第3話 囚人と狂人
覚醒する意識に併せ、からからに乾いた笑いが届く。
泣いているような――。
するり、冷たい指が頬を辿る。
逆の頬には、擦られる感触と干からびた柔らかさ。
上手く瞼が開かないのは、先程から痺れる痛みが頭を覆っているため。
少しだけ、身じろいだ。
ぼんやり霞む闇の中、感じ取れたのは椅子に座った状態で、両手足首を肘掛と椅子の前足に固定されていること。材質はあまり良いものではないらしく、ささくれ立った刺々しい木の肌が伝わる。
頬に触れていたモノが、肩、腕、手首、甲の順に流れた。
一体、何なのだろう、この状況は。
働きの悪い頭で思い出すのは、直前まであった記憶。
芥屋で目覚める前の記憶は未だ返らないのに、ずいぶん容易く思い起こされた。
近づく生白い面。
退こうにも囲われては活路も見出せず、背中合わせの彼もそれが分かって身じろぐのみ。
打開策なぞ、何も浮かばない。
一つ歩みが進められる度、深まる臭気に思考まで奪われ――
矢先。
咆哮のような音が轟き、合わせて視界が白熱の光に潰された。
眩み、数歩よろければ、回復した視力が捉える、ぶちぶちと潰れる音を上げ、溶けゆく人魚の身体。
錆びついた重たい扉が開くに似た断末魔の悲鳴が、白い喉を震わせる。
気づけば周囲にも同じ音は生じており、今まで統一されていた分、個々に奏でられるそれらは、最期の嘆きをより悲愴なモノとしていた。
耳を塞いでも、肌ごと鼓膜を震わせてくる。
長く続けば気が狂いそうな音だが、徐々に小さく弱まっていく。
しかし、何の慰めにもなりはしない。
それが指し示すところは、人魚が完全に溶け死んだことを意味しているのだから。
ニオイすらなく。
存在していた形跡すら、否定して――
消失。
心臓が大きく跳ねる音を内で聞いた。
炎の熱さとは違う熱が身体を巡る。
炎の赤とは違う朱が視界に滲む。
酸素を浪費する炎の中、酸欠なのかどうかも分からない息苦しさが、意識を朦朧とさせていく。
その中で思い出すのは、背中合わせにしていた少年のこと。
彼の恋人から、守ってと頼まれたこと。
爆ぜる音が遠い。
熱さで霞む視界の中、炎越しに少年の倒れた姿を見て、辺りを見渡す。
辺り一面の炎。
逃げられそうな箇所がない。
いや、それよりも。
何故、燃えているのだろう?
今更の疑問に、くらくら揺れる脳裏が浮かべたのは、嫣然としたクァンの姿。
鬼火の――……
今頃になって鼻の奥に届く、ほこりっぽい空気。
泉が小さく咳き込めば、指先に触れていた乾いた柔らかさが口を利いた。
「ああ……起きたんだね、私の可愛い小鳥。おはよう」
「!?」
ぞわりと這い上がる悪寒に、頭の痺れを払って目を開ける。
途端、泉の視界に飛び込んできたのは、泉の腿に頬ずりつつ、こちらへ視線だけを送る、黒い帯締めの灰色の衣を纏う男。視線を交し合えば、長い白髪を結わえた男は満足そうに微笑み、一方の腕で椅子の前足ごと泉の右足を抱き、左手で、泉の右手の包帯の線を辿る。
「あなたは…………」
唾を呑み、乾いた喉を潤しても、出てくるのは戸惑いから掠れた声。
「小鳥」と呼ばれて思い出した相手は、シウォンに攫われた最初の夜、逃げる途中で緋鳥のジャケットを投げつけた鬼火。
つまり、人魚を焼失させたあの炎はこの男の仕業で、どさくさに紛れて自分は連れて来られたのか。
全く喜べない早い理解に泉の喉が引きつる。
そんな彼女を前にして、泉と緋鳥を間違えるという荒業をやってのけた男は、あの時と同じ酔っ払った赤い瞳で、にたりと笑った。
「あなた、なんて他人行儀だ、緋鳥。酷いよ……。それとも怒っているのかい? 私が君の偽物に、君がくれた君のジャケットを奪われてしまったから」
「何を……言って?」
未だに苦しい勘違いをしたままの男だが、その内容を聞く限り、あの後で本物の緋鳥に会ったようだ。男が偽物だという、本物の緋鳥から無下にされた反動が、一時でも間違えた泉へと向かっているらしい。
傍迷惑な事実に眉を顰めれば、男の顔がいじけたように腿へ埋められた。
相手を刺激しかねない悲鳴を辛うじて呑み込む。
