第6話 苦しみの代償
気分は悪いままだが、吐き出せるモノは何もない。それでも込み上げる不快に今一度呻いたランは、不意にその臭気が薄まっていることに気づいた。
軒下の地面に向けていた鼻先を上げつつ振り返れば、物珍しい光景を目にする。
袴姿の足元から生じた青白い炎の鳥が羽ばたき、近づく人魚を片っ端から燃やす様。
「……史歩…………あれって確か、
しみじみ頷くラン。
奇人街にないその不可思議な力は、昔、史歩から見せて貰ったことがある。といっても、ランに見せること自体が目的ではなく、史歩と同じ場所から来た歴史家を名乗る人間が、参考にとせがんだためだ。
最初はとても嫌そうな顔をしていた史歩だったが、歴史家が差し出した物を見て、目の色を変えた。それは史歩がよく食べていたという、奇人街にはない果物だった。
あれで実は甘味が大好物な彼女の勧めもあり、一口食べたランだが、感想は「よく分からない」だった。素直に告げられるほど無謀な性格はしていないため、感心した声を上げてみたものの、奇人街の味に慣れ親しんだランとしては、なんだか物足りない味。
けれど久しく食べていない故郷の味は、史歩を上機嫌にさせた。
そうしてあの時、歴史家に見せた巫術は水を纏った生き物で、その際、「昔は小さかったんですな?」と感動する声に、史歩は顔を真っ赤にして言ったものだ。
――悪かったな、苦手なんだよ、神頼みって奴は。
なんでも、巫術とやらは自分より遥かにすごい相手から、力を貸して貰う代物らしい。
元々頼るのが苦手な史歩は巫術が得意ではなく、加え、奇人街自体に巫術の基礎がないため、自然と効力が弱まってしまうそうな。子ども騙しだと史歩は苦虫を潰した顔をし、歴史家は神妙な面持ちで何やら書き記していた。
だが当時、もうすでに大人であったランだけは、初めて見る巫術に妙な高揚感を抱いたものだ。憧れ、と言った方が正しいかもしれない。
「相変わらず……すごい。いいな……俺も使ってみたいな…………」
現状を忘れ、胡坐をかいたランは、のほほんと行使される史歩の巫術に魅入っていた。
すると目の端で起き上がる、何故か倒れていた様子の黒一色の店主。
盛大な咳を一つ吐き出し、
「ぐぇっふ…………ひっどい目にあった……ん? 二人がいない。それに史歩嬢。……なんだか飛距離が中途半端だねぇ。あの術はもう少し飛べるはずなのに」
物知り顔で一人ごつワーズは、ふと気づいたように顔を左へ向けた。
ランもつられてそちらを見、不審に鼻面へ皺を寄せる。今もって史歩と交戦している人魚を放り、皮と骨を被った三人が別方向へ走る後姿がある。
「何処に――」
「んー、泉嬢のとこ、かな?」
「……は?」
呆気に取られるランを身もせず、よっこらしょと立ち上がったワーズ。
ランの金の眼が、今も建物の影を揺らす業火を映す。
宿敵であるはずの人魚を放り、あの中でクァンが探しているのは……
「泉嬢……って、泉さん!? だって彼女、あっちにいるはずじゃ」
「ん? ラン、なんで史歩嬢戦ってるのに、お前がそこにいるんだ? 盾になって来い」
ぞんざいな言い方とは裏腹に、優雅な物腰で半身ずれる黒一色。
へらへら笑う向こう側、青い炎の鳥は、近づけば確実にランを燃やしそうだ。
「あのな……そんなことしたら、史歩の気が散るぞ? ただでさえ、制御が面倒だって言ってたのに。ヘタに手出ししたら危険なのは史歩だろうが」
店主とはそれなりに長い付き合いのラン。
人間の身の危険を前面に出せば、当のワーズは「それもそうだ」と納得した様子。
これにため息をつきつつ立ち上がったランは、再度ワーズへ尋ねる。
「なあ、泉さん、あの中にいないのか?」
「いないね」
すっぱりと断言された。
口元には笑みを刻んだまま、シルクハットの陰の中、混沌の瞳が薄く細まる。
「いたなら確実に死んでる頃合だねぇ。クァンがどれだけ頑張っても、助け出すのは無理――だけど」
