第八節 業火
第1話 炎
――この辺りだと思うんだけど。
黒一色の男がそう言ったのは、人魚の残骸が円形に広がる大通り。
顔を顰めたクァンによって荒々しく焼かれていけば、行動を共にしていた人狼と剣客の皺が少し取れた。
(自分では分からないけれど……もしかして、私も臭うんじゃ?)
今更心配になったかのえは、縫合したばかりの手首のニオイを嗅いだ。
やっぱり分からない。
身体は人魚の肉で形成されているとはいえ、意識はまだ人間の少女を保っている。
これから竹平に会うと思えば、憂鬱な気分に陥り――
突如として、明るくなる空。
クァンの炎だろうと目星をつけるかのえだが、人魚の怯えはクァンとは別を向く。
「っな…………なに、あれ?」
見えたのは瓦屋根の向こう、夜空を焦がす勢いで荒れ狂う炎。
「……どっかのヤツだね、ありゃ。鬼火は幽鬼には無力だが、人魚には滅法強いしな。大方、幽鬼に獲物取られて、鬱憤堪ったのが人魚でウサ晴らししてんだろ」
「……さすが…………経験のある人の言葉は重い――ぃだっ!」
ぼくっと叩かれ、恨みがましい目で睨めば、鬼の形相が忌々しそうに、別の鬼火が放つ炎を睨みつける。
「しかし……酷い炎だね。…………アタシのとよく似ていやがる」
「炎の質は鬼火の感情に左右されるからな。……ちなみに、あれはどういう感情だ?」
斬るべき対象のない、抜き身の刀を肩へ担ぎ、剣客が獲物を探しつつ近寄ってきた。あれだけ幽鬼を斬っておきながら、血も染み付いていない白刃が炎を受けて赤い光を反射している。
かのえは刃を、”彼女”は刀身に写った炎を恐れ、一歩退く。
そんな剣客も、鬼火の空色の瞳に暗く見つめられたなら、つられたように後ずさる。
「恋慕。執着。絶望。……早い話が、破れた恋の炎の成れの果て」
「…………そうか」
きっと彼女は地雷を踏んでしまったのだろう。
ねっとり絡みつく怒りから目を逸らした剣客は、引っくり返った声で言った。
「ま、まあ、なんだ。その……綾音たち、姿がないということは、無事に逃げられたのかもしれんぞ? もしかしたらすでに芥屋へ――」
「いや、待て。足跡がある」
そう言ったのは、雑談に意識の逸れた女三人とは違い、真面目に行方を探っていた凶悪な面構えの人狼。灰色の陰りの中、金の目を細めては、しゃがんだ前方を指差した。
ニオイがキツイのか、鼻面を押さえたまま。
気を遣ってくれとは言わないが、あからさまな態度で、同じ体臭と思われるニオイを嫌がられるのは、見ていてあまり気持ちの良いものではなかった。
それでも近づけば彼の言う通り、赤い足跡が二組、急ぐ形で残っていた。
しかもその先にあるのは、夜を冒す先程の大火。
「シン!」
「かのえ!」
クァンの制止を訴える声が背に届くが、走り出した足は止まらない。
”彼女”が足を止めたがっているが、構っている余裕はない。
竹平は決して、鬼火の炎を怖れる人魚ではないが。
ただの、人間なのだ。
もし、あの炎に巻き込まれていたら……。
考えるだけで、背中に冷や水を浴びせられた気分になった。
罵倒する声と共に、追いかけてくるクァンを背に、幾度となく大通りを抜けた先。
「熱っ!」
――ひっ……!