「御免よ、緋鳥ぃ。君が私の下を去ってから、もう数えきれないほどの日を過ごしたけど、君のことを忘れた時は一瞬たりともなかったんだ。なのに、君と他を間違えて……怒っているかい? 許して……前みたいに私のことをツェンと呼んでおくれ。ツェン・ユイと。もしくは”蛆虫”でも”カビ”でも、君の好きなように、呼んで」
「…………」
ついていけない世界が、膝枕を強要する、ツェンと名乗る男から吐き出されていく。
背筋を這う悪寒。
ツェンが触れていない左手を動かすが、小さく音を立てた時点で止めた。
これなら壊せる――けれど、足に縋りつくこの男が去ってからでなければ、逃げるのは難しい。
「緋鳥ぃ」と連呼しながら泉の足に夢中で頬ずりする変態を、本来であれば入れたくない視界に入れつつ、人魚のニオイも夜気の涼しさもない、室内と思しき辺りを探る。
まず正面。
あるのは漆喰の白い壁だけ。
ところどころ黒ずんでいるのは――深く考えてはいけない気がした。
とりあえず、カビではない。
特に……手形状のカビなぞ、自然にできるのは不自然だ。
その上に引っかき傷の陰影がつくなら尚のこと。
同じく白い壁が続く左右へ視線をずらせば、双方の遠い角に入り口が一つずつ。
左は扉、右は木枠。
生活圏は右だろうと予想を立てておく。
目だけで右斜め後方を見やれば、ゆらゆら揺れていた光源、蝋燭の炎が目に入る。
照明はこれしかないらしい。
視線をツェンへ戻し……かけ。ちらり、掠めたそれにぎょっとした泉は、慎重さをかなぐり捨てて、顔ごと後ろを振り向かせた。
「あ、気づいた? 喜んでくれた、緋鳥?」
膝が軽くなり、空気が動く。
滑らかに泉の指から肩へ移動した男の指は、宙を通って、泉の目を縫いつけた物を愛しそうに撫でた。
壁に備えつけられた拘束具の内、手首に位置するソレを。
「君が去ってから色々考えたんだ。何がいけなかったのか。刺激が足りなかったからだ、と分かったから。君は緊縛も好きだっただろ? 締め上げられるのも、皮膚を剥がされるのも、疵を身体に刻むのも――だからほら、こんな仕掛けだって」
言いつつ、壁に備えつけられたレバーを引くツェン。
龍らしきオブジェの口から飛び出した棒は、同時に壁から無数の針を出現させた。
拘束具の配置から見て、胴体を深々と貫くためのソレ。
「まだまだ、緋鳥にやってあげたい仕掛けは、たくさん用意している。退屈はさせない」
「!」
勘違いだけならまだいいが、こんなイタイ趣味に付き合う命は全くない。
知らず首を振れば、気づいたツェンがくてんと首を傾げて近寄ってきた。
頬に触れられて泉の身体が大きく跳ねる。
「緋鳥? そんなに嬉しい?」
ぶんぶん首を振る泉。
不思議そうな顔でこれを見つめていたツェンは、膝をつき、背もたれ越しに泉の身体を抱き締めた。
埃立つニオイに咳きが出る。
瞬間、みしっという音が泉の身体に響いた。
「くぁっ!」
木製の椅子と、喉と、両方から悲鳴が上がる。
しばらくそのまま圧が加えられ続け、解放されれば嫌な汗が泉の肌に滲む。
「? おかしいな……前までの緋鳥なら、悦んでくれたのに」
「っから、私は、緋鳥さんじゃ、ありません!」
ともすれば震えそうな身体に気力を集め、ツェンへ真実を伝える。
――が。
「……ああ、そうか。人間になってしまったからだ。だから緋鳥、弱くなってしまったんだ。……じゃあ、どうしよう? せっかく用意したけど……人間じゃ、簡単に死んじゃう…………ならアレ、もういらないな」
「人の話を――!?」
抗議した途端。
狙い済ましたタイミングで、炎の壁が泉の後ろに出現する。
熱せられた向こう側で、拘束具とレバー、現れた針の仕掛けが真っ赤に光り、どろどろ熔けては爛れた炎のニオイを泉へ届け、
「……人間用の新しい玩具、揃えて上げるよ。だから緋鳥…………もう、逃がさない」
言葉を失い慄く泉を余所に、緋鳥しか目に入っていない鬼火は、瓦の破片で傷ついた頬へ己の唇を寄せた。
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