利用するかなり強引な自爆技、且つ、人魚の焼失を目の当たりにしては、最良の考えとは言えない。それでも、できることを見つけたなら、進む足にも力が入る。
細心の注意を払い、玄関の扉まで辿り着いた。
一度だけ息を吐く。
ノブに手をかけ、
「緋鳥ぃ?」
「っ!?」
音も何もなく、すぐ背後からかかるツェンの声。
震えつつ振り返り、
「ひ……」
仰け反った泉は扉を背にして両手で口を押さえた。
そこにいたのは間違いなくツェン。
だが……色が違う。
ステンドグラスの赤を基調とした光を浴びたとて、そこまで赤く色づきはしまい。
至る所に、暗さと相まっては黒く沈む裂傷が、ぱっくり刻まれ、流れる血は白い肌を流れている。額から流れた血は涙の跡のように赤い双眸の下を流れ、その上からはらはらと零れる透明な雫は涙そのもので――
くてんと傾ぐ首。
「痛いんだ、緋鳥ぃ。いっぱいいっぱい、傷つけたんだ。でもさ、切れると思ってた包丁、ちゃんと砥いでなかったから……ほら、見ろよ」
そう言って差し出された左手には、錆びつき刃こぼれした包丁。虫喰いの穴を膜が張ったように覆うのは、油汚れを思わせる、ぎとぎとした鈍い輝き。
赤く黒ずんだ血の……。
「ね? 酷いだろ? だから、緋鳥に舐めて貰おうと思ったんだぁ」
包丁を横へだらりと下げ、泣いたままツェンはうっとり笑う。
最早、泉にかけるべき言葉はない。
恐怖に引きつるこげ茶の瞳はツェンから離せず、手だけがノブを回すよう動く。
が、しかし。
「無駄だ、緋鳥。言っただろう、逃がさないと。鍵をかけてあるのさ」
回すのが駄目なら、叩けば良い。
そう思って一つ叩いた泉だが、椅子とは違う強度に手の痺れを感じた。
これを見つめるツェンは涙を流しながら、きょとんとした顔つき。
「…………知らなかった。そんなにお腹が空いていたのか。可哀相な緋鳥。でもほら、大丈夫。ちゃんと餌は作って上げたから」
と同時に、馨しい匂いが鼻腔を擽る。血を流すツェンが目の前にいる状況で漂うのは、奇人街では優先されるという食事の香り。
けれど、鳴る腹の音はない。
代わりに、ずるずると泉の背が扉を下へ這う。
血塗れのツェン。
彼の血で染まった包丁を持つその手とは、逆の手から差し出された”餌”。
それは、野菜が盛り付けられた大皿の中央にある、焼け焦げた人の腕。
竹平を探そうとしていた泉にとって、考えたくない最悪の事態を現実にした代物。
何も為せなかった絶望が、泉の中に広がってゆく。
察せられた匂いが示す、食事と認識された腕を知り、吐き気が胸を襲っても、泉には呻く余裕すらない。
凝視だけが行動として許される中、ツェンは和やかに笑ってみせた。
「良かった。気に入ってくれたみたいだね。それじゃあ移動だ、緋鳥。……っと、コレ、邪魔」
転じ、邪魔と評した包丁を、剣呑な目つきで差したのは、泉の耳のすぐ横。
ドッという鈍い音へ痙攣したように跳ねる身体。
茫然自失の姿を半眼で眺めたツェンは、打って変わった表情で満足げに笑うと、傷ついた泉の右手首を思い切り持ち上げた。
骨の軋む響き、深紅の衣では分からぬ血の滲み、喉を衝く痛み。
この全てを遠くに感じる泉。
為すがまま、膝を立たせる格好になれば、涙を枯らした赤い瞳が近づく。
「今日の緋鳥は大人しいなぁ。ふふ……これなら、私の傍にずっといてくれそうだ」
吐息が唇に触れようとも、泉はただ、どことも知れぬ前を見るだけ。
至近であるのに遠く、喘ぐような声でツェンが告げる。
「一緒だよぉ、緋鳥ぃ……死んでも君を放しはしない。だって君は、私の可愛い――」
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