第7話 美の無駄遣い

 好き好んで腹の音を聞かせる者はいないだろうが、幾度もピンチを救ってくれるなら、こんなに手軽で有難い音はない。


ぎゅ~ぐるる~……


 背後から泉の頬の傷へ口づけたツェン・ユイという男、そのまま冷たい唇を滑らせては、震える泉のソレへ合わせようとし、鳴った音に動きを止めた。不思議そうな顔をするツェンを誘導するように、空っぽの胃を締めつける音が再び鳴る。

 前へ回ったツェンは、泉の腹へ耳を押しつけ、悲鳴を呑み込む上も見ずに息を吐いた。

「……緋鳥、お腹が空いているなら言ってくれなきゃ。君は食べるの好きなのに、我慢しちゃ駄目だ。それとも人魚がいたからかい? 髪まで汚されて。可哀相な緋鳥。でも大丈夫、髪についた肉はちゃんと燃やしてあげたよ? だからたくさん食べて……そうだ」

 腹を抱いたままツェンが恍惚の表情を浮かべて泉を見た。

 赤く濁った眼が幸せそうに潤む。

 これを視界に入れた泉は、我が物顔で腹を抱く腕とは全く別の衝撃を受けた。

(この人…………綺麗)

 動きの奇異さだけが際立っていたため、意識がそちらへ集中してしまったが。

 燃え滾る後ろの炎を忘れさせるほど、揺れる明かりが象る造形は完璧な美しさを誇る。

 奇人街に来てから、美人の類をよく見るようになった泉だが、それでも息を呑んでしまうほどの優美さが目の前にあり――。

 ゆえに思う。

 なんて残念な人だろう。

 行いの全てが、ツェンの美麗さを台無しにしていた。

 そんな泉の胸内なぞ知らぬツェン、おもむろに自身の着物へ手をかけた。

 緩く前を開け、炎を受けて妖しく輝く素肌を晒し、

「ねえ、緋鳥。私を食べて」

「…………は?」

 珍妙なコトを言われ、泉は目を丸くした。

 するとツェンが拗ねたように口を尖らせ、泉の腹へまた擦り寄る。

「酷いや、緋鳥。他の奴らはちゃんと食べたくせに、私は食べてくれないんだね。君に色々尽して貰ったけど、隙だってたっぷりあったはずなのに、君は私の元を去ってしまった。どうせなら食べて欲しかった……君と一緒になりたかった……せめて、君の手で殺してくれたなら、私はこんなに苦しまなかった…………それともこれって、放置プレ――」

「ぃや、私、人間なんで食べられませんから!」

 何かに気づいたツェンが口走る前に、否定を被せる泉。

 こんな状況下で、輪をかけて変な言葉は聞きたくない。

 そんな必死さが今回ばかりは届いたらしい、ツェンがまた顔を上げた。

「人間…………ああ、そうだった。そうだったね、緋鳥」

 それでもまだ頑なに、泉を緋鳥扱いしながら、

「そうか、人間か。人間なら、食べないよね。特に生なんて、食べられないよね?」

 にぱっと破顔した。

「人間人間……そう、今の緋鳥は人間なんだから。ちゃんと人間の餌じゃなきゃ。……うん、待ってて緋鳥、人間用の餌を持ってくるからね」

 愉しそうに言い、腹へ甘えるように顔を擦り寄せたツェンは、ふらりと立ち上がる。

 と同時に、泉の頭を見ては不機嫌な顔を浮かべた。

「……なんで緋鳥が紅皇珠べにこうじゅなんて持ってるのさ。そんな、他の奴のモノ、似合わないよ」

「べにこうじゅ……?」

 呟けば手を伸ばされ身が竦む。

 けれどツェンが掴んだのは、シウォンのかんざし。

 改めて見るそれにはシウォンの血が付着しており、泉の顔を更に強張らせた。

 そんな泉の様子を知ってか知らずか、ツェンの相好が崩れた。

「ああ、なんだ。緋鳥は知らなかったのか。いいよ、教えてあげる。この紅珠玉ね、すっごく赤が深いでしょ? これはね、とても力の強かった鬼火が精製したモノなんだ。自分の命と引き換えに」

「引き換え……」

 花芯に使われた宝石の新たな曰くを知り、泉の顔から血の気が引いていく。

 反対に、ツェンは上機嫌で更に続けた。

「そう。だから紅皇珠。とても珍しいんだ。昔はこれを祭ったりもしてたんだよ。手に持つとね、鬼火じゃない者でも、すごい炎を操れるんだ。他人の炎だって。けど、代償も他の紅珠玉より大きい。器が伴わないと使用者が鬼火でも死んじゃう」

 最後はにっこり微笑み、

「それ以前に、緋鳥には似合わない。緋鳥に似合うのは私の紅珠玉だ。……ふふ、いいな。私の紅珠玉を纏って焼け爛れる緋鳥の姿…………想像だけでも素敵」

「!」

 ゾッとする優しげな声音に震えれば、ツェンは満足そうに一つ頷き、かんざしを床へ投げ捨てた。興味がないモノに対しての行為は素っ気なく、できることなら自分もその位置にいたいと思う泉。

「そうだ、餌――」

 しばらくじっと泉を眺めていたツェンは、ふらりとその場を離れた。

 ワーズよりしっかりした足取りで、泉が生活圏と目星をつけた右の部屋へ去っていく背。

 ほっと、一息つく。

 背中の熱が治まったのを感じ、視線を少し後ろにずらしては、壁一面の炎が消え去ったのを確認。

 それでもまだ冷えぬ、熔けた残骸の赤さには慄きつつ、顔を前へ戻し――

 ビクッと跳ねた。

 じーっと、去って行ったはずの部屋の境から、顔半分だけ出して見つめるツェンの姿が、木枠にへばりついていたので。

「……緋鳥ぃ、ちゃんと、待ってて……ね?」

「…………………………はぃ」

 返事を躊躇った分だけ、顔と一緒に出ていた手が赤く燃え始め、これを脅しと捕らえた泉は、名の訂正も叶わず頷いた。

 頬を引きつらせつつ、笑顔なんかも浮べてみた。

 効果は抜群だったらしい。

 ツェンはぱっと顔を明るくし、にっこり笑っては引っ込んでいく。

 今度はちゃんと、ぎしぎし遠ざかる足音を聞いておく。

 ほっとしかけ、途中。

 凄まじい木の崩れる音が響き、身体が強張った。

「うぎゃあっ」

 ツェンの悲鳴がこれに続く。

 床でも踏み抜いたのか。

「ぅうう……痛いぃ……足に傷がぁ…………」

 さめざめ泣く声。

 次いで、

「うん、でもっ!」

 愉しげな声がこだまする。

「後で緋鳥に舐めて貰えるし。そうだ、それならたくさん、色んなところに傷を作っておこう。全部丁寧に舐めて貰うぞ。ふふふ……愉しみぃ」

「…………」

 ある程度の距離はあるはずなのに、はっきりと聞こえた内容は、泉の理解を遅らせた。

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