建物の陰から飛び出すなり、熱風に煽られ、手を翳せば”彼女”が慄く。
目視した分、実感する炎の危険性に、今度ばかりはかのえにも怯みが生じる。
しかし。
「シン!」
広場全体を燃やす炎の切れ間に、倒れた少年の足を見つけては駆け寄った。
内側の肉が徐々に溶けていく感覚を味わうが、知ったことではない。
今はただ、彼の安否だけを優先する。
「竹平君!」
崩れ落ちるように竹平の隣へ膝をつき、赤い髪へ手を差し込んでは、肩を抱いてぐったりした身を起こす。
呼びかけ揺すること数回。薄っすら茶色の眼が開き、
「か……のえ?」
「竹平君…………良かった」
手を握り、改めて見た彼の姿に目立った外傷はない。
少量の煤が整った顔立ちを黒く染めているくらいだ。
ほっとして抱き締める。
すると押される肩。
「離せ……」
軽い拒絶を受け、自分が今までした仕打ちを思い出した。
そしてたぶん、これからしてしまう仕打ちも一緒に描き――
仕方ないとは分かっていても、少しだけ胸が痛んだ。
が。
「……汚れるぞ、服」
「……竹平君」
「見て分かるだろ? アイツらのせいで変な斑模様になってるし。ニオイだってキツイ」
「…………ううん」
泣きたくなる。
目を覗き、考えていることを探らなくても分かってしまう、竹平の優しさ。
本当は山ほど、かのえへぶつけたい感情があるだろうに。
謝るのは全て話し終えてから。
だから今は、縋るようにその身体を抱き締めて……。
「……イイ雰囲気のとこ、悪いんだけどさぁ?」
妬ましいと響く声。
振り返ればクァンがそこにいた。
ただし、その顔はとても優しく、空色の瞳も和やかに炎を写しており、
「とりあえず、こっから引け、かのえ。このままじゃ身体、やばいだろ? ソイツも酸欠になっちまう」
「……うん」
ぶっきらぼうな声音はそのままに、心配を察しては気恥ずかしく思う。
一方、辺りを絶えず焼き続ける炎を意識に入れたなら、人魚の本能が喉を鳴らし、震えを呼び起こした。
「行こう、竹平君」
それでも疲弊しきった彼を支えつつ立てば、数歩よろめき歩いた足が止まった。
「……竹平、君?」
呼んだなら、赤い頭が勢いよく、倒れていた場所を振り返る。
かのえは反動で傾ぐ身体を抱きかかえるよう支えるが、覗き込んだ茶色の瞳はそんなこちらも自らにも構わず、辺りを忙しなく探っていた。不穏な様子に、もう一度名を呼びかけるが、また身体を捩った竹平は、クァンを見定めるとその腕を掴んだ。
「アイツ……泉は?」
「泉?…………って、アンタと一緒にいるんじゃないのかい?」
不思議な顔をしてクァンが首をかしげると、竹平はかのえに問う視線を送る。
本当か、と。
偽ったところで仕様のない話。
頷けば、竹平は再度クァンへ向かった。
「い、泉……アイツ、炎に巻かれて」
「なっ!? 退けっ!」
竹平をかのえに預けたクァンは、遅れて追いついた三人へ叫ぶ。
「お前らも退け! 泉がこの中にいるらしい! 他人の炎を操んのは難しいんだ! 飛び火して文句言われるのは冗談じゃないからね!」
顎で彼らの方を示され、かのえは炎の回りに注意しつつ、竹平を肩に三人のところまで走り寄る。そのまま竹平を人間は好きという店主へ預けては、クァンに視線を投じた。
「クァン……」
白い姿が炎の中に掻き消えて、かのえはきゅっと唇を引き結んだ。
しかし、悠長に祈っている場合ではない。
気配を感じ、”彼女”がかのえの身体を内で引っ張った。
よろけるよう下がれば、寸前までいた空間を通り過ぎた爪が、業火に沈む。
「……予想より、遅いくらい……ね?」
ひとり言のようにぽつりと言う。
だが、本当の意味で人魚を倒せる鬼火が炎に呑まれている今、タイミングが良いとも言えた。
視界の端で、剣客が構え、頭を押さえた人狼が牙を剥く。
竹平を預けた黒一色の男は――周りを気にせず彼の介抱を笑ってしていた。
――……ねえ、どうして貴女のお仲間、あんな変な人に惚れちゃったわけ?
内側に引っ込んだかのえが問えば、衣装の帯から爪を取り出し構える”彼女”が、目を彷徨わせた。
「あー……蓼喰う虫も好き? そんな感じよ。繋がりはあっても、個を持っているし。好みはそれぞれなの。だから――」
一所に視線を固定させ、黒い眼をつと細める。
そこにいたのは皮と骨を被った四人。
投げた爪を外し、悔しそうな表情を浮かべる様を笑う。
「シンを想う”私たち”を倒したところで、人魚はまだまだ海にいっぱいいるのよ」
――それはそれは……凪海の砂浜が閑散としている理由、分かったような気がするわ。
おどけたため息混じりの内へ、”彼女”は苦笑した。
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