くるり、三人の女が駆けた方向へ視線を戻す。
「史歩嬢相手じゃ通用しない奴が輪郭も捨てずに移動ってことは、その先に、輪郭を持てば多少はどうにかなるモノがある。……シン殿たちは”道”に逃げ込めたようだし、捕らえるにしても輪郭はいらない」
「……相変わらず、回りくどい説明だな?」
「はっ、察しの悪い人狼に、とやかく言われる筋合いないよ」
銃口をごすっと自分の頭へ付けたワーズは、面倒臭そうに眉を歪める。
口は赤く笑ったまま。
「大方、あの炎の持ち主のところだろう。理由はさっぱりだけど、たぶん、泉嬢連れ去られたんだ。全く……あの子は本当に、動き回るのが好きだな」
「……攫われたんだろ、早い話。それなのに、動き回るのが好きって」
あんまりな言い草に抗議するランへ、ワーズは肩を竦めるだけ。
史歩へと向き直ってはコツコツ銃で時を刻む。
「史歩嬢。火は大半回ったから、もういいんじゃない?」
「そ、そうか……」
疲弊しきった史歩の周りには、ワーズの言う通り、青い炎に巻かれた人魚の残骸がある。
鬼火の炎と違うそれは、包まれた人魚の動きを封じるらしく、断末魔の悲鳴さえ聞こえない。ただし、道化染みた人魚の顔は安らかで、痛みはないようだった。
欠片も残さず消失する最期に変わりはないが……。
迎え入れるように広げた手を胸の前で合わせた史歩が、吐息を一つ零す。
『蒼燕――主神の命、焔より生ずる遥かな翼、御助力、忝く候』
史歩が口を閉ざせば、ほぼ同時に、彼女の周囲がふわりと風の渦を巻く。
これに掻き消される形で、煌々と燃えていた青い鳥が消え去った。
「ううううう……し、しんどい」
残されたのは、鞘ごと抜いた刀を杖代わりに、乱れた息を整える史歩。
巫術を行使した後の疲労感は、力を貸す者への信頼の度合いで増減するそうだ。
その信頼自体を苦手とする彼女の疲労度は曰く、「幽鬼を三日三晩相手にしても、こんなに疲れない」ほど。
肉体的にはなんら問題ないため、精神を持ち上げることができれば、立ち直りは早いらしい。そんな史歩の精神回復の方法は――
「ぐっ………………があああああああっっ!!! 誰でもいい! 斬らせろ!」
天に向かって血走った刃の眼光が吼える。
これへ頷いた店主、実に良い笑顔でランの方を向き、
「ほら、呼んでるよ、ラン」
腹が立つほど爽やかに歯を光らせ、親指で後方の史歩を肩越しに差しては、ウインクなんぞしやがった。
「この野郎……人間が回復したがってるんだ、お前が行けばいいだろ?」
「頭悪いね。ワーズ・メイク・ワーズじゃ丈夫過ぎて、史歩嬢斬れないでしょ。こういう時こそ役に立てよ、臨時」
「誰が臨時従業員だ!……とかやってる場合じゃない! お前の話が本当ならアイツ等、追わなきゃなんないし。クァンにだって――」
立ち上る炎を見たラン。
逡巡一秒。何事もなかったように、建物の陰に消えた人魚の姿を視認。
「よし」
深く頷き、そのままそちらへ追って駆け出せば、黒衣の男と袴姿が付いてくる。
「クァンにだって…………報せないのかい?」
「……あの炎の中に入れって? 冗談じゃない」
「第一、クァンは今、ランに怯えている。炎の中まで行っては、私まで燃やされかねん」
巻き込まれるのが嫌な史歩が助け舟を出す。
これに対し、根本的な理由はどうあれ、礼を述べたいところだったが、ちらりと見た彼女の眼はほとんど虚ろ。交わせば、確実に斬られる妖しい光が宿っていた。
ランの視線に気づいた史歩と目が合う前に元へ戻す。
走る速度は保ちつつ、まだ少し眩む頭で思う。
こんなことなら、気持ち悪さに鞭打ってでも、皮なし人魚の相手をしておくんだった。
人魚に辿り着く前に、限界が来た史歩へワーズが自分を差し出す想像は、あまりにも現実味を帯びていて――
純粋に、怖かった。
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